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歪んだ三日月 ―法務官エドガー・レイブンズと王都に棲む蛇―   作者: かも ねぎ
第一章 青の三日月 ―名を持たぬ少年の初恋―
12/67

12 静かな寄宿区


 セント・アークライト女性寄宿区。


 美しく刈り込まれた芝に、背の低い花を植えた花壇とベンチが並ぶ庭園。

 その先に、それはあった。


 白い石造りの中規模の建物。

 大聖堂と同じ、洗練された美しい建物だった。小尖塔が建物から伸び、陽射しをわずかに遮っている。

 

 中へ入ると、受付と詰め所。

 

 職員はエドガーたちに気づくと、黙って視線だけを向けていた。


「王立裁定院法務官、エドガー・レイブンズです。

 連絡差し上げておりました、アリシア・ウォルフォード嬢をお連れしました」


 法務官の徽章を見せると、受付にいた男はすぐに柔和な笑みを作った。


「あぁ、法務官様。お待ちしておりましたよ」


 手元のベルを鳴らすと、すぐに奥から修道女がやってくる。

 彼女は、エドガー達に向かって静かに頭を下げた。

 

「……お預かりいたします」

「重要な証人です。よろしくお願いいたします」


 修道女はエドガーの後ろにいるアリシアをちらと見る。


「ご案内いたします。お嬢様だけ、どうぞ、中へ」


 背を向け、歩き出した。


 アリシアは不安げな表情で、エドガーとピップを見る。エドガーが頷くと、アリシアは手荷物を抱えて、歩き出した。

 一度振り返り、深く頭を下げ、修道女の後を追う。

 

 その背を、エドガーとピップは静かに見送った。


「ピップ」

「はい」

「毎日報告も兼ねて、様子を見に行ってあげて」

「……はい」


 二人は踵を返し、裁定院へと戻った。




 

 長い石の廊下。

 彫刻の施された美しい木の扉が並んでいる。

 

 アリシアは、修道女の後をついて、静かに歩いていた。


 足音が、いやに響く。


 修道女は立ち止まると、ひとつの扉を開けた。

 振り返り、アリシアを見つめる。


「こちらのお部屋です。――どうぞ」


 アリシアが部屋に入っても、修道女は扉のそばに立ったまま。


「朝と夕に食事をお持ちします。

 図書室と中庭は自由にお入りください。

 ――それでは」


 さっと礼をすると、踵を返して去っていく。


 扉が閉まる。


 アリシアは荷物を抱いたまま、しばらく扉を見つめていたが、やがて、小さくため息をついた。


 部屋を振り返る。


 簡素な木製ベッド。書き物机と椅子。小さな洗面台。薄いカーテンのかかった格子付きの窓。

 壁には宗教画がひとつあるだけ。

 冷たい石床から、冷え冷えとした空気が上ってくるようだった。


 アリシアは荷物を置くと、窓のカーテンを開けて外を見る。


 黒鉄の柵の向こう、オルドンの街並みが見えた。

 街の中心地。

 石畳の通りには、馬車も人も、多くが行き交っている。

 

 開いた窓を、ちらと見上げる人。

 

 アリシアは慌ててカーテンを締め、背を向けた。息を吐く。


「……図書室に行ってみようかな」

 

 部屋を出て、石床を踏む。

 すれ違う修道女はアリシアに視線を向けるが、それはすぐに逸らされた。


 図書室には、あまり背の高くない書棚がいくつか並んでいた。

 ほの暗い部屋に敷かれた薄い絨毯。


 中へ入ると、コツコツとくぐもった足音が響いた。


 収められているどの本も、とても古い。

 内容も神話や聖句ばかりだった。


 アリシアはため息をつき、中庭に向かう。


 寄宿区の出入り口を通るとき、受付の男はアリシアを見たが、彼も何も言わずに視線を外した。

 アリシアも、男を見ることはなかった。


 中庭は、大聖堂の広い庭園と同様に、芝が短く刈られている。

 花壇には春の花々。

 しゃがんで花を見つめる。


 ふと、向こうから、子どもの声が聞こえた気がした。


 視線を上げると、中庭の向こうには平屋の建物。

 大聖堂や寄宿区と同じ石造りだが、形はずいぶんと簡素だった。


 (あれが、聖ルミナ孤児院かしら……)


 まだ昼前の時間だが、外に出ている子どもはいない。

 人の気配はするが、妙に静かだった。


 ふいに、アリシアの肩が震える。


 ――怒声。


 孤児院の方から聞こえた大人の大声。

 距離があり、なんと言っているのかはわからない。


 アリシアは静かに立ち上がると、自分の腕をさすった。


 ――なんで、孤児院から怒声がするの……?


 叱るというより、叩く前の声に聞こえた。


 一歩下がった。

 柔らかい芝に、足が沈む。


 アリシアは踵を返すと、与えられた部屋まで走った。

 

 部屋に入り、扉を閉める。

 彼女は顔を両手で覆った。


「……父様」


 つぶやきは、部屋の中で静かに沈んでいった。





 翌日の午後。

 外回りを一通り終えたピップは、アリシアの部屋を訪れた。


 扉を開けたアリシアの顔を見、ピップはわずかに目を見開く。


 いつも綺麗にハーフアップにされていた髪は、おろされたまま。

 目の下にも薄くクマができていた。


 アリシアはピップを見ると、ホッとしたように小さく息を吐く。


「ピップさん……。入って」

「……はい。お邪魔します」


 簡素な部屋。

 貴族令嬢が過ごすには、あまりにも寂しい場所だった。


 ピップはアリシアのヘーゼルの瞳を見つめて、ふわりと笑う。


「……慣れない環境だと、眠れませんよね」


 優しい声音。

 ふいに、アリシアの瞳から、一粒だけ涙がこぼれた。


 ピップは驚いて口を開ける。


「あ! ご、ごめん……! どうしよう!」


 慌てるピップを見て、アリシアは少しだけ笑った。


「ふふ……。

 ごめんなさい。ピップさんが優しくて、嬉しかっただけなの」

「え……」


 アリシアは椅子をピップに勧めると、自分はベッドの縁に腰掛ける。


「……ちょっと、心細くて」


 ピップは小さく息を吐くと、机の上を見た。

 リボンと櫛、手鏡が置かれている。

 自分で髪を整えようとしたが、彼女にはできなかったのだろう。

 

「髪、触ってもいいですか?」


 アリシアはきょとんとピップを見る。


「……いいわよ」


 ピップはアリシアを椅子に座らせると、その後ろに立った。

 櫛でゆっくりとローズベージュの髪を梳く。


「……ピップさんは髪も結べるの?」

「難しいのはできませんけど」


 (孤児院時代に、小さい子の世話もしてたから……)


 艶のある髪。

 孤児院の子どもも、貧民街の子どもも、こんなに綺麗な髪を持つ子どもはいない。

 簡単にまとめて、あえて彼女から見える場所にリボンをつける。少しでも、気持ちが上向きになってくれますようにと。

 

 静かにテーブルに櫛を置いた。


「……できました」

 

 アリシアはリボンにそっと指で触れる。

 頬が緩み、口角がゆっくりと上がった。


「……嬉しい」


 椅子をぱっと立ち上がって、机のそばにいたピップの前に立つ。


「嬉しいわ! ありがとう!」


 ヘーゼルの瞳に淡い光が差し込み、星を散らしたように輝いた。

 ピップは小さく息を吐き、視線を下げる。


「……いえ」


 少しだけ、頬が熱い気がする。


 アリシアは櫛を掴むと、くるりとピップの背後に回った。


「私もピップさんの髪に櫛を通してみたいわ」

「え!」

 

 ピップは思わず逃げ、髪を抑える。


「俺はいいよ!」

「あら、どうして?」

「……いいから!」


 アリシアは櫛とピップを見比べ、眉を下げた。


「そ。残念だわ」


 ピップがほっと息を吐くと、アリシアは口に手を当てて笑う。


「うふふ。そんなに髪をいじられるのが嫌なの?」

「そ……そういうわけじゃ」


 屈託なく笑うアリシアを見て、ピップもつられるように少しだけ笑った。





 部屋を辞したピップは、大聖堂の庭園を通り、門に向かって歩いていた。


 街灯に明かりが灯り始める。

 短い芝に、ぽつぽつと橙の光が落ちた。

 

 ピップは、足を止めた。

 

 大聖堂から孤児院の方へ、ゆっくりと歩く男性。


 ――ファーザー・エリオットだ。


 相変わらず細い身体。

 だけど、ちょっとだけ猫背なところも、優しげなその瞳も、少しも変わらない。


 ピップは、目をそらした。

 肩掛け鞄のベルトを強く握ると、駆け出す。


 ――俺は、孤児院を逃げた。

 ――顔を合わせられない。


 草を踏む音。

 

 見上げた空は、もう藍に染まっていた。

 霧が滲み、星の見えない空。


 だけど、月だけは、走っても走っても、ピップを追いかけてくるみたいだった。

 

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