3 官舎の朝と少年の一日
官舎の朝。
鐘楼の音が遠くから聞こえてくる。
薄いカーテンを透かした朝陽は、静寂ごと、部屋を包み込んでいた。
ピップは、真っ白なシャツに袖を通す。
ひやりとした感触。
衣擦れの音が、心地よく小さな部屋に落ちた。
ボタンを丁寧に一つずつ留め、栗色のベストとトラウザー、鳩羽紺の短いコートを着込む。
胸元には、小さな徽章。
それは、彼に与えられた王立裁定院の補助員の制服だ。
ピップは一度だけ大きく息を吸うと、次に、癖のつよいくるくるとした髪を簡単に手櫛で整え、黒の細いリボンを使って首の後ろで一つにまとめた。
誇らしげに軽く胸元に触れ、くるりと回って全身を確かめる。
最後に、茶色の鞄を肩にかけた。
確かな重み。
「……よし!」
ピップは、部屋を後にした。
扉の閉まる音。
彼の足音が、軽やかに遠ざかっていく。
まだ王立裁定院の正門は開いていない。
低く這う金の光が門前に立つ警備兵のブーツにかすかに弾かれている。
「おはようございます!」
背にかけた鞄が、ピップの駆け足に合わせて軽い音を立てていた。
警備兵が小さく笑いながら彼に挨拶を返し、ピップは正門横の小門をくぐり抜ける。
広い前庭を抜け、大きな扉を開けて中に入ると、黒と白の市松模様の石床。
高いアーチ天井に巨大なシャンデリア。
足音は自然と吸い込まれていく。
事務室の小窓を覗き込んだ。
「おはようございます」
「あぁ、ピップ君。おはようございます。
こちら、レイブンズ法務官殿宛てね」
中にいた職員が顔を出し、ピップに書簡をいくつか手渡した。
それを、ピップは皺にならないように丁寧に鞄にしまう。
「ありがとうございます!」
ペコリと頭を下げ、彼は奥の階段を駆け上がって行った。
途中でピップと同じ補助員の少年に会い「おはよう」と声を掛け合う。
木板の廊下。
ピップの足音だけが、今は響いている。
その三階東奥。エドガーの法務官室へ。
鍵を開けて中に入る。
部屋に染み付いた、紙とインクの匂い。
ピップはカーテンを開けて窓を開け放した。
眼前に広がる王都の街並み。
黒い尖塔群。
冷えた風が前髪に触れる。
それには、かすかに遠くの花の匂いが混ざっていた。
王都オルドンは、今日も霧に包まれている。
「さ、今日も頑張ろう!」
こうして、王立裁定院の補助員、ピップこと、フィリップ・レーンの1日が始まる。
まずは掃除。
その後、エドガーが出勤してくる前に書簡の分類を行う。
しっかりと磨いた法務官のための大きな机は、今日も淡い朝の光を弾いていた。
その上に丁寧に封筒を並べる。
「あれ……。これ、もしかして?」
飾り気の無い白い封書。
“差出人 アレクサンダー・レイブンズ”
小さく首を傾げると、書簡の一番上にそれを置いた。
顔を上げる。
壁の時計を確認し、机上を簡単に整えてから部屋を出た。
地下食堂から貰ってきた紅茶をピップが机に置いたところで、部屋の扉が開く。
「おはよう、ピップ」
振り返ると、群青の瞳のエドガーが帽子を帽子掛けに掛けているところだった。
「エドガーさん! おはようございます」
駆け寄り、コートを受け取る。
エドガーはやわらかく笑むと、ピップの頭にそっと手を置いた。
「……いい香り。いつも紅茶を用意してくれてありがとう」
そうしてエドガーは机に向かって歩き、立ったまま並べられた書簡を手に取る。
白い封書。
エドガーは開けもせずに引き出しに無造作にしまい、また別の書簡を手に取った。
「……読まないんですか?」
コートを掛け終わったピップがエドガーの隣に並ぶと、閉まっている引き出しにちらと目をやる。
「……上の兄さんなんだ。
どうせ“家に帰って来い”って内容だよ。
僕が返事をしないものだから、ついに裁定院に手紙を出すことにしたようだ」
エドガーは銀のペーパーナイフを取り出すと、封を開け、書類に素早く目を通した。
「午前中に聴取が二件ある。ピップは、書記官と共に立ち会ってほしい。
それから、午後にはいつも通り外回りをお願いしたい」
エドガーは書簡に目を落としながら、席につく。
ピップはポケットからメモと鉛筆を取り出して急いで書き留めはじめた。
「軍監査局と王立図書院。
監査局には申請書を提出済みだから名乗るだけでいい。書類を預かってきて欲しいんだ。
図書院では探してきてほしい資料がある。場合によっては王立研究院にまで足を伸ばしてもらう必要もある。資料一覧は昼までに僕が作成する。
頼めるかい?」
ピップが顔を上げる。
「はい。もちろんです」
エドガーもピップの目を見て頷く。
彼は引き出しから筆記具を取り出すと、ペンにインクを吸わせ、書類にサインをし、印章を押した。乾くのを待ちながら書類フォルダを取り出すと、また別の書類作りを始める。
「ピップ」
「はい」
エドガーは先ほど印章を押した書類を、ぺらりとピップに差し出した。
「これをマルコム上級法務官殿へ」
「はい」
エドガーはウェストコートのポケットから金の時計を取り出す。
金鎖が小さく音を立てた。
「九時半に聴取一件目が始まる。
準備も頼むよ」
「はい」
群青の瞳が優しく細められ、ピップも小さく微笑む。
「今日も忙しそうだ。
ピップ。頼りにしてる」
ピップは頬を緩めて笑った。
「……はい!」
日も落ちた頃、ピップは一人でエドガーの法務官室にいた。
明かりの落とされた部屋。
窓を閉め、引き出しの鍵を確認する。
最後に扉の前に立ち、部屋に向かって頭を下げ、部屋を出た。
鍵を閉める。
金属の鳴る、小さな音。
長く続く暗い廊下。
並んだ窓から、月光が四角く差し込んでいる。
ピップの鞄に入った文具や本が、歩く度に音を立てた。
彼は王立裁定院を出ると、ブラクストン街にあるエドガーの下宿先に向かった。
石造りの二階、角部屋。
その扉を叩こうとした時、背後から声がかかった。
「あらピップ。お仕事お疲れ様」
振り返ると、下宿の管理人であるマッケンジー夫人が銀のワゴンに手を添えて立っている。
ワゴンの上には食事が二人分。
スープには湯気が立ち、香草の香りが立ち上る。
「夫人、こんばんは」
「ちょうど良かったわ。お食事、エドガーさんに持っていってくれる? あなたの分もあるわ」
「ありがとうございます!」
ピップがにこりと笑うと、夫人も笑んだ。ワゴンを受け取り、改めて扉を叩く。
間もなく小さく扉が開き、群青の瞳がのぞいた。
「おかえり。ピップ」
「はい! 戻りました!」
ピップはワゴンを押して、部屋に入っていった。
彼は週の半分を官舎で過ごし、残りの半分はエドガーの下宿先で過ごす。エドガーと食事を共にとり、勉強を教えてもらったり、法の入門書を貰って読むのだ。
――それが、ピップの日常だった。
貧民街にいた頃には考えられなかった、忙しくて、平和な毎日。
ソファで本を読んでいたエドガーが立ち上がる。
テーブルの上のオイルランプ。
橙の明かりは、部屋の隅に淡く影を落としていた。
本をテーブルに置き、衝立の向こうに二つ並んだ小さい方のベッドまで静かに歩く。
彼の白い夜着が明かりをわずかに弾き、紺のカーディガンの裾が揺れた。
ランプの明かりが届かないベッド脇。
その縁にそっと腰を下ろす。
手を静かに伸ばした。
指先に触れた栗色のくせ毛は、柔らかかった。
あどけない、そばかすの散った白い頬。
エドガーの口元が、わずかに緩んだ。
衣擦れの音。
彼は立ち上がり、ソファまで戻る。
ランプを消して窓辺に立った。
窓の外には丸い月。
彼の長い黒髪が、静かに揺れた。




