4-12 静かなる共謀
離れた場所で馬車を降り、エドガーは外套の裾を揺らしながら赤煉瓦の建物に近づいた。
ガス灯の数は少なく、月明かりがその壁を濡らしている。
裏口の戸を、合図と分かる者にしか分からない、一定の間隔で叩いた。
扉が開く。
わずかに漏れる暖気。
ぼんやりとした燭台の明かりに照らされた老齢の支配人は丁寧に礼を取った。
「いつものように」
エドガーがそう言うと、支配人は「心得ております」とだけ応え、静かに歩き出した。
ここは、王都のはずれにある老舗ティーサロン〈クロックフィールド・ハウス〉。
昼は貴婦人の社交場、夜はごく限られた紳士たちの密談の場。
閉店後に残るのは、少数の使用人のみ。
毛足の長い臙脂の絨毯は足音を吸い、壁の燭台の火は、廊下の隅に淡い影を作り出している。
二階奥、サロンの個室。
エドガーを部屋に通すと、支配人は礼をしてすぐに去っていった。
次の客人を迎えるために。
エドガーは部屋の壁に目をやる。
暖炉の火に照らされた、壁の古地図。
今とさほど変わらないアルストリア王国の地形。近隣の国々は時代とともにその姿を変えてきた。幾度も戦火を越えながら、それでもこの国は、この形を守り続けてきた。
――レンドール侯は、それさえ、変えてしまいたいのだろうか。
テーブルの上のオイルランプの火が、小さく揺れた。
革張りのソファに、身を預ける。
暖炉の火が爆ぜる小さな音。
窓枠を揺らす、晩秋の風。
この部屋に染み込んだ蝋燭と、ブランデーの香り。
エドガーは自分の指先を見つめた。
それは、かすかに震えている。
きっとこれは、恐怖ではない。
――武者震いだろう。
遠くから馬車の音。
エドガーはソファから立ち上がり、客人を待つ。
細く長い息を吐き出し、静かに扉を見つめた。
やがて、ノックの音が部屋に落ちる。
「どうぞ」
扉がゆっくりと開く。
支配人の後ろに立つのは、灰褐色の短髪に鋭い眼差しの男──
軍務卿アルフレッド・ハートレー。
エドガーは深く、頭を下げた。
ハートレーは部屋に足を踏み入れると、わずかに目元をやわらげる。
「ここでお会いするのは、二度目ですな」
「はい」
エドガーとハートレーが向かい合ってソファに腰を下ろした。支配人は無言でブランデーを注ぎ、一礼をして去っていく。
その背を、二人は静かに見送った。
扉が音を立てずに閉められる。
二人は、視線を合わせた。
「ハートレー卿。お変わりはありませんか」
ハートレーは苦く笑う。
「息子がやっと結婚したくらいかな」
「壮大な結婚式でしたね」
エドガーが頬をゆるめて小さく微笑むと、ハートレーはグラスを手に取った。
「……それから、私の足元が、異様に静かなんだ。ずっとな」
エドガーは小さく頷く。
「動けば、足元を掬われる。
踏み鳴らせば、何かが噴き出しかねない」
「その均衡を、閣下は守ってこられたのです」
ハートレーはグラスを煽った。
そして、不敵に笑って見せる。
「それを……君は、壊そうとしているんじゃないのか?
だから、私を呼びつけたのだろう?」
「“呼びつけた”とは人聞きが悪いですね」
エドガーが小さく笑うと、ハートレーも少しだけ声を立てて笑った。
「君の大人しそうな見た目に、私はもう騙されんよ」
グラスの氷が、軋む。
「閣下」
群青の瞳が、ゆっくりと持ち上がる。
「私は、彼への道標を、ようやく手に入れることに成功したのです」
軍務卿はグラスを置き、静かにエドガーの瞳を見つめた。
暖炉の火が、彼らの横顔を橙に縁取る。
「それは……本当か?
……あの男が証拠を残したというのか?」
「若い頃の彼が残した痕跡です。それは現在へも連なっている」
エドガーは小さく息を吸った。
「閣下」
そして、一拍だけ言葉を置いた。
「私は彼を告発します。
……しかし、その結果、軍が荒れるかもしれません」
軍務卿は頷くと、静かに視線を下げる。グラスに手を添え、小さく揺らした。
「……少しだけ、私に時間をくれないか。軍内部にも、奴の配下は多くいる。
――だが、私の配下も多くいる」
ゆっくりと、その視線をエドガーに向ける。
「彼だと思しき犯罪の証拠をかき集める。
いや、既にほとんど手元にはあるが、ずっと封じてきたんだ。
これまでは、あれを抑えつけるだけで精一杯だったが……」
ハートレーは、口端を歪めた。
「君が戦うというのなら、我々も前に立とう。
君を一人で戦わせはしない。
彼をのさばらせてしまったのは、軍の責任でもあるのだから」
暖炉の火が、小さく爆ぜた。
「すぐに整える」
エドガーは頷くと、グラスを手に取る。
「治安監察局にも、声をかけるつもりです」
「それがいいだろう。
やつに押さえつけられてきたのは、治安監察局も同じだからな。
最も一杯食わせてやりたいと思っているのは、治安監察局かもしれん」
二人の男は不敵に笑い合い、静かにグラスを当てた。




