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歪んだ三日月 ―法務官エドガー・レイブンズと王都に棲む蛇―   作者: かも ねぎ
第一章 青の三日月 ―名を持たぬ少年の初恋―
4/6

4 偽りの署名


「どうぞ」


 ノックの音に応えてエドガーが法務官室の扉を開けると、廊下に立っていたのは、細身の中年の男だった。

 エドガーに向かって深く頭を下げた男の焦げ茶の髪は、しっかりと撫でつけられ、淡い光を受けて滑らかに光っている。

 案内してきた書記官にエドガーが礼を言うと、男は静かに部屋に入ってきた。

 靴の音がわずかに木床に響く。


「レイブンズ法務官殿、いつもお世話になっております」

 

 伸ばされた背筋。

 低く、澄んだ声。

 だが、その声は、どこか揺れていた。


「マルブリー先生、こちらこそ。

 いらっしゃるとご連絡は頂いておりましたが、どうされました?」


 ――彼は、筆跡鑑定士イーサン・マルブリー。

 王立裁定院の案件を長年に渡り多く扱ってきた実績のある男だ。


 イーサンは帽子と杖を手に持つと、少しだけ視線を下げた。

 エドガーは椅子を彼に勧めるが、イーサンは静かに首を振る。


「レイブンズ法務官殿。忙しい貴方の時間を頂戴するのは気が引けました。

 だが……お伝えしたいことがありまして」


 エドガーも彼の前に立ったまま、指を組んだ。


「軍事物資輸送命令の偽造の件でしょうか?」

「えぇ」


 イーサンは窓に視線を向け、椅子の近くに鞄をおいた。


「……レイブンズ法務官殿、窓とランプに触っても?」

「えぇ、どうぞ」


 彼は窓に向かって歩くと、カーテンを閉める。


「私の鑑定では、当の侯爵家の署名は偽造されていた。それは確かです。

 偽装した人物として、ウォルフォード家の執事が該当しました。

 ――だが」


 イーサンは机上のオイルランプに火を入れた。

 鞄から数枚の紙とルーペを取り出す。


「……見ていただきたい」


 取り出した紙のうち、二枚の紙を重ねてランプにかざし、ルーペを当てた。彼は、エドガーを振り返った。

 エドガーは静かにそれを覗き込むが、眉をわずかに寄せて鑑定士を見る。


「……先生。私には鑑定の知識がありません。ご解説いただけますか」

「もちろんです」


 ランプの明かりが二人の男の顔を、ゆらりと照らしていた。


「この二つの署名を重ねて光に透かすと、文字の影が重なり合う。

 だが、完全には重ならない。人であれば、自分の字であっても、必ず揺らぎがあるものです。

 だが偽造の場合、文字は書かれたのではなく写し取られる。

 その場合、この影がほぼ重なるのです」

 

 エドガーは静かに二つの署名を見つめる。


「その形跡を、我々鑑定士は探す」

「……こちらの署名は、そもそも別の署名のようですが」


 イーサンはわずかに息を詰めた。


「そうです。偽造された署名と、ウォルフォード家の執事の署名です。だが、“r”など特にそうですが、文字の形が重なる」

「……そのようですね」


 エドガーが彼の茶色の瞳を見つめる。映り込んだ署名が、瞳の奥でかすかに滲んでいた。


「まず、侯爵家の署名ですが、似せようという意図が感じられない。筆跡そのものはまさに、ウォルフォード家の執事のものです」


 イーサンは執事の署名が書かれた別の紙を持ち上げる。


「だが、彼の字にしても……揺らぎが美しすぎる。

 何者かが、鑑定士がどのように鑑定しているのかを知り、あえて差をつけているように、私には見えてしまった。

 少し、筆跡が本来の筆跡より硬いのです。

 ですが、“偽造署名”です。

 本人が日頃よりも緊張していたのかもしれない」


 イーサンはゆっくりと、細く息を吐いた。


「だから、不自然ではないはず。

 だが、何か不自然だ」


 イーサンが机にルーペを置いた。

 かすかな音が部屋に落ちる。


「もしかして、ウォルフォード家の執事の筆跡を真似て、何者かが侯爵家の署名を偽造したのでは……。

 しかし、それはさすがに、手が込みすぎている気もする」


 彼は片手を上げて瞳を伏せた。

 腰にあてられた指先が、わずかに白くなっている。


「いや、……申し訳ない。こんな曖昧なこと……」


 鑑定士は紙束をまとめ直して机上に置くと、机を回り込んでカーテンを開けた。

 エドガーはオイルランプを消す。


 霧に濾された光は淡く、室内を静かに満たした。


 イーサンはエドガーの前に戻ると、苦く笑う。


「鑑定書に書くほどの確証はなかったのです。所詮“勘”ですから。

 だから、こうして“雑談”をしに参ったのです」

「……そうでしたか」


 エドガーは机の上の署名を取り上げると、視線を落とした。


 ――もしかして。


 視線を上げ、イーサンを見る。


「……心に、留めておきます」

「……はい」


 窓の向こうは霧で白く、今日は遠くの尖塔群が見えない。

 どこかで、馬車の音がした。

 



 聴取室。


 老齢の男は、一度目を強く伏せた。

 銀灰の髪は撫でつけられ、きっちりと整えられた白いシャツに黒いウェストコート。同色のフロックコート。

 しっかりと伸びた背筋。

 時を経た額のしわは、長く忠誠を誓ってきた男の顔を作っている。


 瞳を開け、彼はまっすぐにエドガーを見た。

 法務官席につき、指を組んでいたエドガーはその視線を静かに受けとめる。


「……私は決して、旦那様を裏切るようなことはいたしておりません。

 その書類を見たこともなければ、署名など、したこともありません。

 神に誓ってもいい」


 ウォルフォード家の執事、ベイカーは、低い声でそう言い切った。


 揺らぎのない視線。

 膝の上で、彼は白手袋を強く握っている。

 深い、静かな呼吸。


 椅子に座る執事の横に立つ書記官は、エドガーを見る。

 エドガーが首を振ると、ベイカーに見せていた書類を受け取り、書記官は後方の席に戻った。

 

 靴音。

 書記官が紙を机に置き、ペンが紙をこする音が部屋に落ちる。


「そうですか。

 お時間を取らせてしまいました。

 こちらで引続き検証させていただきます」


 エドガーが立ち上がると、ベイカーも席を立ち、彼は深く、頭を下げた。


 書記官に促され、執事は聴取室を後にする。


 沈黙が落ちる。


 エドガーは、閉まった扉を見つめた。

 

 ――執事は、文書偽造には関わっていない。

 ――高度な技術を持つ人間が、文書偽造に関わっている。


「こんな芸当ができる人物。

 ……もしかして」


 ――軍務副卿、エイドリアン・レンドール。


 裁定院内で囁かれる言葉。

 “姿を見せない真の黒幕”。


 裁定院内でも、口にしたがらない者は多い。


 その名は、部屋に澱となって、静寂に溶けていった。


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