6 花壇の影
指が文字をなぞる。
窓から差し込む光に、机上は白く滲んでいた。
そこには、軍監査局をはじめ、各部署から取り寄せた資料が積まれている。ベルテン侯爵家の帳簿、登記局の記録、軍補給物資の輸送記録、そして納税記録。
「ガロウ商会……?」
エドガーは、群青の瞳をかすかに細める。
ベルテン侯爵家による命令書により、侯爵家御用達商会から補給商会へ物資が渡り、それは補給地へと輸送されていた。
この“補給商会”は、本来、固定されることが多い。
――今回だけ、ガロウ商会。
登記簿をめくる。
――小規模な商会。倉庫も小さく、人員も少ない。
――軍需輸送を担うには、規模が小さすぎるのではないか。
納税記録。軍輸送を請け負う商会は納税額が大きいはずだ。
――だが、税額が小さい。
小さすぎる商会が、大きすぎる仕事をしている。
「……隠れ蓑か」
軍補給物資の輸送記録を追う。
ガロウ商会が補給拠点へ運んだ後、港から物資が出た記録がない。
軍監査局記録も輸送経路、補給拠点も実在し、印章も、コードも本物。間違いはないだろう。
――命令書だけが偽造されたもの。
エドガーは資料を丁寧に重ねた。
腕を組み、手を顎に添える。
――もし単なる密輸なら、ここまで書類を整える必要はない。
――商会規模の犯罪にしては、手が込みすぎている。
「……でも、彼なら」
エイドリアン・レンドールは、かつてエドガーが裁ききれなかった男。
彼は、過去に軍監査局の印章を偽造していた。
――軍補給システムに精通した彼なら、容易にできる。
細く、わずかに震えた息を吐く。
――やはり、彼が背後にいるのかもしれない。
扉が開いた。
エドガーが顔を上げると、陶器の白いカップを持ったピップが部屋に入ってくる。
立ち上る湯気。
冷えた空気を、紅茶の香りが押し流した。
「エドガーさん、お茶をお持ちしました」
ピップのそばかすが散る頬が緩むと、エドガーもつられるように口角を上げる。
「ピップ、ありがとう」
彼が歩くたびに、くるくるとした前髪が揺れた。
エドガーは資料を端に置き、カップを受け取る。
茶色の瞳と目が合えば、ピップはふわりと笑った。
「ピップ……。ここへ来てから、やっぱり背が伸びたんじゃないかな」
「……そうですか?」
ピップは自分の頭に手をのせた。
「エドガーさんくらい、俺も伸びますかね?」
エドガーは立ち上がり、ピップに並ぶと腰に手を添えた。
口角を上げて、笑ってみせる。
「僕は意外に背が高いよ」
「あはは。抜かすのは無理かも」
少年の笑い声が、部屋に満ちた。
紙束に湯気が触れ、わずかにパラリと鳴る。
◇
採石場からそのまま切り出されてきたかのような灰色のレンガ。
それが丁寧に積まれて造られた礼拝堂。
小鐘楼は、春の日差しに淡く霞んでいた。
霧が淡く濾す空に、雲が渡っていく。
大きな木の扉が開いた。
日曜礼拝を終えた人々が広場に集まり、思い思いに輪を作っては、会話に花を咲かせ始めた。
「アリシア、私から離れないように」
「はい。父様」
ローワンがそう言うと、アリシアは頷いた。
広場の端に並ぶ荷馬車。
行き交う人々。
小さな子どもたちが、手をつないで駆けていた。
はしゃぐ声が空に響く。
「アリシア! お花を見に行こうよ!」
人の輪から飛び出してきた友人が、アリシアの手を引いた。
「え……でも……」
礼拝堂の塀の内側には、背の高いミモザが生えている。
ふわふわとした黄の小花がいくつも付き、大きく伸ばした枝をたわませていた。
ローズベージュの髪を揺らして振り返ると、ローワンは近所の老人と話をしている。だが、アリシアたちと共に来た使用人は、彼女のそばにぴたりとついていた。
――すぐそこなら、いいよね?
――一人じゃないし。
「うん」
友人と連れ立って、ミモザの下へ。
塀のすぐそばに造られた細長い花壇には、ラッパスイセンがずらりと並んでいた。
「春の黄色」
「きれいね」
ラッパスイセンに導かれるように、花壇沿いに歩く。
黄色と緑と、空。
オルドンの長い冬が終わったことを教えるその色に、アリシアはつい頬を綻ばせた。
ふと、顔を上げる。
ミモザが遠い。
友人も、使用人もいない。
アリシアはいつの間にか人の輪を離れてしまっていた。
戻ろうと踵を返そうとした、その時――
腕をつかまれた。
顔を上げる。
――知らない男。
春だというのに、男は、厚いオーバーフロックコートを着ている。
帽子を深く被り、目元は見えなかった。
腕を強く引かれるが、声が出ない。
足がもつれ、転びそうになる。
「アリシア!」
ローワンの声。
男が手を離し、アリシアはその場に倒れ込んだ。
砂がわずかに舞う。
駆けつけたローワンに抱きかかえられながら立ち上がるが、男の姿はもう、人の中に溶けていた。
「アリシア! 怪我はないか」
ヘーゼルの瞳をローワンが覗き込む。
アリシアは、小さく首を振った。
「……父様、ごめんなさい」
指先で、ローワンのコートを強くつかむ。
「……お前には使用人をつけていたはずなのに」
ローワンは、アリシアを強く抱きしめた。
その手が、ひどく震えている。
アリシアはローワンの胸元で、息を止めた。不安が、体中から溢れてしまいそうになる。
掴まれた腕が、わずかに痛む。
スイセンの花が、風に小さく揺らされていた。




