4-5 夜の語り
ピップは、並んだ机の向こう側にいるエドガーをそっと盗み見た。
エドガーの細長い指先はペンを握っているが、先程から一文字も進んでいない。
視線は静かに書類に落ち、その書類もずっと同じ項のまま。
「……エドガーさん」
小声で呼びかけるが、彼の視線は少しも動かなかった。
「エドガーさん!」
エドガーがハッとしてピップを見る。
しばらく見つめ合うと、やがて、その瞳はいつものように細められ、ふっと笑った。
「……どうしたの?」
「インクが垂れてます」
エドガーは慌ててペンを持ち上げる。
書類には、じわりと青黒いインクの染み。
「あぁ……書き直しだ」
エドガーはペン先を拭うと、書き損じた紙を丁寧に折りたたんだ。
――こんなこと、今までなかった。
ピップは眉を下げて、エドガーを見つめる。エドガーは新しい申請用紙を取り出すと、何事もなかったかのようにさらさらと文字を書き始めた。
エドガーが帰り支度をしていると、法務官室の扉が開く。
「よぉ、エドガー」
オリーブグリーンの制服に黒い外套を羽織ったルシアンが、扉脇に身を預け、小さく手をあげた。
「……ルシアン。こんな時間にどうしたの? 急ぎの報告?」
「いや?」
ルシアンは大股で歩み寄ると、机からエドガーの書類鞄をひょいと持ち上げ、さらに扉に戻って彼の帽子と杖も手に取る。
「ほら行くぞ」
「……どこに?」
「飲みに行くんだよ。お前の下宿でもいい。どうする?」
「なぜ突然」
ルシアンは口端を持ち上げて、にやりと笑った。
「ピップが、エドガーの様子が変だから話を聞いてやれってさ」
エドガーはわずかに目を見開く。
「……ピップが?」
「ほら。早くしろ」
さっさと部屋を出ていったルシアンの後を、エドガーはフロックコートを手に掴み、慌てて追った。
ブリクストン街。石造りの二階建ての建物。その角部屋がエドガーの下宿部屋だった。
エドガーとルシアンが話しながら階段を上がっていくと、ちょうど二階の廊下で、管理人であるマッケンジー夫人に会う。
「あら、エドガーさん。お帰りなさい。今日はルシアンさんも一緒なのね。すぐに食事をお持ちしますわ。肴も必要かしら」
「夫人、戻りました。ありがとうございます」
にこやかに挨拶を交わしあい、すれ違おうとする。
「エドガーさん」
「……はい」
「……お手紙がまた未開封のまま溜まってましたね」
「……そうですか?」
「ちゃんとご家族からの手紙は読むのですよ? いいですね」
「……はい」
マッケンジー夫人はにっこりと笑んで階下に降りていった。
「……今日こそは小言を言われないと思ったのに」
エドガーのつぶやきに、ルシアンは声を立てて笑う。
二人は連れ立ってエドガーの部屋に入って行った。
「お、暖炉に火が入ってる」
ルシアンは外套を腕に抱えながら、暖炉の前にしゃがみ込んだ。秋とはいえ、オルドンの夜は冷える。
エドガーは帽子をマントルピースにのせ、歩きながらフロックコートを脱ぐと椅子にそれを引っ掛けた。クラヴァットを首から抜き取って机の上に置き、ブーツは脱いで適当に床に投げる。
スリッパに履き替えると、ルシアンが床に置いた書類鞄を机に乗せて中を取り出し始めた。その際にハンカチなどが床に落ちても、彼は気にせずそのまま。
ルシアンはその一部始終を眺めていた。
「お前……またマッケンジー夫人に叱られるぞ」
エドガーは袖をまくり上げながら、呆けた顔でルシアンを見る。
「……え? なぜ?」
エドガー・レイブンズという人間は、法務官としては几帳面で完璧な仕事ぶりを見せる男だが、私生活ではそうとは言えない一面があった。
ノックの音と共に部屋に入ってきたマッケンジー夫人は、食事の乗ったワゴンを押しながら、部屋を静かに見渡す。
ルシアンはそっと、部屋の奥に逃げた。
「で、何があった?」
食事を終えた二人は、暖炉前の一人がけソファにそれぞれ身を預け、グラスを傾けていた。
暖炉の橙の火が、ゆらゆらと揺れている。
エドガーは静かにグラスをサイドテーブルに置いた。
「今回の案件の亡くなった女性」
「あぁ。ソフィア・ヴァレンティン嬢か」
ルシアンのグラスの中で、氷が小さく音を鳴らす。
エドガーは、そっと、息を吐き出した。
「僕の……初恋の女性なんだ」
「へぇ。お前のその手の話を聞くのは、初めてだな」
エドガーが少しだけ頬を緩めると、ルシアンも小さく笑う。
「僕が十歳の時。彼女は十八歳かな。聡明で、優しくて、美しくて……。僕の理想の女性だった。
幼かった僕は、すぐに彼女を好きになったよ」
ルシアンは黙ったまま頷いた。
「彼女は、僕に本を読んでくれたり、勉強を教えてくれたりした。
僕が勇気を出して手をつなごうとすると、彼女は僕の手を取ってくれた。
そうやって、一緒に庭を歩いたんだ。
何度も、何度もね」
橙の明かりは、二人の横顔を静かに照らしている。
「ある時、彼女が言ったんだ。
“エドガー君には法務官が似合うかも”って。
――それで、僕は法務官を目指したんだ」
ルシアンは小さく笑った。
「……そうだったのか」
エドガーも目元をやわらげて、小さく頷く。
「うん。そうなんだ。正義のためでもなく、法の美しさのためでもなく、憧れのお姉さんがそう言ったから目指しただけなんだよ」
「まぁ、俺が軍人になったのも、国を守るためなんて崇高な理由じゃない。辺境の街を出たかったから、軍人になっただけだ」
二人は声を合わせて、静かに笑う。
「僕はある日、彼女に言ったんだ。
――“ソフィアと結婚したい”って」
暖炉の火が、パチリと小さく爆ぜた。
「彼女は、“素敵な紳士になったらね”って」
ルシアンはグラスを傾けながら、エドガーの群青の瞳を見つめる。
「……まさかお前、それで結婚していないのか?」
エドガーは小さく笑う。
「どうだろう。
あまり意識していなかったけど、そうなのかもしれない」
エドガーはテーブルに置いていたグラスを取ると、軽く口につけた。
「でも、彼女は突然、ぱったりと姿を見せなくなった。
母に聞いたんだ。“なぜ来てくれないの?”って。母は“彼女は突然留学したのよ”と、そう言った」
グラスをテーブルに戻す。
「……僕は彼女が亡くなったことを、最近まで知らなかったんだ」
「……そうか」
エドガーは小さく笑った。
「……いや、薄々は勘づいていたよ。
彼女は僕といるときも、咳をしたり、苦しそうに胸を抑えることがあった。体がもともと弱かったんだ。
だから、留学先で良縁に恵まれて結婚したか、
――亡くなってしまったのかなって……」
彼の瞳の中に、暖炉の火がゆらりと小さく灯る。
「レイブンズ家とヴァレンティン家は家ぐるみで親しくてね。仮に結婚していたら、手紙の一通くらいは寄越しているはずだよ。
……でも、そんな様子はなかった。
だから……そうなのかなって察してはいたんだ」
そっとため息をこぼすと、エドガーはゆっくりと視線を下げた。
「僕はこれまで、見て見ぬふりをしてきただけなんだ」
自分の手のひらを見つめる。
「今回の案件で、彼女が亡くなっていたとはっきりと突きつけられて……動揺してしまったみたいだ。
情けないね」
ルシアンは静かに首を振った。
「情けなくなんか、ないさ。
美しい初恋が美しいまま、まともに決着もつけられずに大人になっちまったんだ。
動揺もするさ」
ルシアンもグラスをテーブルに置くと、机の方をちらと見る。
「なぁ、彼女の手記、今持ってるのか?
持ってたら見せてくれるか?」
エドガーは頷いてからソファを立ち上がり、マッケンジー夫人が整えた机の上から手記を手に取った。そしてまたソファに戻る。
ルシアンはそれを受け取ると、黙って読み始めた。
暖炉の火が揺れている。
エドガーはそれを静かに見つめていた。
「……お前、一度、実家に帰れ」
エドガーはゆっくりとルシアンを見る。
「……え?」
「エドガー、ろくに実家に帰ってないだろう。
“エレノアさん”ってお前の母親だろ? 手記にも、“エレノアさんに相談した”とある。お前の母親、知っていたんじゃないか」
群青の瞳と琥珀の瞳が交わった。
「話を聞いて、ちゃんと、自分の中で決着をつけてこい」
「ルシアン……」
エドガーはまた、暖炉へ視線を戻す。
「……そうだね。一度、ちゃんと実家に帰るよ」
ルシアンは手記をテーブルに置くと、かわりにグラスを取った。
「ちなみにお前の実家って……どこにあるんだ?」
「王都の西区に……」
「すぐそこじゃねぇか!」
「……実はそうなんだよ」
エドガーが苦く笑うと、ルシアンは扉を指さす。
「今帰れよ」
「心の準備が必要なんだよ」
「軟弱者め」
「ひどいな。さっきまで優しかったのに」
二人は、声を立てて笑い合った。
秋のオルドンは、ゆっくりと夜を深めていった。




