4-16 三日月の下
赤い印が、滲んだ。
じわり、じわりと、それは紙に染み込んでいく。
上級法務官マルコム・ヘインズが捺した承認印。
それを見つめていたエドガーが顔を上げると、マルコムと視線が交わる。
体の前で指を組んでいたエドガーは、一度小さく頷いた。
「軍とも連携し、明日未明には港、及び国境の全てが閉鎖されます」
マルコムは、書類を手に取って席を立ち上がる。
「治安監察局も、極秘に動き始めている」
「はい。全て、手配済みです」
「この書類が治安監察局、及び軍務省監査局に着き次第、全てが動く。
動き始めるまでの、数時間、慎重に動け」
「私は裁定院で待機します」
マルコムは大きく頷くと、脇に控えていた書記官に、それぞれへ届けるべき二通を渡した。
「告発文だ。急げ」
「はい」
――エドガーは、全てをまとめた。
軍務副卿であるエイドリアン・レンドールがこれまで行ってきた、全て。
麻薬試験薬を用いて自国民を危険に晒し、同盟国に麻薬をばら撒いたこと。
他国から人を攫い、奴隷として売買をしたこと。
時には自軍の小隊さえ壊滅に追いやりながら、機密情報を敵国に売り捌いたこと。
――そうやって、自国民、そして、同盟国への信頼を損なう行為を、独断で何年にも渡って行ってきた。
――その全てを。
廊下の灯りは落ちている。
並んだ窓から見える月は、三日月。
その鈍い明かりが、廊下を歩くエドガーの頬を、わずかに濡らしていた。
エドガーが法務官室に戻ると、彼はわずかに目を見開く。一度帰宅させたはずのルシアンとピップが、明かりの落ちた部屋の中で彼を待っていたからだ。
驚いているエドガーに、ルシアンはふっと笑った。
「こんな日に帰ったって、寝れやしねぇよ」
「……俺もです」
窓際にいた彼らは小さく笑っていた。
エドガーは二人のそばに寄り、一緒に窓の外を見上げる。
「いよいよだ……」
霧に滲んだ青い三日月は、少しだけ、歪んで見えた。
◇
軍務卿アルフレッド・ハートレーは、軍務省の自室から、窓を見上げた。
「閣下」
若い将校が、彼の後ろに立つ。
「……悟られていないだろうな」
「おそらく。……全て配置済みです」
副卿である男に気づかれずに動かせる人員など、そう多くはない。だが、緻密に計算し、王都から蟻一匹逃れられぬよう、人を配した。
「報せを待て」
「はっ」
将校の男が部屋を出ていく。
窓の向こうの青白い三日月。
ハートレーは腕を組んだまま、それを見上げ、ゆっくりと、細く息を吐いた。
◇
黒塗りの馬車が数台、ガス灯の明かりを避けるように石畳を駆け抜けていく。
その中の一台。
アーサー・グレイは馬車に揺られながら、車窓に掛けられたカーテンを少しだけめくった。
夜空には、青白い三日月。
薄く雲が掛かり、わずかに滲んでいる。
彼は大きく息を吸うと、祈るように片方の胸に手を置いた。
やがて馬車が停まり、彼らは音を立てずに邸宅を囲って待機する。
アーサーも屈んで号令を待った。
それは、音のしない、静かな夜だった。
雲に、月が隠れる。
エイドリアン・レンドールの邸宅は王都の端にあった。
軍務省の二番目の高い地位にいる男とは思えないほど、まして、あれほどの情報や金を動かしていた男の家とは思えないほどに、小さな、慎ましい家だった。
灰色の石造りの家は、二階建てほど。
壁には蔦が這い、前庭の芝は短く刈られ、木も、花もない。
窓からは、灯りがわずかに漏れている。
――だが、あまりにも静かだった。
再び雲が晴れたとき、指揮官が立ち上がる。
一瞬にして緊張が膜を張ったように生まれ、
「突入!」
彼らは、駆け出した。
邸宅内は、荒れていた。
玄関ホールの絵画は床に落ち、花瓶は割れ、薄い絨毯に染みを作っていた。
アーサーは、妙な違和感に奥歯を噛み締める。
捜査員達が互いに指示を飛ばし、怒声を上げながらそれぞれ駆けていく。
アーサーはその隙間を抜け、執務室へと駆け出し、扉を勢いよく開けた。
暖炉の火は、消えかけ。
書架の本は全て床にばら撒かれたように落ち、カーテンは引きちぎられている。
本の上に、インク壺も落とされ、それは青黒い染みをあちらこちらに作っていた。
その染みは、足跡さえ残している。
軍靴で踏んだ跡。
――わざとか?
アーサーの目が壁に止まる。
それは、マントルピースの上。
世界地図が壁に貼られている。
飾られているのではない、ナイフが突き立てられ、地図が壁に縫い留められていた。
「こちらにもいません!」
「客室は空です!」
捜査員達の声が、あちらこちらから上がる。
「寝室にもいません!」
アーサーは、地図に近づいた。
ナイフが刺されている箇所。
息を呑む。
こぶしが、知らずに震えた。
「……逃げられたんだ」
それが示しているのは、アルストリア王国とは非同盟国であり、犯罪人引渡条約が締結されていない国。
――逃げ込まれれば、手が出せない国。
アーサーは、その場に膝をついた。
暖炉の火が、燻り、
――そして、消える。
灰だけが残された暖炉。
壁のナイフに、かすかな月光が映り込む。
レンドールは、あえて部屋を汚していったのではないか。
おそらく、余裕はなかった。
それでも――あえて、こうしたのだ。
日頃の犯罪行為のように、まったく形跡を残さずにこの国を発つことは困難だった。
だからこそ、逆に全てを残し、全てを汚していったのだ。
――それほどまでに。
――これほどまでに、追い詰めたというのに。
(暖炉の火は、もっても三時間。
つまり、三時間前まで、奴はここにいた)
あと数刻早ければ。
あとたった数刻――。
アーサーは拳を振り上げ、床を打った。
「……くそっ!!」
まだ乾ききらぬインクが、じわりと部屋の床に染みを広げていく。
◇
「……エドガーさん。すみません……。間に合いませんでした……」
震えた声。
アーサーは馬をかけ、いち早くエドガーのもとに報告に急いだ。
敗北の報告を、彼にするために。
アーサーの目からは、悔し涙がいくつも、いくつも落ち、その黒衣の制服を濡らした。
「軍からの報告でも、レンドールの乗った船は未だに見つかっておらず……。
まだ、船上にいる可能性は高いけど……」
「……見つけられはしないだろう。きっとまともな船ではないだろうから」
エドガーは拳を握り、それを額に当てた。
歯を食いしばり、瞳を伏せたアーサーは、胸ポケットから一枚の紙を取り出し、エドガーに差し出した。
アーサーの指は、震えている。
受け取るエドガーの指先も、震えていた。
それは、レンドールの執務室の机上に、丁寧に置かれていた紙。
◇◇◇
親愛なる E.R.
君は正しい。
だが世界は君の理では動かない。
秩序は守られねばならない。
―R
◇◇◇
走り書きされた文字。
インクはところどころ掠れ、または滲み、急いで書かれたものだと分かる。
エドガーは、机に手をつき、静かに俯いた。
吐き出された震えた呼吸の音が、部屋に落ちる。
「……彼の言う通り、指の隙間から……零れ落ちていったんだ……」
「エドガー……」
「……エドガーさん」
ルシアンが、エドガーの背に、そっと手を触れる。
エドガーは細く、長く、息を吐いた。
長く、彼はそうしていた。
時計の針の音。
どこかから、犬の鳴き声がする。
やがて、彼は顔を上げると、アーサー、ルシアン、ピップの顔を順に見た。
みなが、青ざめた顔をしている。
「……レンドール侯は、確かに捕らえられなかった」
口角を無理やり上げた。
「だけど、きっともう、彼はこの国にはいない」
首を振ると、背の黒髪がかすかに揺れる。
「この国の足元を這いずり回っていた恐ろしい蛇は、もういないんだよ。
それだけでも、僕たちはこの国を守れたと言えるのかもしれない」
彼の視線は、ゆっくりと下がっていく。
「……でも、やっぱり」
再び机に両手をつき、彼は、瞳を伏せた。
「……悔しい」
窓から差し込む月光。
細い三日月の明かりは、あまりにも弱い。
誰かのため息が、静かに部屋に落ちていった。




