4-15 底に沈む青
限りなく黒に近い濃茶の木製カウンターに、落とされた照明がかすかに光を滑らせていた。
王都セント・ブリッジ区。
整えられた行政街の一角に静かに佇む高級バー〈シルバー・レイン〉。
マスターの後ろに並べられたボトルがランプの灯りを静かに返し、客たちの会話は低く抑えられている。
カウンターの端に座っていたエドガーは、顔をあげた。
決して広くはない店内。
天井の梁に影が溜まっている。
かすかに雨の匂いが店内に滑り込んできた。
店の使用人によって開けられた扉から、静かに姿を見せたのは――
ヴィヴィアン・クロウフォード。
襟の詰まった黒いドレス。引き締められた腰。その裾は、歩くたびに彼女の脚に沿って揺れる。
エドガーは席を立って彼女を迎えた。
ヴィヴィアンはエドガーの群青の瞳を見つめながら近づいていくと、ふわりと笑む。
「……さすが法務官様ね」
揃って席につくなり、ヴィヴィアンはエドガーに体を寄せた。
「よく私のホテルが分かったわね。馬車を迎えにこさせるなんて、粋だわ。
でも、本人が来ないの。
……最低だわ」
エドガーは声を出さずに笑う。
「伊達に法務官はしてませんからね」
ヴィヴィアンは呆れたように首を振ると、エドガーから離れて小さく笑った。
ゆるく編まれた赤髪が揺れ、うなじに触れる。首まで詰まったドレスは、その首から胸元までレースで覆われ、近づくと肌がほんのりと覗いた。
「マスター。彼女に、何か合うものを」
エドガーがカウンターの向こうにいたマスターに声をかけると、男は静かに頭を下げる。
「そういうのは、あなたが選んでくれるんじゃないの?」
ヴィヴィアンがエドガーのウィスキーに手を伸ばしかけると、エドガーはすっと彼女からグラスを遠ざけた。
「僕はあなたのことを何も知らないですからね」
「あら、そうかしら?」
「あなたの名前さえ知らない」
エドガーがちらと横を見ると、ヴィヴィアンは不敵に笑みながら、脚を組んだ。淡く光沢のあるドレスが光を散らす。
「……あなたにはちゃんと名乗ったわ。
ヴィヴィアンよ。ヴィヴィアン・クロウフォード」
エドガーはグラスを揺らしながら、ふっと笑った。
「この国ではそれで通してるの。名前なんて記号よ。必要ある?」
「いいえ?」
グラスが、カウンターの向こうから滑るようにして差し出された。
「……どうぞ」
透明なシャンパン。
泡が静かに弾けるその底に、わずかに青が沈んでいる。
ヴィヴィアンはわずかに目を細めると、マスターをちらと見た。
「……お似合いですよ」
マスターは口元をやわらげて軽く頭を下げると、向こうの客の方へと歩いていく。
彼女は耳元の深い青のピアスに少しだけ触れてから、エドガーに視線をすべらせた。
「……あなたの色よ」
「まさか」
ヴィヴィアンがふっと笑うと、エドガーは小さく首を振る。
「あなたが迎えに来るのは、もう少し先かと思ってたわ」
「……そうですか?」
カウンターに肘をついて顎を支えたまま、ヴィヴィアンはその水色の瞳で上目遣いをした。
「初恋に、けじめをつけようとしているんでしょ?」
エドガーは瞳を伏せ、小さく息を吐く。
「あなたの情報網は、本当に凄いですね」
「ねぇ、見て。私のこと」
ヴィヴィアンが軽く手を広げると、エドガーはそれを横目で見た。
「露出の少ないドレス。知的な雰囲気の色味の薄い化粧。柔らかそうな髪。
……あなた、こういうお嬢さんがお好きでしょ?」
エドガーは眉を寄せる。
「あなたがお付き合いしたお嬢さんたち、みんなこんな雰囲気よね。
でも、そんなお嬢さんたちって、良家のお嬢様だった」
エドガーはヴィヴィアンから視線をそらしてグラスを口に運ぶ。
「彼女たちは、結婚して子をなすことを当然だと考えてる。
だけど、家柄も良くて、将来性があって、肩書もあって、紳士的で、見た目も良い最高の恋人のあなたの唯一の欠点は――
結婚を全く考えていないこと」
ヴィヴィアンがグラスに口をつけると、底に沈んでいた青がぼんやりと滲んだ。
「そりゃあ、あなたの恋、続かないわよね」
「……本当にあなたは……」
額を手で覆ったエドガーを見て、ヴィヴィアンはからりと笑う。
それから、静かにもう一口カクテルを飲むと、グラスを置き、プレートにそっと指先を添えた。
「私はね、世界を股にかけてお仕事してるの。とっても楽しいわ」
その円を、ゆっくりとなぞる。
「私ね、縛られたくないの」
エドガーのグラスの中では、氷がかすかに軋んだ。
「私、そこら辺のお嬢さんより、頭もいいと思うのよ。
……おしとやかではないかもしれないけれど」
グラスに添えていたエドガーの手の甲に、爪先だけ、そっと触れさせる。
「エドガーさん」
エドガーが横を向くと、視線がゆっくりと絡んだ。
「……私にしておけば?」
水色の瞳の奥。
言葉にならない温度が静かに沈んでいる。
エドガーが口を開く前に、彼女はぱっと視線を逃がし、淡く笑った。
「……なぁんてね。
あなたみたいな人には長期戦で挑むわ。
覚悟しておくことね」
彼女の血色の良い唇が、弧を描く。
ゆるく編まれた髪にその瞳が隠されるのを、エドガーは静かに見つめた。
グラスを持ち上げ、彼も、淡く笑う。
「僕があなたの恋人になるより、僕が法務官としてあなたを裁定する日の方が先かもしれませんよ」
ヴィヴィアンの口端が、さらにきゅっと上がった。
「……この国の法に触れるようなことはしてないわよ。多分ね」
「……本当に?」
「さぁ? どうかしら。詳しくないから、わからないわ」
「……ご冗談を」
ヴィヴィアンは眉を下げて、楽しそうに笑う。まるで少女のように、その笑顔はどこかあどけない。
ひとしきり笑うと、ヴィヴィアンはエドガーの太ももに手をおいた。
彼に、そっと顔を寄せる。
「でも、一つだけ」
エドガーは視線だけを返す。
「……急いだ方がいいわ。
非同盟国に逃げられたら、手が出せなくなる」
「……それは」
「私の商売柄、逃げる人間の匂いには敏感なの」
エドガーがヴィヴィアンの瞳を覗き込むようにすると、彼女は彼の頬に手を添えてにっこりと笑った。
「私ももうじき、アルストリア王国を発つわ。
またしばらく会えなくなるわね」
ヴィヴィアンの指先が離れる。
エドガーは熱を追うように、つい、その赤い爪を見つめた。
丁寧に塗られたマニキュア。
その赤が、耳元の青いピアスに触れる。
それを一つだけ抜き取り、手のひらに乗せてエドガーに見せた。
「あなたの瞳の色。理知と、覚悟と誇り」
ラピスラズリは光を吸い、深く沈黙している。
ヴィヴィアンはゆっくりとピアスからエドガーの瞳に、視線を持ち上げた。
「それから……案外セクシーだわ」
彼の手首を掴み、ピアスを握らせる。
「あげるわ。記念に取っておいたら?」
エドガーが眉を寄せるのも構わず、ヴィヴィアンは席を立った。
妖艷な笑みを残し、バーの扉へ向かって歩いていく。
使用人が扉を開けると、一瞬、雨の強い匂いが漂った。
彼女は、エドガーに向かってウィンクを落とし、そのまま夜の街に溶けていく。
扉が閉まる。
かすかな彼女の香水の香りと、雨の匂いは店内に残されたまま。
エドガーは細くため息をつき、手の中の片方だけのピアスに視線を落とした。
金具が、鈍く光を返している。
彼は少しだけ目元を緩めると、フロックコートのポケットにそっと押し入れた。
グラスを持ち上げ、口につける。
氷が、カラン――と、小さく鳴った。




