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歪んだ三日月 ―法務官エドガー・レイブンズと王都に棲む蛇―   作者: かも ねぎ
第一章 青の三日月 ―名を持たぬ少年の初恋―
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7 雨の邸宅


 雨が、石畳を打っていた。

 

 すれ違う馬車の跳ねる泥を避けながら、ルシアンは石造りの邸宅の前で足を止める。


 中流住宅街にひっそりと建つ、一軒家。

 近くで流れるグレイブ川の音が、雨音に混ざって聞こえてくる。


 簡素な門、小さな前庭。

 石の玄関段を上る。

 真鍮のリングノッカーを持ち上げ、木の玄関扉を叩いた。


 重い音が、静かに響く。


 だが、しばらく待っても、扉は開かない。


 ルシアンは小さく首を傾げた。

 金の短髪から雨粒が滴る。


 彼は胸ポケットから、メモを取り出し、確認した。


「……今日、この時間で間違っちゃいないよな」


 メモをしまい、もう一度ノッカーを鳴らした。

 

 雨の音。

 屋根を伝い、大きくなった雫が地面へ落ちる。

 石畳の上に、薄い靄が溜まり始めていた。


 やはり、扉は開かない。

 ルシアンは、もう一回、鳴らす。

 重い音が、邸宅の奥へ吸い込まれていく。


 小さく息を吐き、腰に手を添える。


「……出直すか」


 踵を返しかけると、扉がやっと開いた。


「ヴェイル調査官殿、遅くなって申し訳ない」


 ルシアンはわずかに目を見開いた。

 扉を開けたのは、この邸宅の主人であるローワン本人だったからだ。





 足音がやけに響く。

 ローワンの後をついて、ルシアンは木板の廊下を歩いていた。

 壁に並ぶ額縁には、うっすらと埃が積もっている。


 ――静かすぎる。


 ひとつの扉の前でローワンが立ち止まると、押し開けた。


「……どうぞ」


 中へ入る。

 

 薄暗い部屋。

 質素な応接間の窓は、カーテンが閉め切られていた。


 ルシアンが扉の近くで佇んでいると、ローワンは足早に窓に寄り、カーテンを開けてオイルランプに火をともす。


 促され、ルシアンはソファに座った。

 

 硬めの座面。

 ローテーブル上の花瓶の花は、しおれかけている。

 

 奥で口を開けている暖炉上のマントルピースには、いくつか物が置かれている。しかし、オイルランプの明かりは、そこにただ影を作っているだけだった。


 廊下から、急ぐような足音。


 ノックの音。

 執事であるベイカーが現れ、姿勢を正してルシアンに一礼した。


 迷いのない所作で茶を淹れた後、彼はすぐに踵を返して去っていく。


 扉が閉まる。

 また、その足音は急ぐように遠ざかっていった。


「……ヴェイル調査官殿。驚かれたでしょう」


 ルシアンの向かいに腰掛けたローワンが、苦く笑った。

 目の下の濃いクマが、どうにも痛々しい。


「……いえ、こちらこそ。

 忙しい中お時間をいただいてしまい……」


 ローワンは手を上げて、ルシアンの言葉を止めた。


「こちらこそ、ご足労いただいているのに、待たせてしまうとは、情けない。

 ……実は使用人のほとんどに暇を出してしまって」

「……それは」


 ローワンは静かにルシアンを見た。


 オリーブグリーンの制服には、高権限を示す徽章。

 軍服に似ているが、よりしなやかな生地。カフスに銀の装飾線が入ったそれは、誰にでも許される服ではない。


 厚い胸板に、美しく伸びた背筋。


「……ヴェイル調査官殿は、軍人か騎士をされていたご経験でも?」


 ルシアンは静かに頷いた。


「軍に」

「やはりそうでしたか。歩き方が、経験者のそれでしたので」


 ルシアンが柔らかく笑むと、ローワンの肩が、少しだけ緩む。


 部屋にまで滑り込んでくる雨音。

 ローワンは俯き、膝の上で拳を強く握った。


「……娘が、攫われかけて。

 疑心暗鬼になってしまい……」


 ルシアンは小さく息を呑む。


「……それは、いつですか?」

「つい先日の、日曜礼拝の時です」

「……詳しく状況を伺っても?」


 ルシアンが胸ポケットからメモと鉛筆を取り出すと、ローワンはそれをちらと見て、また視線を落とした。


「文書偽造の件で訴えられる少し前から、ずっと視線は感じていたのです。

 しかし、目的も、何者であるかも、私ではつかめなかった」


 鉛筆が紙を擦る音。


「……先日の礼拝の後、広場で。

 私は娘から目を離してしまったのです。

 ……しかし、彼女には護衛として使用人をつけていました。

 でもその使用人は彼女を守らずに姿を消し、私が気づいた時には、アリシアの腕をつかむ男がいた。

 私が近づくと、男はすぐに逃げました」


 ローワンは手で額を覆った。


「もう、誰を信じればいいのか分からず……。

 ベイカーだけを残して、残り全ての使用人を辞めさせました」


 ガスランプの灯りが揺れる。


「私は騎士です。外に働きに行かねばならない。娘のそばにずっとついてはやれない。

 妻も身体が弱く、田舎で療養中だ」


 細い、ため息が漏れた。


「なぜアリシア嬢が狙われたのか、お心あたりはありますか?」

 

 力なく、手を膝に置いたローワンは、ルシアンを見る。

 窓では、雨粒がガラスに当たっては砕けていた。


「いえ。

 ……しかし、以前からの視線は、私ではなくアリシアを見ていたのかもしれない……」


 ルシアンはメモと鉛筆をしまうと、膝に手をつき、ローワンの顔を覗き込むように腰を少しだけ屈めた。


「ウォルフォード卿。

 レイブンズ法務官に相談してみませんか。彼なら、法務官権限でアリシア嬢を保護することができる」


 ローワンが、ゆっくりと視線を上げる。

 

 雨音。

 時計の針の音。


 オイルランプの火が、二人の影を揺らした。

 

「……娘を……守れるなら」

「すぐに話を通します。

 もう数日だけ、耐えてください」


 ローワンの顔が歪む。

 彼は俯き、深く頭を下げた。


「……ありがとう」


 雨の音は、絶え間なく邸宅の石壁を打ち続けていた。


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