4-2 記された名前
法務官室の窓から、いつもより乾いた風が吹き込む。
向こうに見える街路樹のプラナタスは葉を金色に染めていた。
エドガーは窓辺に立ち、それを静かに見つめる。
王都オルドンの秋。
いつも霧に包まれているこの都市も、空が澄んで見える季節。
扉が開く音がして、エドガーは視線をそちらに向ける。
書類を胸に抱えたピップが跳ねるようにしてエドガーに寄ってきた。
「エドガーさん。マルコム上級法務官殿から預かりました。新しい案件です」
エドガーは手を伸ばして書類を受け取る。
「名誉毀損の訴えか」
「はい。お医者様だそうです」
ピップは席について、文具を並べ始めた。
「医師は遺族から訴えられていたんだね。それを訴え返したようだ」
「はい。遺族ははじめ、治安監察局に通報したみたいですね」
エドガーは書類の頁をめくる。
紙をめくる音が、静かに部屋に落ちた。
彼の眉が、わずかに寄る。
――訴え返されたのはアーネスト・ヴァレンティン子爵。
――まさか。
訴えを起こした申立人はドクター・ルーファス・モンティエ。
彼がかつて治療していた女性に処方した薬に、危険な麻薬が混入していたと――その遺族が医師を訴えている。
しかし医師は、それを事実無根として、名誉毀損で訴え返した。
彼がかつて治療し、亡くなった女性の名前。
エドガーは、その文字を指でなぞる。
――ソフィア・ヴァレンティン。
指先が、震える。
「……ソフィア?」
「エドガーさん?」
顔をあげたピップに、エドガーもハッとして顔を上げた。
小さく息を吐き出すと、わずかに口元を緩める。
「……何でもないよ」
あの日の庭の香りが、かすかに窓から滑り込んできたような気がした。
裁定院二階の、長く続く廊下の木床を踏む。
並んだ扉の一つ。
エドガーが目的の聴取室の扉を開けると、中にはすでに医師――ルーファス・モンティエが席についていた。
エドガーに気づき、ドクターと、聴取室の後ろで待機していた書記官が立ち上がる。
エドガーは淡く笑むと、法務官机の横に立った。
後ろにいたピップが先回りをして法務官机に書類を置くと、部屋の後ろに回り、書記官の隣に立つ。
「どうぞ、お掛けください」
声を掛け、エドガーも法務官席に着く。それを合図に、部屋にいた全員が静かに椅子に腰を下ろした。
「担当いたします、エドガー・レイブンズです。
ご存じの通り、裁定院は貴族間の契約や紛争を中立的に裁定いたします。
まずは証拠と証言を整理させていただきたい。お時間をいただきますが、よろしいですね」
医師は、はっきりと頷く。
ドクター・ルーファス・モンティエは、黒に近い髪と、浅く褐色を帯びた肌の男だった。仕立ての良い濃色の上着にベストを合わせた彼は、膝の上で手を軽く組み、静かにエドガーを見つめている。
「まず確認させてください。
過去の診療について、“治療の過失”があったとの訴えが出されていますね。
それに対し、事実と異なるとして名誉毀損を主張されている――この認識で間違いありませんね?」
エドガーが彼を見つめ返すと、ルーファスは大きく頷いた。
「はい」
「……では、当時の診療について、順を追ってお話しいただけますか」
エドガーは彼に手のひらを見せ、話すように促す。
「私は、個人開業医をしています。
ヴァレンティン子爵様とは、先代様からもお付き合いのあるお家でした。
ヴァレンティン子爵様には、お嬢様がいらした。彼女――ソフィア・ヴァレンティン嬢は幼少期から肺が弱く、長年診療のために私は子爵家に通っておりました」
ルーファスは一度呼吸を整えると、小さく首を振って話を続けた。
「ですが、お嬢様の治療薬は高額でした。それに対して子爵様はよく、苦言を呈されておいででした。
安くならないか、と、子爵邸に私が行く度に相談されたものです。
毎度のことですから、私もほとほと参っておりました。
――そんな時です。新薬の噂を聞いたのは」
書記官のペンが紙を擦る音が、部屋に絶え間なく落ちる。
「その薬は、安価だが、既存薬以上の効果があると。
私はさっそく子爵様に相談しました。
子爵様も“ぜひそれに変えてくれ”と仰るので、私はその薬を投与しました」
エドガーはわずかに視線を手元に落とした。
「お嬢様は、しばらくはお元気そうでした。噂通り良い薬だったのだと思っていた矢先、お嬢様は呼吸困難を起こして、亡くなってしまわれました」
机の上で組んだエドガーの指に力がこもり、関節が白く浮き上がる。だが、それに気づいた者は誰もいなかった。
彼は小さく息を呑み、医師の顔を見る。
「その薬に“危険薬”が混ぜられていたと、ヴァレンティン家は訴えているようですが」
ルーファスは大きく首を横に振った。
「私は存じ上げません。
その薬は今はもう世に出回っておらず、今さら解析もできません。
少なくとも……私は、善意で投与したつもりでした。
けれど、善意だったと言えば、許されるものではないことも分かっています」
深い色の瞳には、揺るぎのない誇りがあった。
エドガーはわずかに笑んで「そうですか」と答え、後ろの書記官と目を合わせる。
「被申立人との聴取を終え次第、正式な審議に入ります。
本日はこれまでといたします。お時間をいただき、ありがとうございました。
おって、こちらからご連絡申し上げます」
エドガーは立ち上がると、扉の脇まで歩く。
医師も席を立つと深く一礼をして、部屋を出て行った。
書類をまとめた書記官も席を立つ。
「午後には、被申立人の聴取です。準備を」
書記官とピップが「はい」と返事をした。
エドガーは法務官机の上の調書を手に取ると、部屋を出る。
廊下に並ぶ窓の向こう。
果てがないほどに澄んだ空。
――そうか。
――ソフィアはやっぱり……。
ピップが慌てて追いかけてくる足音がする。
それが、どこか遠くの音のように、彼には聞こえていた。




