4-11 名を得た影
雨が、ガラス窓を叩いていた。
エドガーは昼食をとりに、ハートウェル区にあるカフェ、ミルフォード・ティールームへ来ていた。
木製のテーブルの上には、いつものダージリンとブラウンブレッド。
低い天井の木の梁に、ぼんやりと影が溜まっている。
店内に漂う、紅茶と、かすかな木の香り。
エドガーは鞄から本を取り出し、項をめくった。
食器の触れる小さな音。
店にいる客は少なく、人の声はほとんどしない。
ふと、椅子を引く音が、響いた。
エドガーは顔をあげ、かすかに眉を寄せる。
彼の目の前の席に座ったのは、黒い短髪の紳士。
氷を削ったかのような、銀の瞳。
どこにでもいそうな黒いフロックコートに、地味な灰のクラヴァットは細く結ばれている。
瞳だけが、鋭い男だった。
「やぁ。レイブンズ君」
澄んだ声。
湖に一つだけ小石を落としたかのように、静かにその声は沈む。
エドガーが口を開き、名を呼ぼうとすると、彼は人差し指を自分の唇に当てた。
「それは無粋だよ」
男はふわりと笑んでみせた。
エドガーは口を閉じる。
――エイドリアン・レンドール。
軍務省副卿。
裁定院内で“真の黒幕”と呼ばれる男。
「……なぜこちらに?」
レンドールは窓に視線を投げた。
「いい加減、君も嫌気が差した頃かと思ってね」
「何に……でしょうか」
雨粒が、ガラス窓を伝って、いくつも落ちていく。
レンドールは手を広げてみせた。
軍人の手とは思えぬほど、繊細で細長い指。
「どれだけ手を広げても、零れ落ちていくだろう?」
横目で、彼はエドガーを見る。
蠱惑的だと思えるほどに、その瞳は澄んでいた。
「善人は死に、悪人は甘い汁を吸う」
彼は軽く笑った。
「……まぁ、私も、君にとっては“悪人”かな」
エドガーは本を閉じてテーブルの端に置く。
「あなたは……」
「君も、私と共に秩序を作らないか」
群青の瞳と灰の瞳がまっすぐに交わった。
「君は優秀だ。きっと素晴らしいものが作れる」
エドガーは奥歯を噛み締め、レンドールを見据える。
「目的は何なのです」
「哀れな人間を守ってあげること」
レンドールは顔を横に向けると、落ちていく雨粒を楽しそうに眺めていた。
「一度壊して秩序を構築し直すんだ」
「人を守るために法があるのです」
ゆっくりと、顔を正面に向ける。
彼の口角が、するりと上がった。
「君は、何を見てきた。
法は人を裏切り、人は法を破ろうと躍起になる」
テーブルに肘をつき、彼は顎を支える。
「実際君は、守りたいものを、守ってこれたのか?」
エドガーが目を細めると、レンドールはそれを興味深そうに見つめた。
「守りたいものは失われ、大切なものは奪われ、
……そしてどうなる?」
灰の瞳に、エドガーが映る。
「本当に“法”は人を守るだろうか」
レンドールは、艷やかに笑んだ。
「法は確かに美しい。だが……世界はあまりにも歪だ」
エドガーは膝の上でこぶしを強く握る。
節が白く浮き上がった。
「……だからこそ、泣きながら、血を吐きながら、考え続けるのです。
そうやって、法は形を変えながら、人と共に成長していくのです」
レンドールは口端を歪めながら、エドガーを見つめる。
「……あなたのやり方では、戦争も起こりうる」
男は、目を細め、口元に抑えた笑みを置いた。
「……まさか」
蒼白になるエドガーをよそに、レンドールは席を立った。
彼は、コートの裾を揺らしてゆったりと歩き始める。
すれ違いざま、彼はエドガーの肩に手を置いた。
エドガーが顔を上げると、レンドールは淡い微笑みを残して、そのまま背を向けた。
カフェの扉が開けられ、控えめなベルの音が店内に落ちる。
一瞬だけ、雨音が大きくなる。
エドガーは、そっと瞳を伏せた。
雨粒は、淡々と窓を打つ。
その音は、何も答えを与えず、ただそこに漂うだけだった。
裁定院の法務官室に戻ったエドガーに、ピップが駆け寄った。
「エドガーさん、急ぎの書簡です」
少しだけ雨を吸ったエドガーのコートをピップが受け取り、ブラシを掛け始める。
エドガーは机に向かうと、そこに置かれた革封筒の書簡を手に取り、立ったままペーパーナイフで封を開けた。
彼の口角が、ゆっくりと上がる。
「……エドガーさん?」
エドガーは静かに席に着いた。
「……繋がったよ」
コートをコート掛けに掛け、ピップは不思議そうな顔をしながら自席に戻る。
書簡は、筆跡鑑定士イーサン・マルブリーからのもの。
十八年前、エイドリアン・レンドールはまだ二十代後半だった。
十代で軍に入隊し、目を見張る速さで出世をしたものの、当時の彼が署名をして決裁を下した書類はまだ少ない。
鑑定士マルブリーに預けたのは三点。
現在の、彼の副卿としての署名。
ようやく見つけた、補給地点での、軍需物資の受取書に書かれた若い頃の彼の署名。
そして、ソフィアが持っていたエドマンド・ケビンの署名。
――結果は“全て一致”。
同一人物である、と。
あの頃、二十代だったあの男には、まだ配下が少なかったのだろう。補給地点へも、自ら運んだのかもしれない。
彼は、自ら足を運んで試験薬をばら撒き、患者のもとへ効果を確かめに行っていたのだ。
――そして、自分で、署名した。
ゾクリと肌が粟立つ。
――ようやく。
――ここまで来た。
書簡を見つめるエドガーの瞳に、ゆらりと炎のように淡い光が差し込んだ。
エドガーは立ち上がり、窓の近くに立つ。
雨に湿ったガラス窓に手を触れる。
向こうに霞む、黒い尖塔。
通り過ぎる馬車の音。
「さぁ……鬨の声をあげるんだ」
彼のつぶやきは雨音に飲み込まれていく。
ピップは、彼の横顔を静かに見つめ、知らずに息を呑んだ。




