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歪んだ三日月 ―法務官エドガー・レイブンズと王都に棲む蛇―   作者: かも ねぎ
第一章 青の三日月 ―名を持たぬ少年の初恋―
5/6

5 霧の向こうの影


 ピップは、待合室のカーテンを開けた。

 窓の外では霧が薄れ、青空が澄んで見える。

 

「いいお天気ね」

 

 アリシアはピップの隣に立つと、並んで空を眺めた。ハーフアップにされたローズベージュの髪がかすかに揺れる。


 今日もローワン・ウォルフォードが聴取に呼ばれ、彼女はここで待つことになった。

 ピップは彼女から少し離れて立つ。


「……お茶をお持ちしましょうか」


 少女は、目を柔らかく細め、首を振った。


「いらないわ。ピップさん、ここにいて、お話してくれる?」


 ピップは眉を下げ、小さく首を傾げる。


「ねぇ、あの街路樹の葉、本当に大きいわね。ここへ来る途中に見かけて、驚いたわ」

 

 彼女がガラス窓に手を触れ、向こうの並木道の木を指さす。

 ピップも首を伸ばしてそちらを見た。


「……プラナタスですね。大きな街路樹です。“哲学の木”と呼ばれています」

「まぁ! そうなの。あまり裁定院の近くに来たことがなかったから、初めて見たの」

「あの大きな葉の下で、古代の哲学者たちが語り合っていたそうです。

 だから――“哲学の木”」


 アリシアがぱっとピップの方を向く。

 ヘーゼルの瞳に光が差し込み、星のように瞬いた。


「すごい! 詳しいのね!」


 ピップは慌てて首を振る。


「いえ! エドガーさん……レイブンズ法務官殿から教えてもらっただけなんです」


 アリシアが一歩ピップに近づく。

 ピップは驚いて一歩下がった。


「それをちゃんと覚えているのが、素晴らしいのよ。

 私なんて、家庭教師の先生に教えてもらったこともすぐに忘れて、何度も注意されたわ」

 

 無邪気に笑うアリシアに、ピップは小さく息を吐いた。

 隣に歩み寄り、窓を押し開ける。


 春の柔らかい風が、二人の髪をふわりと舞い上げた。


「あの木、秋になるとこんなに大きな葉を落とすんです」


 ピップは手を広げて、アリシアに見せた。

 アリシアも、それを真似て手を広げる。


「こんなに? 見てみたいわ」


 目を細めてアリシアが笑い、ピップもつられるように笑った。

 どこかで咲く花の香りが、風にのって二人のもとに届く。


 ピップはほんの少しだけ、目を細めた。





 エドガーが聴取室に入ると、すでにローワン・ウォルフォードは席についていた。


「おはようございます。ウォルフォード卿」


 エドガーが柔らかく笑んでそう言うも、ローワンはゆっくりと顔を上げ、頭を下げただけだった。


 目が落ちくぼみ、その下には濃いくまができている。

 

 エドガーは席にはつかず、ローワンの脇に立った。

 そして、少しだけ腰を屈め、その目を覗きこむ。


「……どうされました」


 静かに問うと、ローワンは首を振った。


「……何も」


 ローワンは乾いた唇を舐め、瞳を伏せる。


「……何もないのです。法務官殿」


 エドガーは、目を細めた。

 時計の針の音が、ひとつ、時を刻む。


「……何かあれば、ご相談ください。お力になれるかもしれません」


 ローワンはゆっくりと視線を上げた。その瞳は、光を吸うように、まるで何も映っていない。


 彼はまた、視線を下げた。


「……はい」

 

 エドガーは一度頷くと、背筋を伸ばし、法務官席に向かった。

 椅子を引く音が、やけに響く。


「それでは、聴取を始めます」

 

 書記官のペンが紙に擦れる音。

 それだけが、聴取室に落ちた。



 ◇



 ノックもなしに扉が開く。


 エドガーの法務官室に入ってきたのは、オリーブグリーンの制服を纏った金髪の男。

 外部調査局所属の特別調査官――ルシアン・ヴェイル。

 エドガー専属の現地調査担当官だ。


「よぉ、エドガー」


 机に向かって書き物をしていたエドガーは顔を上げ、柔らかく笑う。


「ルシアン、今日もいい天気だね」


 ルシアンの琥珀の瞳が、エドガーの背後の窓を見る。

 そして片眉を上げた。


「霧で向こうが見えないことを“天気がいい”っていうのか?」


 大股で法務官机に寄りながら、ルシアンは肩をすくめた。

 エドガーは机に肘をつき、小さく笑う。


「僕だって秋以外で霧のないオルドンなんか見たことがない。

 ――暖かいって意味だよ」

「あぁ、なるほどな」


 ルシアンは、脇に抱えていた革の書類ケースから調査書を取り出し、エドガーの手元に置いた。

 部屋の隅に避けられていた予備の椅子を引っ張り出して机の前に置き、それに腰掛ける。


「ローワン・ウォルフォードだが、エドガーの予想通り、“善良な騎士”だ」


 エドガーは調査書を手に取ると、素早く文字に目を走らせた。


「真面目で人望も厚い。だが、目立つほどの人物ではないし、野心家とも言えない。

 悪い言い方をすれば“小さくまとまっている”ような男だ」

「守るべき家族や市民がいる。全く欠点ではない」


 エドガーがそう言うと、ルシアンも頷いた。


「もちろんだ。俺もローワンには好感を持った」

「……だが」

「そうだ。だが――

 エドガーは彼が濡れ衣を着せられたと思ってるんだろう?」


 エドガーが顔を上げると、ルシアンの琥珀の瞳とまっすぐに視線が交わる。


「……俺にはローワンが恨みを買うような人物だとは思えなかった」


 エドガーは小さく息を吐くと、席を立ち、窓辺に寄る。

 窓ガラスに指で触れた。

 それは春であっても、指先を冷たく湿らせる。


「……“恨み”か、たまたま都合のいい場所に彼がいただけ。

 ……もしくは」


 ルシアンは腕を組み、静かにエドガーを見つめた。


「知らずに、何かの情報に触れてしまった」


 霧の向こう、かすかに見える黒い尖塔。

 

 ルシアンは金髪をかきあげた。


「だとしたら、ローワンの近辺から探るより、視点を変えたほうがいいかもしれないな」

「君は偽造された方、ベルテン侯爵について調べてくれ。

 僕は偽造書類を精査する」

「ベルテン侯爵……お前はもう会ったのか?」

「会っていない。聴取に呼んで応じたのは代理人の男だけだった」

「まぁ……“侯爵”だからな」


 その時――ノックの音。


「レイブンズ法務官殿。ご在室でしょうか。

 お客様をお連れしました」


 二人は目を見合わせる。エドガーは首を振った。


「……どうぞ」


 エドガーが声をかけ、ルシアンが扉を開けに立つ。


 扉の向こうに立っていたのは、松葉杖をついた筆跡鑑定士イーサン・マルブリーだった。

 彼は助手の青年に支えられながら、室内に入ってくる。


「マルブリー先生。怪我をされたのですか」


 エドガーは駆け寄り、イーサンはルシアンと青年の手を借りて椅子に座った。

 いつも丁寧に撫でつけられていた髪は、わずかに乱れている。


「レイブンズ法務官殿。突然押しかけて申し訳ない。しかもこんな姿で……」


 彼は顔を上げた。


「……私はしばらく田舎に戻り、療養します」


 エドガーはしゃがんで、イーサンに視線を合わせる。

 イーサンは、エドガーの肩を強く掴んだ。

 その指先が、ひどく震えている。


 彼は、声をひそめた。

 

「……走る馬車に向かって、誰かに背を押されたのです。

 “手を引け”と、囁かれ――」


 誰かが息を飲む音。


「辛うじて助手の彼が助けてくれたので、足の怪我だけで済みましたが……。

 家族も、鑑定研究院の職員も……私は守らねばならない。

 軟弱者だと罵ってくれても構いません……」


 エドガーは眉を寄せ、首を振った。


「そんなこと」

「レイブンズ法務官殿。

 ――貴方も気をつけられた方がいい。

 この事件……普通ではないかもしれない」


 イーサンはそれだけを言うと、助手の手を借りて立ち上がる。

 エドガーに背を向けた。


「……申し訳ない」


 細い背中は、頼りなげに丸められる。


「先生……」


 木床に足音が落ちる。

 鑑定士とその助手は、部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


「……エドガー」


 しゃがみ込んだままのエドガーの肩に、ルシアンが手を置いた。


「……ルシアン」


 立ち上がり、琥珀の瞳を見る。

 

「……彼かもしれない」

「彼?」


 群青の瞳に、青い炎が揺らぐ。


「まだ……勘に過ぎないけど。

 背後に彼がいる可能性を、僕は考えている……」

「……卿か」


 エドガーは頷く。


 窓の霧の向こうには、尖塔の影。

 馬車の音が、滑り込んでくる。


 背の黒髪が、かすかに揺れた。


 

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