4-1 遠い日の庭で
まだ十歳の少年だったエドガーは、隣を歩く女性の白い手にそっと手を触れた。
緊張しながら顔をあげると、彼女――ソフィアは、ふわりと笑いながらそれを見下ろし、手を優しく取って握る。
「エドガー君は、甘えん坊さんね」
エドガーは頬をふくらませた。
「僕が手を繋ぎたいのはソフィアだけだよ」
「まぁ。ふふ」
エドガーよりずっと年上のソフィアは、楽しそうに笑っていた。
レイブンズ男爵家の広い庭。
その中の木立を並んで歩く。
彼女の白い頬に金色の木漏れ日が触れ、風に揺れてはほどけるその光を、エドガーはそっと見上げていた。
ソフィアはまっすぐに前を見つめ、木立を抜けた先の庭園のベンチを指さす。
「あそこに座って、ご本を読みましょう」
「……うん」
湿った土と草は、踏むたびにしっとりとブーツの足先にまとわりついた。
二人の影は、木の影に紛れ込んで曖昧に滲んでいる。
木製のベンチに並んで座った。
足元の花壇には、クリスマスローズ。
今はまだ、花を咲かせてはいない。
ソフィアは彼に少し体を寄せ、膝の上に乗せた本をエドガーから見えやすいようにする。
「エドガー君は、難しい本が好きね」
「……そう?」
「えぇ。私が教えられることがあんまりないわ」
エドガーが彼女を見ると、ソフィアはにっこりと笑んでいた。
「私、一応教育係なのになぁ」
「僕が、難しい本が好きだと、ソフィアはいなくなっちゃう?」
ソフィアは穏やかに声を上げて笑った。
「そんなことないわ。……できるだけ、そばにいる」
「良かった」
エドガーが笑うと、ソフィアは少しだけ寂しそうに微笑む。
「エドガー君は、将来、何になりたいの?
あなたは三男だから、あなたのお兄様のように王立財務院を目指さなくてもいいのでしょう?」
「まだ……わかんない。
ジュリアン兄さんは芸術関係の仕事に就きたいと言って、父さんと大喧嘩してたよ」
「そうだったの」
少し湿った風が、エドガーとソフィアの髪を揃って揺らした。
「勉強は楽しいと思うんだ……。だから、学者かな……」
「エドガー君なら……そうね。
法務官様なんて、似合いそうだけど」
エドガーが顔をあげる。
「法務官?」
ソフィアは柔らかく笑みながら小さく頷いた。
「法の番人。理と法を司る人よ。法務官は難関だと聞くけど、エドガー君ならきっとなれるわ」
「……ソフィアは法務官になった僕って、素敵だと思う?」
「えぇ、とっても素敵だと思うわ」
「……考えてみる」
「えぇ」
エドガーは一度視線を下げると、意を決したようにまた顔をあげた。
「ソフィアには婚約者はいる?」
ソフィアはわずかに目を見開く。小さく息を吐き、首を振った。
その淡い色の瞳には、かすかに影がさす。
「いないわ……」
「じゃあ……年下は嫌い?」
「え?」
「僕は、将来ソフィアと結婚したい」
「まぁ……」
ソフィアはまっすぐに見つめてくるエドガーに、つい声を上げて笑った。
「なんで笑うの!」
エドガーは眉を寄せて抗議する。
ひとしきり笑うと、ソフィアは指先で目尻の涙を拭った。そしてエドガーの瞳をまっすぐに見つめる。
「……エドガー君が、素敵な紳士になったらね」
エドガーの頬がじわじわと赤く染まっていった。
「……うん!」
葉擦れの音。
庭園の花々が風に揺れる。
甘い花の香り。
柔らかい風が、通り過ぎていった。
それからも二人は庭園で本を読んだり、エドガーの部屋でソフィアが彼に勉強を教えたりして、過ごしていた。
だが、ある時から、ぱったりと彼女はレイブンズ家を訪れなくなる。
自室の出窓の籐椅子に腰掛け、窓を眺めていたエドガーに、母エレノアが近づいた。
彼の肩に手をそっと置くと、エドガーが母を見上げる。
「エドガー、家庭教師の先生から、あなたの元気がないって聞いたわ。どうしたの?」
「母さん……」
エドガーは視線を下げ、自分の座る椅子の向かいに置かれたもう一つの籐椅子を見つめる。
いつも、ソフィアが座っていた椅子。
「母さん……。ソフィアはどうして、来てくれなくなったんですか?」
エレノアは、息を呑む。
そして、痛みをこらえるように、目を細めた。
「……ソフィアはね、外国に留学したんですって」
エドガーは眉をひそめ、母を見上げる。
「僕に何も言わず?」
「急に決まったのよ」
エドガーはまた、視線を下げた。
「……そうですか」
だが、それきり、ソフィアが彼の前に姿を見せることは二度となかった。




