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歪んだ三日月 ―法務官エドガー・レイブンズと王都に棲む蛇―   作者: かも ねぎ
第一章 青の三日月 ―名を持たぬ少年の初恋―
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 ピップは、いつもより少し重い鞄を抱えて、女性寄宿区の受付を通った。

 

 エドガーにアリシアのことを相談したら、本の差し入れでもしよう、という話になった。

 だから、その鞄にはエドガーが持っていた本の中でも、比較的読みやすいものを何冊か詰め込んでいる。


 それから、エドガーの下宿先の管理人であるマッケンジー夫人にも相談し、裁縫箱も貸してもらった。


 ピップが歩くたびに鞄から音が鳴る。


 扉の前に立ち、ノックをした。


 それは間を置かずに勢いよく開く。

 扉の向こうにいた髪を下ろしたままのアリシアは、にっこりと笑っていた。


「ピップさん! 待ってたわ!」

「え……」


 腕を引かれて部屋に入ると、相変わらず部屋はがらんとしていた。


「えっと……こんにちは」

「こんにちは!」


 期待のこもった目。

 

 ――よっぽど暇だったんだろうな……。


 ピップは鞄から本を取り出して机に並べた。


「エドガーさんから、差し入れです。

 ……興味ありますか?」


 アリシアは机に寄ると、本を一冊ずつ手に取った。


「詩集と……初代国王の伝記ね」

「はい。エドガーさんの所有の本なので、あまり女性が読みそうな本がなくて……」


 アリシアの口角が上がる。


「私、初代国王の話、大好きよ。

 かっこいいわよね。

 でも、子ども向けの本しか見たことがなかったから、大人向けの伝記は初めて読むわ」


 本を胸に抱いて、ふわりと笑った。


「嬉しいわ。

 法務官様にもお礼を伝えてもらえる?」


 ピップの頬も、少しだけ緩む。


 ――そっか……。


「あと……これも……良かったら。

 裁縫箱なんですけど」


 机に木箱をのせると、アリシアはそっと彫刻の施された蓋を開けた。

 中には色とりどりの刺繍糸、木枠や針が入っている。

 彼女の眉がわずかに下がった。


「……興味無かったですか?」

「あ……」

 

 アリシアは眉を下げたまま笑った。


「私、刺繍は下手くそなの。

 でも……時間だけはあるから挑戦してみるわ。この機会に上手になれるかもしれないもの」

「……はい」

 

 ――やっぱり、そうなんだ。


「髪、整えますか?」

「……いいの?」


 ピップが頷くと、アリシアは嬉しそうに引き出しから櫛とリボンを取り出して、椅子に座った。


 ピップは彼女の髪にそっと櫛を通す。

 引っかかりのない、艶のあるきれいな髪。


 ――彼女は“貴族令嬢”なんだ。

 ――当たり前に字も読めるし、嗜みとしての刺繍も学んでる。

 ――丁寧に守られてきた傷みのない髪も持っている。


 ――孤児だった自分とは、違う場所に立つ女の子なんだ。


「俺も、毎日アリシア嬢の髪を整えていたら、髪を編むのが得意になるかもしれませんね」


 アリシアが声を立てて笑う。


「じゃあ私の刺繍と、どっちが先に得意になるか勝負ね」


 二人して笑う。


 ――彼女には、俺が孤児院出身であることは、知られたくない。

 きっと、今みたいに笑ってはくれなくなる。


 髪を整え、櫛をそっと机に置く。


 お礼を言いながら振り返ったアリシアの笑顔は、ピップには眩しかった。


 彼は少しだけ、瞳を伏せた。





 また別の日。

 

「ねぇ、ピップさんは、この初代国王の伝記は読んだの?」

「……俺は読んでないです」


 ピップは、新しくエドガーから借りてきた本を鞄から取り出すと、アリシアが読み終わった本を代わりにしまっていた。


 アリシアがふいにピップの手首を掴む。


 ピップは驚いて手を引いた。


「あ……驚かせてしまってごめんなさい。

 もし、良かったら一緒に読まない?

 ……本当におもしろかったの」


 アリシアはピップがしまいかけていた初代国王の伝記を手に取ると、ベッドの縁に腰掛けた。隣をぽんぽんと叩く。


 ピップは少し迷って、アリシアの隣に座った。

 アリシアは、二人の間に本を置いて開く。

 彼女の髪から、淡い甘い香りがふわりと舞った。


「お父様が騎士だからか、武人や剣士の話は面白く感じるわ。

 初代国王は武人ですもの。だから楽しいのよ」

「エドガーさんもそう言ってました。アリシア嬢は騎士物語が好きかもしれないって。

 だから新しく持ってきた本は騎士物語や冒険譚です」


 アリシアが顔を上げると、彼女のヘーゼルの瞳と、ピップの栗色の瞳がまっすぐに交わる。

 彼女はふわっと笑った。


「本当? 楽しみだわ」

 

 ピップは先に視線を外して、本の文字を追った。

 アリシアが、指先で文字を指す。


「ねぇ、ここ、読み上げてみて」

「え……俺が?」

「そうよ」


 ピップは小さく息を吐くと、胸に手を当て、声を低くした。

 

「“我はアーサー・ヴァレンタイン。この国を統べる者なり”」


 アリシアが弾けるように笑う。


「あっはははは」

「なんで笑うの!?」

「ピップさん、格好いいわ!」

「全然格好いいって思ってないでしょ」

 

 笑い止まないアリシアを横目に、ピップはわざとらしくため息をついた。

 そして、彼も笑った。


「俺に初代国王の真似は荷が重いよ」

「思ったより本気で読み上げてくれたから、嬉しかったのよ」

「あ、そういうこと?」


 二人は声を揃えて笑う。


 ピップは本の頁をぱらぱらとめくった。


「どこかに女性の台詞はないの?」

「女性はほとんど出てこなかったのよね。街娘がどこかにいた気がするわ」


 二人で本を覗き込み、互いの頭がコツンと当たる。


 顔を上げ、目が合い、二人はまた笑った。





 帰り道。


 ピップは鞄のベルトを強く握った。

 一緒に本を読んで笑い合うなんて、彼には初めての経験だった。


 ミストラッツでは、文字が満足に読める子どもはほとんどいなかった。

 覚えたいという子どもには、ピップが教えたりもしたが、それでもスラスラと本が読める子どもはいない。


 白い石畳をブーツが打つ。

 履き慣れて、少し先が擦れた黒いショートブーツ。

 裁定院で働くようになってから新しく与えられたものだ。

 

 ガス灯の下で、立ち止まる。


 裁定院は格式高い組織だ。


 法務官は貴族出身者ばかり。

 調査官であるルシアンは庶民だが、それでも庶民の中ではかなりの高給取りと言えた。


 ピップも、このまま裁定院で働き続ければ、法務官にはなれなくとも庶民としては悪くはないだろう。


 だが、“孤児院出身”である過去は、消えない。

 孤児院を逃げ出したことも。

 貧民街で乞食をしていた日々も。


 アルストリア王国にいる限り、この過去からは逃げられない。


 ピップは眉を強く寄せた。

 涙が溢れそうになって、必死で我慢する。


 橙の明かり。

 足元は、それでも暗かった。


 ピップは夜の貌になり始めたオルドンの街を駆けた。

 

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