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歪んだ三日月 ―法務官エドガー・レイブンズと王都に棲む蛇―   作者: かも ねぎ
第三章 石畳の下 ―王立裁定院と治安監察局―
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3-20 支配の遊戯


 裁定院の紋章のついた馬車が、停まった。

 御者が扉を開けると、彼はゆったりと降りてくる。

 

 治安監察局の黒塗りの馬車が並ぶ前庭を、男は上質なフロックコートの裾を揺らし、場にそぐわない優雅な旋律を口ずさみながら通り過ぎる。

 入口にいた局員たちはぎょっと目を見開いた。


「あぁ、そこの君。長官を呼んでよ。

 どうやら君のところの長官はね、僕と戦争ゲームがしたいみたいなんだ。

 だから、受けて立とうと思ってね。

 ちゃんと伝えてね。

 “王立裁定院のアルジャーノン・クロフトが来てくれたよ”ってね」


 声をかけられた局員は肩を震わせる。


「は……はい。直ちに!」


 駆け出す局員たち。

 アルジャーノンは長い脚でゆったりと自由に歩き進める。


「閣下! お待ちください。応接室へご案内いたします」


 アルジャーノンはちらと声を掛けてきた局員を見るが、すぐに視線を外した。


「僕はあっちにするよ。

 どうせ応接室も辛気臭いんでしょ?」


 傷だらけの木床を踏み、扉のプレートを眺める。まるでレストランのメニューを選んでいるかのような視線。


 そうして、捜査官室の扉を当然のように開けた。

 彼はゆったりと、雑然とした部屋を見渡す。


「あっはっは! 汚い部屋」


 中にいた捜査官や実務官達は驚き、揃って顔をあげた。声を張っているわけでもないのに、アルジャーノンの声は部屋の隅々までよく響く。


 彼は、最奥にいたダニエル・コートニーとアーサー・グレイを見つけると、にっこりと笑った。

 優雅な足取りで彼らに近づいていく。


 旧友かのように気軽にダニエルの肩に腕を回すと、声を上げて笑った。


「やぁ。君たちは昨晩うちに来てたね。

 犬に追いかけられて大変だっただろう。

 お手柄だよ。

 今頃レイブンズ法務官は感動で震えているんじゃないかな」


 ダニエルとアーサーは目を剥く。

 その件は治安監察局の中ではまだ誰にも知られないようにしていたからだ。


「ねぇ、コートニー主任実務官。

 エドワード・ハリントンの捜査資料見せてよ」


 ダニエルは、机上のフォルダを差し出す。

 

 アルジャーノンはそれを受け取ると一旦脇に抱え、もう一度手のひらをぺらりと見せた。


「これは表向きの資料だよね。本物の資料を見せて」

 

 ダニエルは瞳を伏せると、頷く。

 鍵付きの引き出しから、別の書類束を取り出し、アルジャーノンの手の上にのせた。

 

「中間管理職も大変だねぇ。上が日和見主義だと元気な若者を抑えるのも一苦労でしょう」


 裁定院長官は、ダニエルの席に腰掛けると、遠巻きに彼らを見ていた局員たちを見回す。


「……知らせを出そうってしても、無理だよ。

 僕にも“頼りになるお友だち”ってやつはいるんだ。君たちが僕のかわいい裁定院の子たちに監視をつけたように、僕もここに監視をつけさせてもらったからね。

 僕だって力のある貴族を舐めちゃいない。

 無防備にここに来たわけじゃあないんだよ」

 

 ざわざわとしていた捜査官室が、一斉に静寂に包まれた。

 アルジャーノンが紙をめくる音だけが、部屋の中に沈む。





「長官! ご在室ですか!?」


 長官室の扉を強く叩かれ、治安監察局長官レジナルド・ハーカーは眉を寄せて扉を開けた。


「何事だ!」


 真っ青な顔をした局員は、今にも泡を吹きそうな程に動揺している。


「裁定院の長官が……いらっしゃいました!」

「……アルジャーノンが?」


 レジナルドの顔からも、一瞬にして血の気が失われた。


「今……彼はどこに?」

「捜査官室に……」

「ダニエルのところか」

「……はい」

「……すぐに行く」


 レジナルドは一度長官室を見回してから、部屋を出た。大股で廊下を進む。


「あの……裁定院長官はなぜこちらに」

「……こちらが裁定院に仕掛けてしまったからだ」

「あの……あまり存じ上げませんで。どういった方なのでしょうか」

「奴は普段は裁定院の長官室で指先だけ振っているような男だからな。

 その男の尾を踏んじまったんだ……」


 二人の急ぐ足音が廊下の先まで大きく響いた。


「アルジャーノン・クロフトは天才どころか“鬼才”だ。曲者揃いの裁定院の長はあの男以外あり得ない。

 だが……」

「“だが”?」

「奴が“曲者”の頂点でもある。

 アルストリア王国で最も関わり合いたくない男だよ」

「……それは」

「ちくしょう。胃薬を飲んでから来るべきだった」


 治安監察局長官はたまらず、駆け出した。


 



 レジナルドが捜査官室に入ると、日頃は雑音だらけの部屋は沈黙に支配されていた。

 呼吸を整え、アルジャーノンに近づく。


「やぁ。長官。ゲームの時間だよ」


 レジナルドは太い眉を寄せた。


「クロフト卿」

「一、貴殿は現在、国家安全保障案件として指定されている“エドワード・ハリントン死亡事案”に関し、当局より明示された調査制限および接触禁止命令に違反し、独自に調査を継続した“疑い”がある。

一、また、当該案件に関連する証拠、保全対象者との接触、および当局管理下にある情報への不正な関与が認められる“可能性”がある」


 アルジャーノンはゆっくりと顔をあげ、レジナルドの顔を見た。

 裁定院長官の黒い瞳には一切の光が差し込まず、闇が横たわっている。


「これ、曖昧すぎないかな」


 レジナルドはアルジャーノンが向き合っている机の前に立つと、彼を静かに見下ろした。


「我々はレイブンズ法務官に“安全保障案件に該当する”と前もって警告をしたはずだ。

 実際に調査は継続されていた」

 

 レジナルドはアルジャーノンの後ろにいたアーサーとダニエルを見据える。

 彼らはそっと治安監察局長官から視線を外した。


「そもそもさ、“安全保障案件”て、何なの?

 他国から攫ってきた人間をアルストリア王国で売買するだなんて、それこそ国際問題だよ。今すぐ戦争が起きてもおかしくない。

 これを隠す行為そのものが僕は“安全保障案件の倫理違反”だと考えるよ」


 アルジャーノンは机の上に肘をつき、顎を支える。


「レジナルド。君、本当にそんなことをしたいの?」


 レジナルドは反射的に奥歯を噛み締めた。


「君が守りたいのは、治安監察局?

 それとも、アルストリア王国の市民?」


 アルジャーノンはふわりと笑ってみせる。


「まぁ、僕は裁定院さえ無事ならいいんだけどね。

 君みたいな脳筋は、違うんでしょ?」


 部屋には、呼吸の音一つさえしない。


「うちのレイブンズ法務官は真面目で誠実だよ。本来“正義の味方”である君たちと共闘するのに、ふさわしい人物だと思うな。

 その彼を貶めようとするだなんて……」


 アルジャーノンは静かに視線を下げ、声を落とした。


「……君は忘れたのか?

 誰にも守られなかった人々の無念。

 それを目の当たりにした時の若い日の記憶。

 ――悔しかっただろう。

 ――虚しかっただろう」


 眉を寄せ、小さく首を振る。


 ゆっくりと顔をあげ、レジナルドの目をまっすぐに見つめた。


「でも、今、君は長官だ。

 この国の“正義”を司る治安監察局の頂点にいるんだよ。

 君なら、かつて守れなかった人々を守ってやれるんじゃないのか」


 席を立つ。

 椅子が床を擦る音が大きく響いた。


「立ち上がりたまえ」


 アルジャーノンの黒い瞳に光が差し込む。

 研ぎ澄まされた刃のような、煌めきに似た強さがその瞳に宿る。


 彼はその繊細な細い手を胸に当てた。


「裁定院には逮捕権も武力もない。

 だが、法がある。

 君が正しいことのために戦うというのなら、我々も、力を惜しまず共に戦ってやるさ」


 レジナルドの瞳が小さく揺れた。


「……アルジャーノン」


 治安監察局長官は、視線を下げ、こぶしを強く握りしめた。


 瞳を伏せる。


 呼吸を一つ落とし、

 やがて、彼はまた顔をあげた。


 その瞳の奥に、まっすぐな情熱が灯る。


「……治安監察局は、レイブンズ法務官への“倫理義務違反”への訴えを……取り下げる」


 アーサーは口を手で覆い「あぁ……」と声を漏らした。


 アルジャーノンはにっこりと笑う。

 

「あぁ、良かった!」


 レジナルドは、力強く頷いた。


「情に絆されてくれて」


 レジナルドも、周りにいた局員たちも、みな一斉に目を見開いた。


「君が反応してくれなかったら、あの捜査資料に埋もれてる不正行為を一つひとつ告発して脅しをかけるつもりだったんだけど……。

 ――まぁ、面倒だよね」


 アルジャーノンは無邪気な子どものように軽やかに声を立てて笑う。


「夕刻には、レイブンズ法務官から貴族告発の報せが入るだろう。

 武器を磨いておきたまえ」


 ウィンクを落とし、彼は踊るような足取りで扉に向かった。


「じゃあね」


 扉が閉まる。


 困惑と安堵が部屋に満ちようとした時――

 もう一度扉が開く。

 

「あぁ、そうだ。

 うちのフィリップ・レーン補助員はどこにいるの?

 一緒に連れて帰るよ」


 ここにいる誰もが、あのまじめそうな少年が震える様を想像し、同情を禁じ得なかった。


 部屋の奥にいたアーサーだけは、顔を手で覆い小さな嗚咽を漏らす。


 こうして、“鬼才”アルジャーノン・クロフトは、彼の巣、王立裁定院に戻っていった。


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