4-17 降りはじめの雪
あれから。
かの国へのエイドリアン・レンドールの入国は、その情報を得ることさえ叶わなかった。
彼が乗ったとされる船も、ついに見つかることはなかった。
主犯格である男は、生死不明のまま――
この事件は、ひとまずの幕引きを迎えることとなった。
だが、それで終わるはずもない。
彼が関わっていた全ての組織、人への捜査が進められ、アルストリア王国は静かに、そして確実に揺れていた。
毎朝の新聞はこの件で埋め尽くされ、
街では、その名を知らぬ者はいなくなった。
人々はそれを語り、推測し、時に声を荒げ、
そして――どこかで怯えていた。
軍務省では、内部の粛清と再編が急速に進められ、
王宮では夜を徹した会議が続いた。
同盟国からは説明を求める声が相次ぎ、
王国は、その対応に追われることとなる。
だが――
その中心にいるはずの男だけが、
まるで最初から存在しなかったかのように、
跡形もなく消えていた。
◇
馬車から降り立ったエドガーは、顔を上げた。吐いた息は白く立ち上り、そっとほどけていく。
黒いウールの外套に手を添え、襟を立てた。
視界に入るのは、広いが、あまり手入れされていない庭園。だがその奥にある小さな花壇。そこに、花が揺れているのが見えた。
俯くように咲いている。
白や、白に縁だけが紫のもの、桃色のものもある。
――それは、ソフィアの好きだった花だ。
エドガーはヴァレンティン子爵家の前庭を踏み、その扉を叩いた。
ノッカーの音が低く響く。
扉を開けた執事はエドガーを見、わずかに目元を緩めた。丁寧に頭を下げ、彼の外套や杖を預かり、応接室へと導く。
応接室の扉が開けられると、暖気が外へ漏れてきた。
白髪のヴァレンティン子爵とその妻が揃ってソファから立ち上がり、エドガーを迎える。
「……エドガー君。
いや、レイブンズ法務官殿。お待ちしておりました」
エドガーは深く頭を下げ、三人はそれぞれソファへと腰を下ろした。
「……不甲斐ない結果となってしまいました」
「……いや」
子爵夫妻は首を振った。
テーブルの上に置かれたカップから白い湯気が立ち上る。
エドガーは小さく息を吸うと、鞄から書類を取り出し、彼らの前に静かに並べた。
「……此度の裁定については、すでに書類のやり取りもさせていただいておりましたが、改めてご挨拶をさせていただきたく……」
一度、頭を軽く下げる。
裁定通知書に指先を添え、エドガーは視線を落とした。
「……ドクター・ルーファス・モンティエに、過失は認められません。
残念ながら、断定に足る証拠に欠いており、ドクターからの申し立てである名誉毀損については成立します」
ヴァレンティン子爵は、小さく息を飲んだ。
「――ただし、当時の状況から、ご遺族が疑念を抱いたこと自体は不合理とは言えず、悪意は認められません。
そのため、裁定院は、ヴァレンティン子爵家に対し、医師の名誉回復に資する対応を求めます」
夫妻は、ゆっくりと顔を上げる。
「また本件に関連する証拠は、違法薬物流通の解明に資する重大なものでした。
これは、国家において適切な評価と措置が講じられるべきである、と。
――我々裁定院は、そう裁定を下しました」
エドガーは指を離し、膝の上にこぶしを置いた。
顔を上げ、夫妻の顔を順にゆっくりと見る。
「おって、国からあなた方に報奨金などの通達があるはずです」
ヴァレンティン子爵夫人は深く頭を下げ、子爵は目を細めて小さく頷いた。
「ソフィアの努力が……報われたということですな」
エドガーもそれに頷いて返す。
それから、彼は子爵から預かっていたソフィアの手記を、鞄から取り出してテーブルにそっと置いた。
それを静かに見下ろす。
カップを持ち上げ、口に運ぶ。
口を湿らせてから、一拍置き、エドガーは子爵の瞳を見つめた。
「ヴァレンティン子爵……。
あの……不躾なお願いだとは重々承知しておりますが、よろしければ……その……」
言葉が詰まる。
視線を手元に落とし、少し悩んで、また、顔を上げた。
「……彼女の手記を譲ってはいただけないでしょうか」
夫人の瞳が、わずかに揺れた。
「……エドガー君」
夫妻はエドガーの瞳をゆっくりと見つめた後、顔を見合わせ、柔らかく微笑みあった。
「……これほど時間が経っても娘を思って涙を流してくれる人がいた。
――それだけで、私たちは救われる思いですよ」
唇を小さく噛んだエドガーの群青の瞳は、淡く光を返し、潤んでいた。
「……差し上げます」
エドガーは深く、頭を下げる。
知らずに一粒だけ落ちた雫が、彼の膝を濡らした。
「……ありがとうございます」
西区の丘を少し登り、並んだ街路樹のリンデンが、途切れた先。
小さな墓園がそこにあった。
植えられた木々のほとんどが葉を落とし、地面に柔らかな層を作っている。踏むたびに、小さく乾いた音が鳴った。
ポツポツと並んだ墓石。
エドガーは小路をゆっくりと歩き、彼女の眠る場所を探す。
やがて、足を止めた。
小さな墓石。
その前で、ゆっくりと膝を落とす。
彫られた文字を視線でたどり、かすかに彼の目が切なげに細められた。
「……ソフィア。やっと、ここに来れたよ」
冷たい、冬の風が吹く。
それは、彼の背の黒髪を撫でていった。
「僕に何も言わずにいってしまうなんて……。
ひどいじゃないか」
エドガーの口元に、淡い笑みが浮かぶ。
「おかげで初恋を何年もこじらせてしまったよ。
いろんな人に、まだ結婚しないのか……なんて言われてしまうんだ」
そして、彼は眉を下げ、小さく笑った。
「ソフィア、僕は、法務官になったよ。
……素敵な紳士になれたかな」
木の枝が風に揺らされ、わずかに残っていた茶色の葉が舞い落ちていく。
彼は小さく、息を吐いた。
「ありがとう。……素敵な恋だった」
手にしていた、白い花の花束。
彼が、ずっと想い続けた彼女によく似た――美しいクリスマスローズ。
エドガーはそれを、そっと置いた。
しばらくそのまま、彼はその姿を見つめていた。
花びらが、小さく揺れる。
――やがて、ゆっくりと立ち上がった。
墓石を見下ろし、瞳を伏せる。
「……安らかな眠りを」
踵を返した。
見上げた空は、白く、どこまでも続いていた。
ひらりと、落ちてきた。
――雪。
今年最初の雪が、オルドンに降ってきた。
彼は手袋をはめた手で、それを受け止める。
じわりと溶け、消えていった。
手のひらをそっと閉じ、彼はまた、歩き出した。
ひらり、ひらりと舞う雪は、やがて、静かに全てを覆い尽くすだろう。




