4-14 合図は既に
「やぁ、そこの君。長官室に案内してよ」
軽やかな声に顔をあげた治安監察局の受付局員は、目を見開いた。
落ち着いたグレーのチェスターコート。
その下から、上質なペイズリー柄の紺のベストが覗く。クラヴァットピンの宝石は小さいながらも品よく光を滑らせ、彼が手に持つ革の手袋は柔らかい最高級品。
きっちり撫でつけた銀灰の髪の洒落た紳士は、黒い瞳を細め、蠱惑的に笑んだ。
王立裁定院長官――アルジャーノン・クロフトは、受付のカウンターに肘をつき、急に慌てだした局員たちを楽しそうに眺めている。
一人の局員が受付から飛び出し、廊下を駆け出す。彼らの長官に知らせに行くのだろう。
「……閣下、ご案内いたします」
「あぁ、よろしく」
位の高そうな局員の後をついてアルジャーノンが歩けば、水が引くように人が道を譲る。
長官室。
王立治安監察局長官――レジナルド・ハーカーは、うんざりとした顔でアルジャーノンを迎えた。
黒革のソファに腰を下ろしたアルジャーノンは、目の前に座っているレジナルドの顔をまっすぐに見つめる。
「昔話をしに来てあげたよ」
「……」
レジナルドはその太い眉を歪めた。
局員が震えながら置いていったカップの紅茶から、湯気が静かに立ち上っている。
「僕らのいくらか下の世代に、天才がいたでしょ?」
「お前のことか?」
アルジャーノンはその黒い瞳を責めるように細めた。
「“下の世代”だって言ってるでしょうよ」
レジナルドはそれを受け流し、カップを口に当てる。
「いわゆる天才だの有能だのと呼ばれる人物は、案外少なくない」
「分かってるじゃないか。
少し抜き出た人物に名をつけて、だから自分たちとは違うのだ、自分が無能な訳ではないのだと人間は安心したいだけだよ」
アルジャーノンは長い脚を組み、窓に視線をやった。
「でもね、僕は彼をかなり頭がいいと思ってる。
しかしながら、彼は夢見がちだ。
本質的には人間が好きなんだろうね。
でも、人間てやつが愚かであることを、どうしても受け入れられない。
――だから、彼は壊すことに決めた」
アルジャーノンは一人で静かに笑うと、紅茶を飲む。
レジナルドはそれを黙って見つめた。
「僕は若い頃、従順を装ってた。その方が上の人達から受けが良いからね」
「私も騙された。話しやすくていいやつだと思っていたのに……。こんな曲者だったとは」
「やりたいことをやるためには、“上の人間”にならなきゃいけないって分かってたからね。出世するまではおとなしくしてたのさ」
長官室に飾られた軍旗にも似た旗。
それには王立治安監察局の紋章が美しく織られているが、白地は少しだけ黄色くくすんでいる。
あれがこの部屋に飾られるようになったのは、レジナルドが長官となるよりも、きっと前のことだった。
「僕は、従順を装ってた。
君は、端から脳筋だった」
レジナルドはもはや文句をいう気も失せ、ただ黙ってアルジャーノンの次の言葉を待つ。
「それに比べて、彼は……純粋だった。だからすぐに理想が壊されて、嫌になっちゃったんだ」
アルジャーノンの黒い瞳が静かに細められた。
「有能で上からも可愛がられた彼はどんどん出世していったよ。僕ははじめ、それを楽しく眺めてた。
――でも、少しやりすぎた。
さすがに“軍務卿”になるのは困る。もはや彼は危険思想の持ち主だからね。中途半端なところで燻ってるくらいがちょうど良かったのに」
アルジャーノンがレジナルドを見ると、レジナルドは眉を寄せる。
「……まさか、軍務省の人事にまで口を出してたのか?」
裁定院長官は口端だけ持ち上げて見せた。
「アルフレッド・ハートレーは典型的な軍人だよ。人望もある。いささか真っ直ぐすぎるけど。
どっちがいいと思う? と聞かれて、ハートレーがいいと思うって僕は答えただけだよ」
「誰がお前にそんな質問をしたのかは聞かないでおく」
「それがいいね」
長官室に敷かれた薄い臙脂の絨毯は、ところどころが擦り切れそうになっていた。
アルジャーノンは、薄くなっている箇所をブーツのつま先で軽くいじると、ふと、顔を上げる。
「彼に力を持たせてしまったのは、僕が何も言わなかったからかもしれないって、少しだけ……本当に少しだけ、負い目がある」
レジナルドは膝にこぶしを乗せたまま、静かに首を振った。
「本来お前にそんな権限はないだろう」
「無いけどね。
僕を頼りにしてる偉い人がいる」
アルジャーノンは立ち上がった。
「レジナルド」
腕を組んで立つアルジャーノンを、レジナルドは眉間に深い皺を寄せて見上げる。
「僕たち、ほぼ同期で仲がいいよね?」
「……仲が良いと思ったことはないが……」
くすんだ旗。
擦り切れた絨毯。
組織の長の部屋でありながら、質素で使い込まれた部屋を、アルジャーノンは見渡す。
やがて、レジナルドに視線を滑らせると、彼はふっと笑った。
「僕のかわいい法務官が、戦争を仕掛けようとしてる。
協力してくれるよね?」
レジナルドの眉間の皺が少しだけ緩み、かわりに顔色がさっと悪くなる。
「……尻尾を掴んだのか?」
「そのようだよ。
何を掴んだのかはまだ、あの子は報告書一枚さえ出していない。どこにも気取られないようにしているみたいだ」
アルジャーノンはぺらりと手のひらを差し出した。
「ほら、出して」
レジナルドも立ち上がり、その手を見つめ、息を呑む。
「まとめてはあるんでしょ?
彼が狂ってるって証拠」
治安監察局長官の口元にも、抑えられない笑みが浮かんだ。
「一気に畳み掛けないと、きっと逃げられる」
「一法務官のために、お前が動いたというのか?」
「まさか。あの子のことはかわいいと思ってるけど、まだまだだよ。
僕は、裁定院しか愛していない」
レジナルドは腕を組むと、苦く笑う。
「レジナルド」
視線が、まっすぐと交わる。
「出せ」
アルジャーノンの手をもう一度見下ろした。
そして、軍人のような胸板の厚いその男は笑みを消し、一度瞳を伏せる。
やがて、大きく息を吸うと、また目を開いた。
その瞳に、光が差し込む。
それは、正義を司る治安監察局の長たる瞳。
アルジャーノンは、楽しそうに口角を上げた。
「いつ、号令は下る」
「急がせるよ」
レジナルドはずっと壁に控えていた数人の局員に、視線を送る。
彼らは深く頭を下げると、部屋を出ていった。
その背を見送り、アルジャーノンは気楽そうに自分の髪に触れる。
「これで、一つの時代が終わるのかなぁ?」
「ちゃんと……終わらせられたらいいが」
彼らの瞳がまた、交わる。
「僕らは裁定を下すだけ。
捕まえるのは、君たちの仕事だよ。
その先は、知ったこっちゃない」
レジナルドは大きく頷く。
「また遊びに来るね」
アルジャーノンが優雅に扉に向かって歩き出すと、レジナルドは眉を寄せた。
「そんな気軽に来ないでくれ……」
アルジャーノンの笑い声が部屋に落ちる。
扉が閉まり、静寂だけが残され、レジナルドは小さく息を吐いた。
エドガーの法務官室の扉が開く。
自席にいたエドガーと、ピップは同時に顔を上げた。
「やぁ、ベルガモットのコロンの君」
アルジャーノン・クロフトが踊るような足取りで中へ入ってくると、ピップは顔を青ざめさせ、急いで立ち上がる。
エドガーは淡く笑みながら、ゆっくりと席を立った。
アルジャーノンの後ろから、木箱を抱えた書記官と事務員がぞろぞろと入ってきて、部屋にそれを並べていく。
「……長官。大変助かりました」
机の前まできたアルジャーノンにエドガーは軽く頭を下げた。
アルジャーノンは内ポケットから一枚のカードを取り出し、人差し指と中指で挟む。
「エドワード・ハリントン死亡事件の調査報告書に裏返しのジョーカーのカード。
ベルガモットのコロンの香りまで添えて」
カードをぺらりと回して、ジョーカーをエドガーに見えるようにした。
「僕の机にこれを置いたのは、君でしょ?
……ちょっと楽しかったよ」
アルジャーノンがにっこりと笑うと、エドガーは目礼で返す。
「レジナルドを動かしてあげたからね」
ピップは何箱も並んだ木箱を見ると、息を飲んだ。
「さぁ、あとは思う存分、楽しく踊りたまえ」
アルジャーノンは軽やかに笑うと、踵を返す。
「ありがとうございました」
「じゃあね」
エドガーが頭を下げると、アルジャーノンは振り返りもせずに手だけを振って、颯爽と部屋を出て行った。
ピップは口を開けて、その光景を見つめる。
ゆっくりと視線をエドガーに向けると、彼は木箱を楽しそうに眺めていた。
「……エドガーさん?」
エドガーは木箱に近づくと、早速蓋を開けて中を検分し始める。
「……頼りになる人は財産だって、言ったでしょ?」
中に入っていた書類に視線を落としながらエドガーがふっと笑うのを、ピップは眉を寄せて見た。
口に手を当てる。
「……エドガーさんて、時々すごく怖い」
エドガーはたまらず声を上げて笑った。




