4 偽りの署名
「どうぞ」
ノックの音に応えてエドガーが法務官室の扉を開けると、廊下に立っていたのは、細身の中年の男だった。
エドガーに向かって深く頭を下げた男の焦げ茶の髪は、しっかりと撫でつけられ、淡い光を受けて滑らかに光っている。
案内してきた書記官にエドガーが礼を言うと、男は静かに部屋に入ってきた。
靴の音がわずかに木床に響く。
「レイブンズ法務官殿、いつもお世話になっております」
伸ばされた背筋。
低く、澄んだ声。
だが、その声は、どこか揺れていた。
「マルブリー先生、こちらこそ。
いらっしゃるとご連絡は頂いておりましたが、どうされました?」
――彼は、筆跡鑑定士イーサン・マルブリー。
王立裁定院の案件を長年に渡り多く扱ってきた実績のある男だ。
イーサンは帽子と杖を手に持つと、少しだけ視線を下げた。
エドガーは椅子を彼に勧めるが、イーサンは静かに首を振る。
「レイブンズ法務官殿。忙しい貴方の時間を頂戴するのは気が引けました。
だが……お伝えしたいことがありまして」
エドガーも彼の前に立ったまま、指を組んだ。
「軍事物資輸送命令の偽造の件でしょうか?」
「えぇ」
イーサンは窓に視線を向け、椅子の近くに鞄をおいた。
「……レイブンズ法務官殿、窓とランプに触っても?」
「えぇ、どうぞ」
彼は窓に向かって歩くと、カーテンを閉める。
「私の鑑定では、当の侯爵家の署名は偽造されていた。それは確かです。
偽装した人物として、ウォルフォード家の執事が該当しました。
――だが」
イーサンは机上のオイルランプに火を入れた。
鞄から数枚の紙とルーペを取り出す。
「……見ていただきたい」
取り出した紙のうち、二枚の紙を重ねてランプにかざし、ルーペを当てた。彼は、エドガーを振り返った。
エドガーは静かにそれを覗き込むが、眉をわずかに寄せて鑑定士を見る。
「……先生。私には鑑定の知識がありません。ご解説いただけますか」
「もちろんです」
ランプの明かりが二人の男の顔を、ゆらりと照らしていた。
「この二つの署名を重ねて光に透かすと、文字の影が重なり合う。
だが、完全には重ならない。人であれば、自分の字であっても、必ず揺らぎがあるものです。
だが偽造の場合、文字は書かれたのではなく写し取られる。
その場合、この影がほぼ重なるのです」
エドガーは静かに二つの署名を見つめる。
「その形跡を、我々鑑定士は探す」
「……こちらの署名は、そもそも別の署名のようですが」
イーサンはわずかに息を詰めた。
「そうです。偽造された署名と、ウォルフォード家の執事の署名です。だが、“r”など特にそうですが、文字の形が重なる」
「……そのようですね」
エドガーが彼の茶色の瞳を見つめる。映り込んだ署名が、瞳の奥でかすかに滲んでいた。
「まず、侯爵家の署名ですが、似せようという意図が感じられない。筆跡そのものはまさに、ウォルフォード家の執事のものです」
イーサンは執事の署名が書かれた別の紙を持ち上げる。
「だが、彼の字にしても……揺らぎが美しすぎる。
何者かが、鑑定士がどのように鑑定しているのかを知り、あえて差をつけているように、私には見えてしまった。
少し、筆跡が本来の筆跡より硬いのです。
ですが、“偽造署名”です。
本人が日頃よりも緊張していたのかもしれない」
イーサンはゆっくりと、細く息を吐いた。
「だから、不自然ではないはず。
だが、何か不自然だ」
イーサンが机にルーペを置いた。
かすかな音が部屋に落ちる。
「もしかして、ウォルフォード家の執事の筆跡を真似て、何者かが侯爵家の署名を偽造したのでは……。
しかし、それはさすがに、手が込みすぎている気もする」
彼は片手を上げて瞳を伏せた。
腰にあてられた指先が、わずかに白くなっている。
「いや、……申し訳ない。こんな曖昧なこと……」
鑑定士は紙束をまとめ直して机上に置くと、机を回り込んでカーテンを開けた。
エドガーはオイルランプを消す。
霧に濾された光は淡く、室内を静かに満たした。
イーサンはエドガーの前に戻ると、苦く笑う。
「鑑定書に書くほどの確証はなかったのです。所詮“勘”ですから。
だから、こうして“雑談”をしに参ったのです」
「……そうでしたか」
エドガーは机の上の署名を取り上げると、視線を落とした。
――もしかして。
視線を上げ、イーサンを見る。
「……心に、留めておきます」
「……はい」
窓の向こうは霧で白く、今日は遠くの尖塔群が見えない。
どこかで、馬車の音がした。
聴取室。
老齢の男は、一度目を強く伏せた。
銀灰の髪は撫でつけられ、きっちりと整えられた白いシャツに黒いウェストコート。同色のフロックコート。
しっかりと伸びた背筋。
時を経た額のしわは、長く忠誠を誓ってきた男の顔を作っている。
瞳を開け、彼はまっすぐにエドガーを見た。
法務官席につき、指を組んでいたエドガーはその視線を静かに受けとめる。
「……私は決して、旦那様を裏切るようなことはいたしておりません。
その書類を見たこともなければ、署名など、したこともありません。
神に誓ってもいい」
ウォルフォード家の執事、ベイカーは、低い声でそう言い切った。
揺らぎのない視線。
膝の上で、彼は白手袋を強く握っている。
深い、静かな呼吸。
椅子に座る執事の横に立つ書記官は、エドガーを見る。
エドガーが首を振ると、ベイカーに見せていた書類を受け取り、書記官は後方の席に戻った。
靴音。
書記官が紙を机に置き、ペンが紙をこする音が部屋に落ちる。
「そうですか。
お時間を取らせてしまいました。
こちらで引続き検証させていただきます」
エドガーが立ち上がると、ベイカーも席を立ち、彼は深く、頭を下げた。
書記官に促され、執事は聴取室を後にする。
沈黙が落ちる。
エドガーは、閉まった扉を見つめた。
――執事は、文書偽造には関わっていない。
――高度な技術を持つ人間が、文書偽造に関わっている。
「こんな芸当ができる人物。
……もしかして」
――軍務副卿、エイドリアン・レンドール。
裁定院内で囁かれる言葉。
“姿を見せない真の黒幕”。
裁定院内でも、口にしたがらない者は多い。
その名は、部屋に澱となって、静寂に溶けていった。




