8 少女の記憶
扉が開く。
窓際にいたエドガーがそちらに目を向けると、ルシアンが制服の襟元をいじりながら法務官室に入ってきた。
琥珀色の瞳の視線が上がる。
「よぉ、相棒」
窓から差し込む霧に濾された淡い光。
それは、木床をかすかに白く滲ませていた。
大股で机に歩み寄る彼に目をやり、エドガーは読んでいた資料を机に置くと、体の前で指を組む。
わずかに口角を上げて、首を傾げた。
「……何かあった?」
ルシアンはエドガーに調査書を手渡すと、姿勢を正し、群青の瞳をまっすぐに見つめる。
彼の銀ボタンが、鈍く光を返した。
「……アリシア嬢を保護してやれないか」
エドガーは静かに、ルシアンの琥珀の瞳を見返す。
「ウォルフォード卿の話では、アリシア嬢は誘拐されかけたそうだ。
彼は使用人も信じられなくなって、かなり疲弊してしまっている」
時計の針の音。
エドガーは、指先で静かに書類の文字をなぞった。
「……なるほど」
琥珀の瞳がエドガーの指先を見つめた。
エドガーはそっと書類を机に置くと、その指先は顎に添えられる。
黒髪が、背でわずかに揺れた。
「……書かないのか?」
少しだけ開けられた窓から風が吹き込み、窓枠が小さく鳴る。
「何を?」
ルシアンは机の引き出しを指さした。
「……いつもなら、急報便専用紙を取り出して、セント・アシュウェル女子修道院宛ての依頼書を手早く用意するじゃないか」
エドガーは、小さく首を傾げる。
「……まずは、アリシア嬢に話を聞いてみたい」
椅子の軋む音。
エドガーは、静かに腰を下ろした。
「何かの情報に触れてしまったのは、アリシア嬢なのかもしれない」
机の上でそっと指を組む。
「そうであるなら、彼女は当事者だ。
セント・アシュウェル修道院は、確かに素晴らしい保護施設だが、少し遠すぎる」
群青の瞳が持ち上がる。
琥珀の瞳と交わると、エドガーは小さく口角を上げた。
「まず、二人を召喚して、話を聞いてみよう」
◇
小さな足音が鳴る。
聴取室の木床を踏んだアリシアは、わずかに息を飲んだ。
無意識に、隣に立つ父ローワンの肘に触れる。
部屋の中央に置かれた、装飾のなされた椅子は二脚。
前方には大きな法務官机。
後方には書記官机が置かれ、その前では書記官が静かに立っていた。
窓から差し込む明かりは弱く、影は鈍い。
壁にかけられた時計の針の音が、いやに耳につくようだった。
「どうぞ、おかけになってお待ちください」
書記官に促され、ローワンとアリシアは並んだ椅子に腰を下ろした。
膝の上においた手が、震える。
ローワンはアリシアの手に自分の手を重ねると、そっと叩いた。
「……大丈夫だから」
アリシアが視線を上げると、ローワンの優しげな瞳。だが、それは以前より落ちくぼみ、目の下の隈ははっきりと黒くなっていた。
「……父様」
すぐに扉が開く。
「お待たせしてしまいました。
おはようございます。ウォルフォード卿、アリシア嬢」
落ち着いた低い声。
長髪を首の後ろで一つに縛り、背に垂らしたエドガーは、静かに扉のそばに立った。
ローワンが頭を下げ、アリシアも慌てて頭を下げた。
少女は顔を上げる。
黒髪の法務官の後ろには、ピップがいた。
彼のくるくるとした髪は首の後ろで小さくまとめられているが、前髪は歩く度にかすかに揺れる。
アリシアは小さく息を吐いた。
エドガーは法務官机にはつかず、まっすぐにアリシアの前に来ると、腰を落として、軽く片膝をついた。
柔らかく微笑み、アリシアと目線を合わせる。
「今日は、少し貴女からお話を伺いたいのです」
アリシアは視線を少し彷徨わせ、エドガーの後ろにいるピップを見た。
栗色の瞳が一瞬だけ見開かれる。
遅れて、柔らかく細められた。
ピップが、小さく頷く。
わずかに、アリシアの頬が緩んだ。
彼女は両手を胸に当て、息を細く吐く。
そして、エドガーをまっすぐに見つめ返した。
「……はい」
彼は、首を小さく傾げる。
「ここ最近で、何か特別なものや、人を見たことはありますか?」
アリシアは眉を寄せる。
エドガーは柔らかく笑んだ。
「では、日頃、アリシア嬢は、どのように過ごされていますか?」
アリシアは視線を落として、自分の指先を見る。
「……午前中は、家庭教師の先生がいらして、授業をしてくださいます。
午後は、お庭でお茶を飲んだり、ベイカーと少しだけ散歩に出かけたりします」
「散歩はどちらへ?」
「近所の小さな公園か、王立自然公園ばかりです」
エドガーは小さく頷く。
「今は花が美しい季節ですからね」
「はい。ミモザがきれいです……」
アリシアは小さく息を吐いた。
隣の父を見ると、小さく頷きあう。
「……ミモザといえば、日曜礼拝の日は父様と礼拝堂へ行きます。
――あ……」
彼女は、膝のスカートを小さく握りしめた。
「荷馬車……」
アリシアは俯き、ローズベージュの髪が肩から滑り落ちる。
「……荷馬車?」
エドガーはローワンを見たが、ローワンは小さく首を振った。
「少し前……。
荷馬車に積まれた荷物に、青い三日月の印があって……。きれいだなって見てたら、男の人と目が合いました。
なんだか……少し……怖かったのを覚えています」
書記官のペンが紙を滑る音が、部屋に落ちる。
「その男の人はすぐにいなくなったから、忘れていましたけど……」
「どんな男の人でしたか?」
「目の横に小さな傷がありました。鳶色の短い髪で黒い目の人……」
そこまで話すと、アリシアは唇を噛んだ。
「……そうでしたか。
お話をありがとう。
何か思い出しましたら、また教えてください。
――些細なことでも構いません」
少女は小さく頷く。
エドガーは静かに立ち上がった。
「ウォルフォード卿、少しお時間をいただいても?」
「はい」
「レーン補助員。
アリシア嬢を待合室へご案内してください。
私はもう少しウォルフォード卿と話をします」
「はい」
ピップは頷き、アリシアを促して席を立たせた。
二人が部屋から出るのを確認し、エドガーは改めてローワンに視線を向ける。
「……ウォルフォード卿。
アリシア嬢を、こちらの権限で保護します。王都、セント・アークライト大聖堂の女性寄宿区に匿うつもりです。
――いかがでしょうか」
ローワンは、エドガーの群青の瞳を見上げた。
椅子を立ち、深く頭を下げる。
「……よろしくお願いします」
「お任せください。
早急に手配いたします」
窓の外。
濃い霧ばかりが、そこにあった。




