1 春の礼拝と、青い刻印
礼拝堂の扉が開いた。
冷えた石の空気がほどけ、外のやわらかな春の匂いが流れ込んでくる。
アリシア・ウォルフォードは、思わず顔をあげた。
空が、高い。
薄く伸びた雲の向こうから、やわらかな光が街を包んでいる。冬のあいだ沈んでいた並木も、いつの間にか若葉をつけていた。
――もう、春なんだ。
礼拝を終えた人々が、静かなざわめきとともに外へと流れ出ていく。
子どもたちは堅苦しい沈黙から解放されて、小さく声を弾ませていた。
アリシアも、その中にいた。
友人と肩を寄せ合いながら、他愛のない話に笑う。
その視線が、ふと、広場の方へと向く。
荷馬車がいくつか停まっていた。
日曜のこの時間には、いつも見る光景。
けれど――
彼女は、一歩だけ輪から外れた。
布をかけられた荷の隙間。
そこに、ひとつの木箱が見えた。
青い刻印。
三日月のように、なめらかな線。
――きれい。
そう思って、覗き込んだそのときだった。
心臓が、跳ねた。
男の目。
影の奥で、一人の男と目が合った。
鳶色の髪。
鋭い黒い瞳。
――それは、ほんの一瞬の出来事。
なのに、そこだけ、空気が冷えた気がした。
アリシアはわずかに肩をすくめる。
「どうしたの?」
背後から声がかかる。
はっとして振り返ると、もう男の姿は見えなかった。
――気のせいよ。
そう思いながら、アリシアはまた輪の中へ戻る。
けれど胸の奥に残った違和感だけは、
なぜか、消えなかった。
◇
「お父様? どうされたの?」
父の執務室に入ると、アリシアは机に向かう父のもとへ駆け寄った。
騎士である父ローワンは、日頃ははつらつとした男だ。だが今は顔を青ざめさせ、一度は整えた髪も、掻きむしられたのか乱れている。机上のランプの灯りが、その頬を揺らがせていた。
ローワンは椅子から立ち、アリシアの前に屈む。
大きな手で、彼女の両手をそっと包み込んだ。
「アリシア。明日、父様と一緒に王立裁定院へ行こう」
アリシアの柔らかなヘーゼルの瞳に、ランプの灯りが星のように映る。
「裁定院……?」
「そうだ。
アリシア、君に誓う。父様は決して人の道にそれるようなことはしない。
母様や君に言えないような、恥ずべきことは何一つない」
ローワンの瞳を、アリシアはまっすぐ見つめ返した。
包み込まれたアリシアの手の甲に、父の指先が刻む、かすかな震えが伝わってきた。
「そんなこと、もちろん信じてるわ。
父様は立派な騎士様だもの」
「……アリシア」
ローワンは娘を抱きしめた。
事情は分からなくとも、アリシアも父の背に腕を回す。
足元を這いずる細い三日月にも似た不安が、部屋の影に潜んでいるような気がした。
アリシアは、ぎゅっと瞳を閉じた。
◇
霧の街、王都オルドン。
春のオルドンの朝は、霧がまだ街を手放しきれずにいた。
夜明けとともに立ちこめた霧は、石畳の上を低く這い、建物の輪郭を柔らかくぼかしていく。
冬のような刺す冷たさはなく、指先に触れる空気は、ほんのりと湿って温い。
冬のあいだ着込んでいた厚手の黒いオーバーフロックは脱がれ、ダークブルーの膝丈のフロックコートの裾が揺れる。
黒の革紐で結んだ、青みを帯びた黒髪が背に沿い、磨かれた黒革のブーツが濡れた石畳を打った。
エドガー・レイブンズは、霧の中に建つ白亜の尖塔――王立裁定院へ向かっていた。
通り過ぎる馬車の軋む音。
店の裏口を開ける気配。
パン屋のベルが鳴り、新聞売りの少年が声を張り上げる。
顔なじみの靴磨きの少年に「おはようございます」と声をかけられ、エドガーは小さく手を挙げて応えた。
街が、目覚め始める。
やがて王立裁定院の鉄門が見えてくる。
両脇には警備が立ち、馬車と職員たちが次々と吸い込まれるように中へ入っていく。
星と深紅の薔薇をあしらった王家の紋章が、朝の光を鋭く返していた。
エドガーも鉄門をくぐり、白亜の建物の中へと足を踏み入れる。
職員が行き交う玄関ロビーを抜け、階段を上がる。
階を上がるごとに、人の気配は少しずつ薄れていった。
三階東奥。
“E.レイブンズ”と記されたプレートの下がる扉を開けると、紅茶の芳香がふわりと舞う。
扉脇で帽子と杖を置き、フロックコートを脱ぐ。
「おはようございます! エドガーさん」 「おはよう。ピップ」
窓際の机へと向かい、脇に立つ少年の頭に、軽く手を置く。
そしてそのまま、自席に腰を下ろした。
背後の窓からは、霧に包まれた街が見える。
柔らかな光が、机上の書類と彼の手元を照らしていた。
こうして今日も、法務官エドガー・レイブンズの一日が始まる。
「ピップ」
脇で書類整理をしていた少年が、くるくるとした栗色の髪を揺らして顔を上げる。
「はい」
「今から第三聴取室へ行く。僕についてきて」
「え……」
エドガーは調査書類を差し出しながら立ち上がり、再びフロックコートに袖を通した。
反射的にそれを受け取ったピップは、呆然と彼の背に揺れる髪を見つめる。
これまでピップの仕事は、書類や書簡の整理、外回りがほとんどだった。
聴取室に同席したことはない。
「……俺が行っても、いいんですか」
エドガーは群青の瞳を柔らかく細め、小さく頷いた。
「おいで」
「……はい!」
ピップが隣に並ぶのを待ち、エドガーは歩き出す。
木板の廊下を進み、二階へと下りた。
長く伸びる廊下の左右には、整然と扉と木製のベンチが並んでいる。
その一つ、窓から差す淡い光の中で、一組の父子が席を立った。
エドガーが軽く頭を下げる。
ピップもそれに倣った。
「おはようございます。法務官、エドガー・レイブンズと申します」
「ローワン・ウォルフォードです。お世話になります」
エドガーは隣に立つ少女へと視線を向け、穏やかに微笑んだ。
視線が合い、少女の頬がふわりと染まる。
「お嬢様ですか?」
「はい。家に置いてくることができず……」
「構いません」
エドガーは振り返った。
「レーン補助員。
彼女を親族用の待合室へ案内して差し上げて」
一瞬、ピップは目を見開いた。
だが、向けられた群青の瞳が穏やかに頷くのを見て、口を引き結ぶ。
「……はい」
“レーン”。
孤児だった彼に与えられた、新しい名。
ピップの背筋が、一瞬ののち、音を立てそうなほど真っ直ぐに伸びた。
向けられた群青の瞳。
彼は自分の奥歯がかすかに鳴るのを感じる。
そして、静かに、深く頷き返した。
ピップは書類をエドガーに渡し、一歩、少女の前へ出る。
「ウォルフォード嬢。ご案内いたします。こちらへ」
ローワンが娘に「大丈夫だ」と囁く。
アリシアは不安そうに頷き、ピップの後を追った。
ピップがわずかに振り返って微笑むと、少女はほっとしたように、その斜め後ろにつく。
二人の背を見送り、エドガーは改めてローワンと向き合った。
互いに目礼し、静かに聴取室へと入っていく。
廊下には、小さな二人分の足音だけが残る。
窓から差し込む光はひどく淡く、白い壁を静かに照らしていた。




