4-9 残された証拠
ルシアンは石柱の門をくぐった。
西区の中程にある石造邸宅のヴァレンティン家は、歴史を感じさせる邸宅だった。
広大な庭園はあまり手が入っているとは言い難いが、奥の一角にある花壇だけは丁寧に整えられているのが遠目にも見て取れる。
玄関へ続く、欠けのある石畳。
二階建ての小ぶりな本邸。
灰の石が積まれた石壁は黒く濁り、少しだけ蔦が這っていた。
玄関段を上り、ノッカーを叩く。
しばらくして、戸が静かに開けられた。老齢の執事が丁寧に礼をし、ルシアンを中へと導く。
飾り気の少ない玄関ホールを抜け、木床の廊下を進む。
ルシアンと執事の足音だけが、響いていた。
――静かだな。使用人は少なそうだ。
廊下に並んだ絵画。
どれもきちんと埃は払われて清潔に保たれてはいるが、やはりどこか、年季と重い空気が漂っている。
応接室に通されると、すでにアーネスト・ヴァレンティン子爵は席についていた。
ルシアンは深く頭を下げ、勧められたソファに浅く腰掛ける。
「ヴェイル調査官殿。お待ちしてました」
「いえ、こちらこそ。お嬢様の部屋の調査を受け入れてくださり、ありがとうございます」
「……驚かれたでしょう。あまりにも古い家で」
ルシアンは微笑んだまま首を振る。年配のメイドがルシアンと子爵の前に紅茶のカップを静かに置いた。
ほっとするような芳香が立ち上る。
壁に控えるのは執事とメイドが二人。全員が長い年月をここで過ごした使用人のようだった。
「レイブンズ法務官殿の邸宅と比べると天と地の差でしょう。あそこは本当に大きいですからな」
「あ……いえ、私は彼の実家がどこにあるのかは……」
「おや、そうでしたか。うちの裏の丘の上に巨大な敷地の豪邸が見えたでしょう?」
ルシアンはここまで徒歩でやってきた。西区は丘へ上るほど高位貴族の邸宅が並ぶ。その光景を他人事のように眺めながら、ヴァレンティン子爵家の門を叩いた。
「……ありましたね……。……もしかして」
「えぇ、あそこがレイブンズ男爵家ですよ。うちから徒歩でも行ける距離です。
代々中枢に近い実務をこなしてきた家柄ですから、領地はなくともそこらの貴族より邸宅は大きいのです」
ルシアンはわずかに目を見開く。
――あいつ、本当にとんでもない家のお坊ちゃんだったんだな!
「そ……そうなんですね」
ヴァレンティン子爵は少しだけ頬を緩めて笑うと、カップを持ち上げて口に運んだ。
小さく息を吐く。
「……この家は、半ばソフィアのためだけの邸宅でした。
長年世話になっていたドクター・ルーファス・モンティエが王都にいたものですから、ソフィアと妻だけはずっとここに住み、私は領地を行ったりきたりの生活でした」
「……そうでしたか」
ルシアンは手帳を取り出し、メモを取っていった。
「娘が亡くなってからは……思い出ばかりのこの家にいるのがつらく……ずっと領地に引きこもっておったのです」
アーネストは壁に並ぶ使用人を見、淡く笑む。
「この家は彼らに任せきりだった……」
彼らは丁寧に頭を下げた。
「私も、そろそろこの邸宅を整理すべきかと戻って、ソフィアの部屋を覗いたのです。
彼女の気配の残る書き物机とクローゼット……。
他はまだほとんど見られていない」
子爵のため息が、部屋に落ちる。
「私が……見てしまってもよろしいのですか」
ルシアンがそう言うと、アーネストは眉を少しだけ下げて笑った。
「もともと物の多くない部屋です。
ソフィアは、ほとんど臥せってましたからな。
……見ていただけますか」
視線がゆっくりと下がる。
「老人の我々は……やはり、娘のいない部屋を見るのがつらい。
どうしても、手が進まないのです」
ルシアンは手帳をポケットにしまい、アーネストに向かって頭を下げた。
「……調査させていただきます。
改めて、受け入れてくださり、ありがとうございました」
◇
ソフィアの部屋は、静かだった。
淡い色味の絹壁。
大きな窓が並び、薄いカーテンがかすかに揺れている。
マホガニー材の書き物机。令嬢にしては小さなクローゼット。ベッド、ベッドサイドには小さな棚。
本棚には本が詰まっているが、よく手入れされており、カビの匂いは一切しない。
薄い白手袋を嵌めたルシアンは、まず机の中を見てみる。
ベルベットの上に並べられた少しくすんだペン先は、ソフィアが使って手入れをしたそのままなのかもしれない。ノートやレターセットは年月による黄ばみはあるものの、やはり丁寧に整えられていた。
一通り見ると、ベッドへ視線を滑らせる。
もうここを使う主はいないというのに、質の良いきめ細かいリネンは触れるとひやりとし、それから柔らかく熱を持つ。
埃も、カビもない。
――丁寧に、守ってきたんだな……。
サイドの棚。その一段だけの引き出しを開ける。
手鏡、櫛、リボン。
彼女が生きていたその空気。
ソフィアが普通の令嬢であった証。
一つひとつを取り出すと、
――コツッ。
まだ小さな音がした。
ルシアンは腰をかがめ、引き出しを覗き込む。
奥に転がっているのは――褐色の小瓶。
手を差し入れて、取り出した。
変色したコルク栓。
光にかざすと、ぼんやりと浮かぶ誰かが触れた痕跡。
――ソフィア嬢かな。
わずかに残る液体が、中で揺れた。
――残薬か……?
コルク栓を破損しないように、丁寧に抜く。
匂いを確かめた。
――独特の甘い匂い。
眉を寄せ、片手を顎に添える。
――……この匂い……どこかで。
――あぁ、思い出した。
――戦場で、嗅いだことがある……。
ルシアンはかすかに息を呑むと、丁寧に栓を締め直し、屈んで鞄から布を取り出して、しっかりと包んだ。
屈んだまま、部屋を見渡す。
令嬢が暮らした痕跡が色濃く残る部屋。
ルシアンは瞳を伏せ、十字を切った。
立ち上がり、調査を続ける。
彼の心の奥に、重い沈黙がひっそりと横たわった。
「おかえり。ルシアン」
相変わらずノックもせずに法務官室に入ってきたルシアンを、窓辺に立っていたエドガーは淡く笑みながら迎える。
「残薬を見つけた。薬品分析に出した」
エドガーは持っていた調査書を机に置いた。
「……そう。お手柄だね」
「やはり、この件の後ろにも、あいつがいると思う」
ルシアンは脇に避けてあった予備の椅子を机の前に置くと、それに腰掛けた。
エドガーは腕を組み、窓の外を眺める。
「彼は、何がしたいんだろう……」
「さぁな」
外にはもう、月が出ていた。
「国の機密情報を敵国に売り、紛争地域から攫ってきた人間をアルストリア王国で売買。
過去の事件では、同盟国でも売買していたことが分かってる」
彼が顔をあげると、その背の髪がわずかに揺れる。
「それでいて、今回は怪しい薬」
「金が欲しいだけではなさそうだよな」
「法は美しい。
しかし、秩序はそれ以上に脆い。
だから、守ってやらねばならない。
――君も、もう分かっているだろう?」
ルシアンは眉を寄せてエドガーを見た。
「……なんだ?」
静かに振り返ったエドガーの瞳には、淡く、月が映り込んでいる。
「彼が、僕に言った言葉」
それは、じわりと青く燃えたつように震えた。
「一度だけ、彼は僕に接触してきた。その時に言われた言葉だよ」
エドガーが息を吐く音が、部屋に落ちる。
「……戦争を起こしたいんじゃないかな」
「……え?」
エドガーは、目を細めて、小さく笑った。
「……なんてね」
彼はさっと振り返ると、机の上の調査書を引き出しにしまい、鞄を持ち上げて扉に向かって歩き出した。
「もう就業時間だ。帰ろう」
「あ、あぁ……」
フロックコートを羽織り、颯爽と部屋を出ていくエドガーの後を、ルシアンは追う。
青白い月光だけが、部屋に残されていた。




