12 静かな寄宿区
セント・アークライト女性寄宿区。
美しく刈り込まれた芝に、背の低い花を植えた花壇とベンチが並ぶ庭園。
その先に、それはあった。
白い石造りの中規模の建物。
大聖堂と同じ、洗練された美しい建物だった。小尖塔が建物から伸び、陽射しをわずかに遮っている。
中へ入ると、受付と詰め所。
職員はエドガーたちに気づくと、黙って視線だけを向けていた。
「王立裁定院法務官、エドガー・レイブンズです。
連絡差し上げておりました、アリシア・ウォルフォード嬢をお連れしました」
法務官の徽章を見せると、受付にいた男はすぐに柔和な笑みを作った。
「あぁ、法務官様。お待ちしておりましたよ」
手元のベルを鳴らすと、すぐに奥から修道女がやってくる。
彼女は、エドガー達に向かって静かに頭を下げた。
「……お預かりいたします」
「重要な証人です。よろしくお願いいたします」
修道女はエドガーの後ろにいるアリシアをちらと見る。
「ご案内いたします。お嬢様だけ、どうぞ、中へ」
背を向け、歩き出した。
アリシアは不安げな表情で、エドガーとピップを見る。エドガーが頷くと、アリシアは手荷物を抱えて、歩き出した。
一度振り返り、深く頭を下げ、修道女の後を追う。
その背を、エドガーとピップは静かに見送った。
「ピップ」
「はい」
「毎日報告も兼ねて、様子を見に行ってあげて」
「……はい」
二人は踵を返し、裁定院へと戻った。
長い石の廊下。
彫刻の施された美しい木の扉が並んでいる。
アリシアは、修道女の後をついて、静かに歩いていた。
足音が、いやに響く。
修道女は立ち止まると、ひとつの扉を開けた。
振り返り、アリシアを見つめる。
「こちらのお部屋です。――どうぞ」
アリシアが部屋に入っても、修道女は扉のそばに立ったまま。
「朝と夕に食事をお持ちします。
図書室と中庭は自由にお入りください。
――それでは」
さっと礼をすると、踵を返して去っていく。
扉が閉まる。
アリシアは荷物を抱いたまま、しばらく扉を見つめていたが、やがて、小さくため息をついた。
部屋を振り返る。
簡素な木製ベッド。書き物机と椅子。小さな洗面台。薄いカーテンのかかった格子付きの窓。
壁には宗教画がひとつあるだけ。
冷たい石床から、冷え冷えとした空気が上ってくるようだった。
アリシアは荷物を置くと、窓のカーテンを開けて外を見る。
黒鉄の柵の向こう、オルドンの街並みが見えた。
街の中心地。
石畳の通りには、馬車も人も、多くが行き交っている。
開いた窓を、ちらと見上げる人。
アリシアは慌ててカーテンを締め、背を向けた。息を吐く。
「……図書室に行ってみようかな」
部屋を出て、石床を踏む。
すれ違う修道女はアリシアに視線を向けるが、それはすぐに逸らされた。
図書室には、あまり背の高くない書棚がいくつか並んでいた。
ほの暗い部屋に敷かれた薄い絨毯。
中へ入ると、コツコツとくぐもった足音が響いた。
収められているどの本も、とても古い。
内容も神話や聖句ばかりだった。
アリシアはため息をつき、中庭に向かう。
寄宿区の出入り口を通るとき、受付の男はアリシアを見たが、彼も何も言わずに視線を外した。
アリシアも、男を見ることはなかった。
中庭は、大聖堂の広い庭園と同様に、芝が短く刈られている。
花壇には春の花々。
しゃがんで花を見つめる。
ふと、向こうから、子どもの声が聞こえた気がした。
視線を上げると、中庭の向こうには平屋の建物。
大聖堂や寄宿区と同じ石造りだが、形はずいぶんと簡素だった。
(あれが、聖ルミナ孤児院かしら……)
まだ昼前の時間だが、外に出ている子どもはいない。
人の気配はするが、妙に静かだった。
ふいに、アリシアの肩が震える。
――怒声。
孤児院の方から聞こえた大人の大声。
距離があり、なんと言っているのかはわからない。
アリシアは静かに立ち上がると、自分の腕をさすった。
――なんで、孤児院から怒声がするの……?
叱るというより、叩く前の声に聞こえた。
一歩下がった。
柔らかい芝に、足が沈む。
アリシアは踵を返すと、与えられた部屋まで走った。
部屋に入り、扉を閉める。
彼女は顔を両手で覆った。
「……父様」
つぶやきは、部屋の中で静かに沈んでいった。
翌日の午後。
外回りを一通り終えたピップは、アリシアの部屋を訪れた。
扉を開けたアリシアの顔を見、ピップはわずかに目を見開く。
いつも綺麗にハーフアップにされていた髪は、おろされたまま。
目の下にも薄くクマができていた。
アリシアはピップを見ると、ホッとしたように小さく息を吐く。
「ピップさん……。入って」
「……はい。お邪魔します」
簡素な部屋。
貴族令嬢が過ごすには、あまりにも寂しい場所だった。
ピップはアリシアのヘーゼルの瞳を見つめて、ふわりと笑う。
「……慣れない環境だと、眠れませんよね」
優しい声音。
ふいに、アリシアの瞳から、一粒だけ涙がこぼれた。
ピップは驚いて口を開ける。
「あ! ご、ごめん……! どうしよう!」
慌てるピップを見て、アリシアは少しだけ笑った。
「ふふ……。
ごめんなさい。ピップさんが優しくて、嬉しかっただけなの」
「え……」
アリシアは椅子をピップに勧めると、自分はベッドの縁に腰掛ける。
「……ちょっと、心細くて」
ピップは小さく息を吐くと、机の上を見た。
リボンと櫛、手鏡が置かれている。
自分で髪を整えようとしたが、彼女にはできなかったのだろう。
「髪、触ってもいいですか?」
アリシアはきょとんとピップを見る。
「……いいわよ」
ピップはアリシアを椅子に座らせると、その後ろに立った。
櫛でゆっくりとローズベージュの髪を梳く。
「……ピップさんは髪も結べるの?」
「難しいのはできませんけど」
(孤児院時代に、小さい子の世話もしてたから……)
艶のある髪。
孤児院の子どもも、貧民街の子どもも、こんなに綺麗な髪を持つ子どもはいない。
簡単にまとめて、あえて彼女から見える場所にリボンをつける。少しでも、気持ちが上向きになってくれますようにと。
静かにテーブルに櫛を置いた。
「……できました」
アリシアはリボンにそっと指で触れる。
頬が緩み、口角がゆっくりと上がった。
「……嬉しい」
椅子をぱっと立ち上がって、机のそばにいたピップの前に立つ。
「嬉しいわ! ありがとう!」
ヘーゼルの瞳に淡い光が差し込み、星を散らしたように輝いた。
ピップは小さく息を吐き、視線を下げる。
「……いえ」
少しだけ、頬が熱い気がする。
アリシアは櫛を掴むと、くるりとピップの背後に回った。
「私もピップさんの髪に櫛を通してみたいわ」
「え!」
ピップは思わず逃げ、髪を抑える。
「俺はいいよ!」
「あら、どうして?」
「……いいから!」
アリシアは櫛とピップを見比べ、眉を下げた。
「そ。残念だわ」
ピップがほっと息を吐くと、アリシアは口に手を当てて笑う。
「うふふ。そんなに髪をいじられるのが嫌なの?」
「そ……そういうわけじゃ」
屈託なく笑うアリシアを見て、ピップもつられるように少しだけ笑った。
部屋を辞したピップは、大聖堂の庭園を通り、門に向かって歩いていた。
街灯に明かりが灯り始める。
短い芝に、ぽつぽつと橙の光が落ちた。
ピップは、足を止めた。
大聖堂から孤児院の方へ、ゆっくりと歩く男性。
――ファーザー・エリオットだ。
相変わらず細い身体。
だけど、ちょっとだけ猫背なところも、優しげなその瞳も、少しも変わらない。
ピップは、目をそらした。
肩掛け鞄のベルトを強く握ると、駆け出す。
――俺は、孤児院を逃げた。
――顔を合わせられない。
草を踏む音。
見上げた空は、もう藍に染まっていた。
霧が滲み、星の見えない空。
だけど、月だけは、走っても走っても、ピップを追いかけてくるみたいだった。




