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歪んだ三日月 ―法務官エドガー・レイブンズと王都に棲む蛇―   作者: かも ねぎ
第一章 青の三日月 ―名を持たぬ少年の初恋―
2/6

2 違和感の行方


 ピップは、少女にソファの一つを勧めると、一礼し、踵を返しかけた。


「ねぇ、あなた、いくつ?」


 驚いてピップが振り返ると、ソファに姿勢正しく座ったアリシアがにこにこしながら彼を見つめている。


 親族用の待合室は、応接室を一回り縮めたような部屋だった。

 小ぶりな暖炉が壁際に据えられているが、春先の今は火も入っていない。

 木製の簡素な応接セットと、低いテーブル。

 窓には落ち着いた色合いのカーテンがかかり、光をやわらかく遮っていた。

 壁には風景画が一枚だけ飾られている。

 誰かを迎えるための部屋というより、

――廊下に立たせないための配慮として用意された場所、という印象の部屋だった。


 ピップが目を瞬かせていると、アリシアが先に話し出す。


「私、アリシア・ウォルフォード。十二歳なの」


「俺……、自分も十二歳です。

 ピップ・レーンと申します」


 彼は、その場で背筋を伸ばして静かに立った。


「同い年じゃない!」


 アリシアは、ハーフアップにした緩やかな髪を揺らして屈托なく笑う。


「お隣座ってよ。お話しましょう?」

「……でも」


 ピップが眉を下げるのを見て、アリシアも困ったように微笑んだ。

 そして、俯いて指をいじった後、また顔を上げて笑う。


「そうよね。お仕事があるんだものね。ごめんね。わがまま言っちゃった」


 俯いたアリシアの影が、火の入っていない暖炉の奥へと伸びていた。その小さな背中の影は、ひどく頼りなく揺れる。

 ピップは一度、自分の乾いた唇を舐めた。

 

 ――ここで一人にするのは、可哀想かな……。


 ピップは髪を揺らして、首を振る。


「いえ。大丈夫です。

 もう少し、ここにいます」


 彼女のヘーゼルの瞳が、ぱっと明るくなった。


「本当? ありがとう」


 アリシアは、アフタヌーンティーのお茶請けのお菓子が美味しかったこと、部屋に飾られた花の色が可愛かったこと、そんな他愛もない話をにこにこしながらピップに話した。


 ピップは彼女の言葉を一つひとつ、こぼさないように拾い上げた。

 お茶の香りも、花の色も、彼のこれまでの人生には存在しなかったものばかりだったが、その語り口の柔らかさだけは、不思議と耳に心地よかった。


 静かな部屋で、少女の笑い声が軽やかにこだまする。





 聴取室。

 エドガーはローワンに席を勧めると、自身も法務官席についた。


 窓には分厚いカーテンが引かれ、金縁の壁の装飾が淡い光をわずかに弾いている。


 部屋の中央には、貴族のための豪奢な椅子が一脚だけ置かれていた。

 その正面に大きな机を挟んで法務官席があり、後方、壁に向けて書記官席が設けられている。


 重い空気が漂っていた。


 時計の音と、書記官のペンを走らせる音だけが、この部屋の静寂に落ちている。


「改めまして、担当いたします、法務官エドガー・レイブンズです。

 ご存じの通り、裁定院は貴族間の契約や紛争を中立的に裁定いたします。

 まずは証拠と証言を整理させていただきたい。お時間をいただきますが、よろしいですね」

「はい」


 姿勢正しく座るローワンの瞳には、疲れが滲んでいる。彼はわずかに視線を下げた。

 

「まず確認します。

 今回、ベルテン侯爵家より提出された訴状は、

 “侯爵家の名を騙った文書による軍事物資輸送命令の偽造”

 ――すなわち、貴方には名誉侵害および権威冒涜の疑いが掛かっています」


 エドガーは静かに彼を見つめる。

 騎士らしく、均整のとれた体型。飾り気の少ない服装は、彼が実直な男であることを語っているが、手元にある調書はそれを否定するものばかりだった。


「その命令書に、あなたの署名があるとされています。

 身に覚えは?」


 書記官が席を立ち、“命令書”をローワンに見せる。

 彼はそれに目を走らせるが、ため息をつき、目を伏せた。


「……ありません」


 エドガーは頷き、次の書類に視線を落とした。


「では次です。

 問題の文書では、軍需物資――乾燥糧食三百箱、補修用鋼材二十束が、あなたの指示で輸送されたことになっています」


 顔を上げる。


「この物資に、覚えは?」


 ローワンはわずかに眉を寄せ、一拍置く。

 それから小さく頭を振った。


「いいえ。聞いたこともありません」

「輸送先については?」


 ローワンは、さらに眉を寄せる。


「……どこへ? わかりません」


 エドガーは小さく頷く。


「ラヴァーン諸島です」


 一瞬、ローワンの目が見開かれた。


「ラヴァーン諸島?

 あそこは、三年前に前線施設が撤退しています。

 今は補給線も――」


 言いかけて、ローワンは言葉を切った。


「……失礼しました。

 いずれにせよ、私は関わっていません」


 エドガーは、ほんのわずかに視線を伏せた。


「そうですか」


 間を置いて、別の書類を指でなぞる。


「では、同じ命令書には

 “セント・グレイヴ港”への分配記録も記載されています」


 ローワンは、即座には答えなかった。


「……その港名でしたら、

 軍の補給に使われる可能性は、理論上はあります。

 ですが――」


 膝に置かれたローワンの手が、厚いズボンの生地をわずかに握り込み、指関節が白く浮き上がった。そのかすかな衣擦れの音が、静まり返った聴取室で、重く響く。


「私は、関与していません」


 沈黙が落ちた。

 エドガーは、書類を閉じた。


「最後に一つだけ」 


 エドガーは顔を上げる。


「あなたが、その命令書を初めて目にしたのは、いつですか」


 ローワンは一瞬、言葉に詰まった。

 それから小さく首を振る。


「今日……ここでです」


 エドガーは、静かに頷いた。


「わかりました。

 本日の聴取は、以上です」


 書記官のペンの音が止まる。

 エドガーが立ち上がると、ローワンと書記官も立ち上がった。

 ローワンは深く頭を下げ、踵を返す。


「こちらから、また追ってご連絡を差し上げます」

「……はい」

 

 力のない声。

 扉が閉まる。


 ――物資の種類も、“ラヴァーン諸島”も、“セント・グレイヴ港”も。

 すべて、でたらめの名を挙げてみただけだ。


 それでも、あの反応。


 ――彼はおそらく、本当に、何も知らない。


 エドガーは瞳をわずかに細め、法務官席の書類を手に取った。


 時計の針が、一つだけ、時を刻む。



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