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歪んだ三日月 ―法務官エドガー・レイブンズと王都に棲む蛇―   作者: かも ねぎ
第一章 青の三日月 ―名を持たぬ少年の初恋―
1/6

1 春の礼拝と、青い刻印


 礼拝堂の扉が開いた。


 冷えた石の空気がほどけ、外のやわらかな春の匂いが流れ込んでくる。


 アリシア・ウォルフォードは、思わず顔をあげた。


 空が、高い。


 薄く伸びた雲の向こうから、やわらかな光が街を包んでいる。冬のあいだ沈んでいた並木も、いつの間にか若葉をつけていた。


 ――もう、春なんだ。


 礼拝を終えた人々が、静かなざわめきとともに外へと流れ出ていく。

 子どもたちは堅苦しい沈黙から解放されて、小さく声を弾ませていた。


 アリシアも、その中にいた。


 友人と肩を寄せ合いながら、他愛のない話に笑う。


 その視線が、ふと、広場の方へと向く。


 荷馬車がいくつか停まっていた。

 日曜のこの時間には、いつも見る光景。

 けれど――


 彼女は、一歩だけ輪から外れた。


 布をかけられた荷の隙間。

 そこに、ひとつの木箱が見えた。


 青い刻印。

 三日月のように、なめらかな線。


 ――きれい。


 そう思って、覗き込んだそのときだった。


 心臓が、跳ねた。


 男の目。


 影の奥で、一人の男と目が合った。


 鳶色の髪。

 鋭い黒い瞳。


 ――それは、ほんの一瞬の出来事。


 なのに、そこだけ、空気が冷えた気がした。


 アリシアはわずかに肩をすくめる。


「どうしたの?」


 背後から声がかかる。


 はっとして振り返ると、もう男の姿は見えなかった。


 ――気のせいよ。


 そう思いながら、アリシアはまた輪の中へ戻る。


 けれど胸の奥に残った違和感だけは、

 なぜか、消えなかった。



 ◇ 



「お父様? どうされたの?」


 父の執務室に入ると、アリシアは机に向かう父のもとへ駆け寄った。


 騎士である父ローワンは、日頃ははつらつとした男だ。だが今は顔を青ざめさせ、一度は整えた髪も、掻きむしられたのか乱れている。机上のランプの灯りが、その頬を揺らがせていた。


 ローワンは椅子から立ち、アリシアの前に屈む。

 大きな手で、彼女の両手をそっと包み込んだ。


「アリシア。明日、父様と一緒に王立裁定院へ行こう」


 アリシアの柔らかなヘーゼルの瞳に、ランプの灯りが星のように映る。


「裁定院……?」


「そうだ。

 アリシア、君に誓う。父様は決して人の道にそれるようなことはしない。

 母様や君に言えないような、恥ずべきことは何一つない」


 ローワンの瞳を、アリシアはまっすぐ見つめ返した。

 包み込まれたアリシアの手の甲に、父の指先が刻む、かすかな震えが伝わってきた。


「そんなこと、もちろん信じてるわ。

 父様は立派な騎士様だもの」


「……アリシア」


 ローワンは娘を抱きしめた。

 事情は分からなくとも、アリシアも父の背に腕を回す。


 足元を這いずる細い三日月にも似た不安が、部屋の影に潜んでいるような気がした。

 アリシアは、ぎゅっと瞳を閉じた。


 ◇


 霧の街、王都オルドン。


 春のオルドンの朝は、霧がまだ街を手放しきれずにいた。


 夜明けとともに立ちこめた霧は、石畳の上を低く這い、建物の輪郭を柔らかくぼかしていく。

 冬のような刺す冷たさはなく、指先に触れる空気は、ほんのりと湿って温い。


 冬のあいだ着込んでいた厚手の黒いオーバーフロックは脱がれ、ダークブルーの膝丈のフロックコートの裾が揺れる。

 黒の革紐で結んだ、青みを帯びた黒髪が背に沿い、磨かれた黒革のブーツが濡れた石畳を打った。


 エドガー・レイブンズは、霧の中に建つ白亜の尖塔――王立裁定院へ向かっていた。


 通り過ぎる馬車の軋む音。

 店の裏口を開ける気配。

 パン屋のベルが鳴り、新聞売りの少年が声を張り上げる。


 顔なじみの靴磨きの少年に「おはようございます」と声をかけられ、エドガーは小さく手を挙げて応えた。


 街が、目覚め始める。


 やがて王立裁定院の鉄門が見えてくる。

 両脇には警備が立ち、馬車と職員たちが次々と吸い込まれるように中へ入っていく。

 星と深紅の薔薇をあしらった王家の紋章が、朝の光を鋭く返していた。


 エドガーも鉄門をくぐり、白亜の建物の中へと足を踏み入れる。


 職員が行き交う玄関ロビーを抜け、階段を上がる。

 階を上がるごとに、人の気配は少しずつ薄れていった。


 三階東奥。

 “E.レイブンズ”と記されたプレートの下がる扉を開けると、紅茶の芳香がふわりと舞う。


 扉脇で帽子と杖を置き、フロックコートを脱ぐ。


「おはようございます! エドガーさん」 「おはよう。ピップ」


 窓際の机へと向かい、脇に立つ少年の頭に、軽く手を置く。

 そしてそのまま、自席に腰を下ろした。


 背後の窓からは、霧に包まれた街が見える。

 柔らかな光が、机上の書類と彼の手元を照らしていた。


 こうして今日も、法務官エドガー・レイブンズの一日が始まる。





「ピップ」


 脇で書類整理をしていた少年が、くるくるとした栗色の髪を揺らして顔を上げる。


「はい」

「今から第三聴取室へ行く。僕についてきて」

「え……」


 エドガーは調査書類を差し出しながら立ち上がり、再びフロックコートに袖を通した。

 反射的にそれを受け取ったピップは、呆然と彼の背に揺れる髪を見つめる。


 これまでピップの仕事は、書類や書簡の整理、外回りがほとんどだった。

 聴取室に同席したことはない。


「……俺が行っても、いいんですか」


 エドガーは群青の瞳を柔らかく細め、小さく頷いた。


「おいで」

「……はい!」


 ピップが隣に並ぶのを待ち、エドガーは歩き出す。

 木板の廊下を進み、二階へと下りた。


 長く伸びる廊下の左右には、整然と扉と木製のベンチが並んでいる。

 その一つ、窓から差す淡い光の中で、一組の父子が席を立った。


 エドガーが軽く頭を下げる。

 ピップもそれに倣った。


「おはようございます。法務官、エドガー・レイブンズと申します」


「ローワン・ウォルフォードです。お世話になります」


 エドガーは隣に立つ少女へと視線を向け、穏やかに微笑んだ。

 視線が合い、少女の頬がふわりと染まる。


「お嬢様ですか?」

「はい。家に置いてくることができず……」

「構いません」


 エドガーは振り返った。


「レーン補助員。

 彼女を親族用の待合室へ案内して差し上げて」


 一瞬、ピップは目を見開いた。

 だが、向けられた群青の瞳が穏やかに頷くのを見て、口を引き結ぶ。


「……はい」


 “レーン”。

 孤児だった彼に与えられた、新しい名。


 ピップの背筋が、一瞬ののち、音を立てそうなほど真っ直ぐに伸びた。

 向けられた群青の瞳。

 彼は自分の奥歯がかすかに鳴るのを感じる。

 そして、静かに、深く頷き返した。


 ピップは書類をエドガーに渡し、一歩、少女の前へ出る。


「ウォルフォード嬢。ご案内いたします。こちらへ」


 ローワンが娘に「大丈夫だ」と囁く。

 アリシアは不安そうに頷き、ピップの後を追った。


 ピップがわずかに振り返って微笑むと、少女はほっとしたように、その斜め後ろにつく。


 二人の背を見送り、エドガーは改めてローワンと向き合った。

 互いに目礼し、静かに聴取室へと入っていく。


 廊下には、小さな二人分の足音だけが残る。

 窓から差し込む光はひどく淡く、白い壁を静かに照らしていた。




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