4-13 風の前触れ
治安監察局本部のすぐ近く。
王立大学や研究所が並ぶ学院地区であるハートウェル区に佇むバー〈古書と麦酒《ブック&エール》〉。
古書店の並ぶうねった石畳の通りを抜けた先。
木の扉を開けると、漂ってくるのは古書と蝋燭、それからウィスキーの匂い。
客たちは、本を開きながら酒を嗜み、カウンターやボックス席で言葉も交わさず静かに過ごしていた。
治安監察局には近いが、局員たちや、お喋りをしたい若い学生は、あまりここへは足を伸ばさない。
そんな、静かなバー。
ベルベットの布張りのソファが並べられたボックス席。
エドガーが一人でグラスを傾けていると、ゆっくりと木床を踏む軋んだ音が近づいてきた。
エドガーは顔をあげ、わずかに眉を寄せる。
「……なぜ?」
治安監察局実務官アーサー・グレイは肩をすくませながら、エドガーの向かいに腰を下ろした。
彼の出で立ちは、黒いフロックコートに黒のシルクハット。いかにも貴族的な服装。
「……コートニー主任が念のためにと」
エドガーは口元に淡い笑みを浮かべながら、店内に視線だけをそっと巡らせる。
庶民の出であるアーサーがシルクハットを被るのは、誰かの目を誤魔化したいとき。
「……今さらだと思うよ」
「まぁ……念のためです」
以前に“軍務省の腐敗に対して裁定院は調査を始める”と声明文を出したエドガーと、不正を見逃せずに踏み込みすぎたアーサー。彼らは既にレンドールから揃って目をつけられている。
だからこそ、エドワード・ハリントン死亡事件の際には徹底して圧力を掛けられた。
アーサーはエールといくつかの食べ物を注文すると、また静かにエドガーと向き合う。
「なんか……いつもと違いますね」
エドガーは木製テーブルに肘をついたまま、アーサーの灰の瞳を見た。
「……そう?」
「……はい」
店内の壁に備え付けられたランプの淡い光。
テーブルの上にも、古めかしい燭台が置かれているが、かろうじて本の文字が読める程度に照明は落とされている。
ゆらりとエドガーの瞳に光が差し込み、アーサーは小さく息を飲んだ。
やがて、アーサーの注文した品がテーブルに並べられる。
小さく鳴る食器の音。
二人は、互いに小さく杯を持ち上げた。
氷の軋む音。
蝋燭の火が、一瞬だけボッと強く燃え上がる。
エドガーは、口元にかすかに笑みを浮かべた。
「彼への道標を……掴んだんだ」
小さく零された、エドガーの声。
だが、アーサーはゆっくりと視線を上げた。
「やっと……ここまで来れた」
「……エドガーさん」
エドガーは視線を手元に落としたまま。
「エドガーさん。
……私に何かできることはありますか?」
「忙しくなるから、覚悟して」
エドガーは、ふっと楽しそうに一瞬だけ笑った。
「……きっと嵐が来る。
少しだけ、仕掛けておいたんだ」
アーサーはきょとんとエドガーの群青の瞳を見つめる。
「それは、告発後の話ですか?」
「きっと明日にでも、風が吹くよ」
エドガーはウィスキーのグラスを軽く煽る。
「それは……もしかして……」
アーサーは眉を寄せ、エドガーはにっこりと笑んで見せた。
「……僕にはさすがに治安監察局を動かすほどの力はないからね」
「あ……あぁ……」
アーサーは思い当たる“嵐”の存在に、少しだけ顔を青ざめさせ、遅れて笑った。
「まぁ……今日は飲みましょう」
「うん」
「……ところで、ルシアンさんは?」
「誘ってみたけど、やっぱり断られたよ」
「えぇ~。私はこんなにルシアンさんを慕っているというのに……」
エドガーは小さく声を立てて笑った。
アーサーは項垂れながらもフォークを持つと、注文した品々を次々に口に運んでいく。
店内に落ちる、紙をめくる音。
手元にちらつく、燭台の明かり。
エドガーは片手で小さくグラスを揺らした。
グラスに弾かれた蝋燭の光は、テーブルの上に琥珀色の影を落としていた。
バーを離れ、エドガーは下宿部屋へ向かう。
並ぶガス灯の明かりが、わずかに湿った石畳を濡らしていた。
秋も、もう終わろうとしている。
吐いた息は白くなり、すぐに解けて消えた。
コートの襟を立て、風を遮る。
オルドンという街は、秋だけは霧が晴れる。
だが、それももうじき終わる。
この街はやがて、再び霧に包まれることだろう。
握った黒壇の杖の先が、軽く石畳を打ち、小さく音を鳴らした。
エドガーは足を止め、振り返る。
「……お待ちしていましたよ。閣下」
ガス灯の下。
黒い外套の男が影から現れた。
外套の下から覗く金の紋章に、青白い光が滲んでいる。
エイドリアン・レンドールは、口端を小さく持ち上げた。
「面白くないことを、はじめたようだね」
エドガーはわずかに首を傾げる。
「さぁ、何のことでしょう」
膜を張ったような、静寂が訪れる。
「君は、私が思っていたより若い判断をしたようだ」
「……だったら、どうだというのです。
幻滅したとでも、仰るつもりですか?」
影は深く、レンドールの瞳の色さえ見えはしない。
「君を見ていると、昔の自分を思い出すよ」
エドガーは、ただ静かにレンドールを見据える。
「君は賢い」
ぽつりと零された言葉は、波紋のようにじわりと薄闇に広がった。
「だが、とても優しい」
その男は、ゆっくりと顔をあげた。
「あの鬼才と呼ばれる男ほど、君は割り切れやしないだろう」
レンドールは、笑うわけでも、憐れむわけでもなく、ただまっすぐにエドガーを見つめ返す。
「いつか、君は絶望し」
男の声が、沈む。
「そして、理解するだろう」
「……何を」
「“何を”?」
レンドールは、小さく笑った。
「もう、わかっているだろうに」
彼は、踵を返す。
そして、闇に溶けるように去っていった。
どこからか、馬車の音が響いてきた。
街のバーから漏れ聞こえてくる紳士たちの笑い声。
かすかなオルガンの音。
冬の訪れを知らせる、冷たい霧の匂い。
足元に、ガス灯の橙が滲んでいる。
やがて、エドガーも踵を返し、歩き出した。




