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歪んだ三日月 ―法務官エドガー・レイブンズと王都に棲む蛇―   作者: かも ねぎ
第四章 歪んだ三日月 ―彼女の記録と、遠い日の約束―
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4-7 取り残された時間


 庭園では秋の花が揃って揺れていた。丁寧に整えられた低木や花が競い合うように美しく咲き、暮れゆく季節を彩っている。


 小路を歩き、エドガーは母をベンチに導くと、並んで腰を下ろした。


「ここも……変わらないですね」


 エレノアは軽く笑っている。


「セバスチャンがあまり変化を好まないものだから、花の種類はずっと一緒なのよ」

「僕が子どもの頃から……変わらない」

「品種改良されたものもあるから、そうとも言えないわ。少しだけ、変わったわよ」

「……そうですか」


 葉擦れの音。

 澄んだ空に、薄い筋雲がわずかに浮いている。

 エドガーは小さく息を吸った。

 

「……ヴァレンティン子爵が、ソフィアの治療をしていた医師を訴えたのです。

 医師は、それに対して名誉毀損であると訴え返し、僕はその案件を担当することとなりました。

 ――僕は、そこで、彼女の死を知りました」

「そうだったの」


 エドガーの膝の上で組んだ指先が震えている。それを悟られないように、強く握りしめ直した。


「なぜ……教えてくれなかったのですか」


 エレノアは、息子の顔は見ずに、まっすぐに前を見つめる。


「初めから、話すわね。

 あなたには知る権利があるわ……」


 鳥の鳴き声が遠くで聞こえた。

 庭園の向こうには、ソフィアとよく手を繋いで歩いた木立が見える。


「ソフィアは、初めはアレクサンダーの婚約者候補だったのよ。

 昔からヴァレンティン家とレイブンズ家は親交があったし、二人は同じ年だから、自然な流れだわ」

「はい」

「でも、ソフィアは病弱だった。だからすぐその話は流れたの。

 アレクサンダーは我がレイブンズ家の長男だもの。跡継ぎは、どうしても必要だった」


 エレノアの視線がわずかに下がる。


「婚約が調わない貴族令嬢なんて、この社会に居場所なんてないのよ。

 だけど、度々我が家に訪れていたソフィアに、あなたは懐いていたわ。

 だから、ソフィアには教育係になってもらうことにしたの」


 エドガーが横を見ると、エレノアもちらと彼を見た。


「あなたと一緒にいるソフィアは楽しそうだったわ」

「僕も……楽しかったです」


 エレノアが淡く笑う。


「初恋の君だものね」

「……ご存知でしたか」

「レイブンズ家はみんな知ってるわよ。セバスチャンだって把握してるわ」

「……父さんまで」


 エドガーが手で顔を覆うと、エレノアは声を立てて笑った。


 しばらく笑うと、彼女は庭園を静かに眺める。

 

「でも、彼女はどんどん体調が悪くなっていった」


 エドガーも、視線を庭園に投げる。


「ソフィアは、もう長くないってわかってたのね。

 本当に、頭の良い子だわ。

 ――ある時、彼女にお願いされたの。

 自分が死んでもエドガー君には言わないでって」

「……ソフィアが?」


 エレノアは小さく頷く。


「可哀想な人にはなりたくない。

 エドガー君にとっての、憧れのお姉さんでいたいって。

 ……そう言うのよ」


 母の声は、わずかに震えていた。


「ソフィアにとっては、あなたの存在は支えだった。

 彼女には、それしかなかったから」

「そんなこと」

「そんなことあるのよ」


 エドガーは眉を寄せて母を見た。


「そんな……。

 そんな言い方……母さんらしくない。

 ソフィアは……だって……」

「それが現実よ。

 みんな思うでしょうね。“可哀想なご令嬢”だって。

 ソフィアは賢かった。自分の立場も、自分が周りからどう見られるのかも、わかってたのよ。

 ――だからこそ、あなたの存在に救われてた」


 エドガーは奥歯を噛み締め、うつむく。


「私も女だもの。ソフィアの気持ちは……少しわかるわ。

 だからね……あなたには真実を告げられなかった。ソフィアの尊厳を……守ってあげたかったの」


 エレノアは、手で片目を覆った。


「ごめんなさい。私も悩んだわ……。

 あなたには伝えるべきだったんじゃないかって……でも、とうとう言えなかった」

「母さん……」


 母の榛色の瞳は、少しだけ、揺れていた。


「誰にも教えてもらえずに、こんな形で知ることになるなんて、傷ついたわよね……。

 申し訳ないわ。大人たちの勝手な都合に、幼かったあなたを巻き込んでしまって」


 エドガーは首を振った。


「……僕も、薄々は気づいていました。

 でも、気づかないふりをしていただけなんです」


 彼は膝に肘を置き、手で顔を覆った。


「……僕は、気づいていたのに、確かめようとしなかった。

 母さんも、ソフィアも、意味もなく僕に黙ってたわけじゃない。

 ……僕だけが、そこから目を逸らしていた。

 弱かったのは……僕一人です」

「みんなが少しずるくて、少し弱かったのよ。

 あなただけじゃないわ」

「十歳の僕は……きっと彼女の死を受け入れられなかった……。

 それに、母さんとソフィアの気持ちも、今ならわかる。

 僕が……

 僕だけが……逃げ続けて、取り残されてしまっただけなんだ」

「エドガー……。

 ごめんなさい。もっと早く伝えるべきだったわね……」


 エレノアは、小さく震えるその肩を、そっと抱きしめた。

 もう、子どもの頃のように素直に泣けなくなってしまったその背中を、母はさする。


 秋の冷えた風には、少しだけ、花の匂いが混じっていた。


 



 庭園から戻ったエドガーは、自室に入った。

 部屋は、彼が家を出た日から、家具も何もかもが変わらず、美しく整えられたまま。

 

 出窓の籐椅子に腰掛ける。

 窓の向こうには、少し気の早い白い月が浮かんでいた。


 視線を下げ、もう一つの椅子を、見つめる。


 彼女の姿。

 彼女の声が、今でも思い出せる。


 “エドガー君、君はお話が上手ね”


 “すごいわ。もうこんな本が読めるの?”


 “君といると、時間があっという間に過ぎていくわね”


「……ソフィア」


 ――そうか。

 ――本当にもう、

 彼女はこの世界のどこにもいないんだ。


 一粒だけ、彼の頬を涙が伝う。


 エドガーは顔をあげ、窓から見える月を眺めた。

 それは、丸くて、とても静かな月だった。


 

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