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歪んだ三日月 ―法務官エドガー・レイブンズと王都に棲む蛇―   作者: かも ねぎ
第三章 石畳の下 ―王立裁定院と治安監察局―
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3-19 影を踏む者


 薄暗がりの、高級住宅街の一角。

 広い前庭の奥、闇の中に浮かぶようにして建つ白壁の邸宅の門には、夜になってもガス灯が灯されていた。


 その裏門。

 簡素で小ぶりの鉄の門を押し開け、彼は平然と足を踏み入れた。背筋を伸ばし、あたかも古参の使用人であるかのように、アーサーは堂々と、邸宅へ侵入した。


 ここは、ラドクリフ子爵邸。


 新興貴族のこの邸宅は、流行りの建築デザインに、目新しい絵画、本邸の廊下には珍しい異国の織りの絨毯が惜しみなく敷かれていた。

 

 ――足音が鳴らないのは重畳。


 アーサーの口端がわずかに緩む。

 

 夜間、廊下の灯りは乏しく、使用人の気配も少なかった。

 かすかな話し声が、どこかの部屋からか漏れ聞こえて来る。


 アーサーは影を踏みながら、そちらへ歩を進めた。


 曲がり角の壁に背を押しつけ、身を隠す。


 向こうで扉が開く。

 ふわりと漂う葉巻の甘苦い香り。


 ――シガールームか。

 ――密談にもってこいだな。


 盆を持った使用人が下がり、廊下の向こうへと歩いていくのが見えた。

 その背を見送り、アーサーはシガールームの扉の前に静かに立つ。


 声が、扉越しに聞こえてきた。


 男達の笑い声。

 その声の中には、先日第四会議室で聞いた声も混ざっている。


 他愛もない話が続いた。

 娼館の女。

 取り寄せた珍しい異国の酒。

 どこかの貴族の醜聞。


 アーサーは周囲の気配を探りながら、息を潜めている。


「……ラドクリフさん、あの件どうなりました?」

「あぁ、裏切り者の件か?」


 アーサーは、息を呑んだ。


 ――きた。


「そうです。俺がうっかり殺しちまった……」

「圧力をかけた。

 ……本当にお前の“うっかり”のせいでこちらは苦労をさせられている」

「そいつぁ、申し訳ないです。

 証拠消そうとしたら人が来ちまって、逃げるのが精一杯だったんですよ」

「言い訳はいい。

 ――ハリントンもあれだけ手厚くしてやったのに、裏切ろうとするとは……とんだ誤算だった」


 アーサーは瞳をわずかに伏せる。


 ――やはり、ラドクリフの配下がエドワード・ハリントンを殺害していた。

 ――推察通り、予定外の殺害だったんだな。


 アーサーは視線を巡らせ、そっと扉を離れる。


 本邸の最上階。

 当主の執務室はおそらくそこにあるだろう。

 

 階段の手すりには埃一つついていない。

 

 ――音がしない。

 ――使用人の気配もほとんどないな。


 大きな邸宅。

 清潔に保たれている邸内。

 使用人の数は、決して少なくはないはずだ。


 最上階の廊下は、壁に取付けられたランプにもほとんど明かりが灯されず、闇に沈んでいる。

 

 アーサーは壁沿いにゆっくりと足を運んだ。


 ――ラドクリフ子爵には奥方もいたはずだが、邸宅にはいないのか?

 ――あまり調べる時間が取れなかったのは痛いな……。


 足音は絨毯に飲み込まれていく。

 自分の鼓動の音だけが、ここにはあるようだった。


 ――一般的な貴族邸宅と同じような構造なら、執務室はここかな。


 目星をつけ、そっと扉の取っ手に触れる。


 ――ガチャ。


 思いのほか音が大きく響き、心臓が跳ねた。


 (そりゃあ、鍵はかかっているよな)

  

 ポケットから針金を出すと、屈み込み、鍵穴に差し込む。耳を当て、小さな抵抗と音を探した。


 ――カチッ。


 立ち上がり、そっと扉を開ける。

 滑り込むように、部屋の中へ。


 締め切られた厚いカーテンをわずかに開け、光を部屋に導く。

 廊下と同様、異国の調度品が多く並べられた部屋は、アーサーが探していた執務室に間違いない。


 彼は素早く物色を始める。

 引き出し。書架。棚。金庫。

 

 (合法な書類しか並んでいないな)


 カーテンの隙間から差し込むわずかな月光。壁の時計を見上げた。


 ――そろそろ急がないと。

 ――シガールームの集まりも、お開きになってしまうかもしれない。


 アーサーは触れた痕跡を全て消し、執務室を出た。


 一つ階を降りて、渡り廊下へ。

 絨毯はここで途切れ、高く音の鳴る木床に変わる。


 使用人棟の一番手前。

 当主の部屋に駆けつけやすく、それでいて使用人部屋の中で最も格の高い部屋。


 ――執事室は、ここかな。 

 

 この部屋の鍵も難なく開けると、アーサーは躊躇なく部屋へ滑り込んだ。


 広い部屋ではないが、丁寧に片付けられた机上には来客記録帳と封蝋、速達袋。

 壁際に掛けられた鍵束。

 棚には書類箱が並べられている。


 ――この邸宅の情報は、全てここにある。


 アーサーは書類箱を一つひとつ見ていった。


 紙をめくる音。

 時計の針が、時を刻む。

 

 (まずい。何も見つからない)


 書類箱を諦め、来客記録帳をめくった。


 (せめて、大ボスの名前はないものか)

 

 溜息を零したくなり、必死で抑える。


 (ちくしょう。見つからない)


 最後にと、速達袋を手に取った。

 中に収められていた質の悪い羊皮紙。


 (この家のものにしては、質が悪いな)


 ――違和感。


 紙を持ち上げ、かすかな月光に翳す。


「……見つけた」


 “サウス・ガース埠頭は露見の可能性あり。

 関連拠点の再配置を直ちに実施せよ。

 不要な記録・対象は適宜処分すること”


 速達便に出される直前の指示書。


 ――筆跡も、間違いない。

 ――先ほど散々見たラドクリフ子爵の字。


 ――明らかに、人身売買を主導している証拠。


 アーサーはそれを懐にしまう。

 詰めていた呼吸を吐き出した。


 その時――

 廊下から足音。


 (まずい。戻ってきた)


 辺りを見回す。


 (部屋を出るのは間に合わない。隠れられるか?)


 扉のドアノブが、回る。



 

 

「おや。窓も開けっぱなしにしてしまっていたのか。私としたことが」


 カーテンが揺れている。

 部屋に入ってきた老齢の執事の男は窓を閉め、鍵束を手に取った。


「しかし、鍵は……閉めたはずだが……」


 来客記録帳をぱらぱらとめくり、執事は忙しなくまた部屋を出ていく。


 扉が閉まる。





 二階の窓から外へ脱したアーサーは、窓の近くにあった木を伝って地面に降り立った。思わず口を手で覆う。


 (今のは危なかった)


 呼吸を整え、服についた泥を軽く払った。

 背筋を伸ばし、草を踏んで歩き出す。


 だが、アーサーは、振り返った。


 荒い呼吸。

 草を踏む複数の軽い音が、一斉に近づいてくる。


 彼は、駆け出した。

 

 (番犬が放たれてるのか!)


 庭園の木の狭間を抜け、

 霧を裂く。


 黒い大きな体の犬は、三頭。


 石を拾い、振り向きざまに投げつける。


 甲高い犬の鳴き声。


 この先には、月光が落ちる庭園の石畳。

 そこに、人影。


「おい!」


 (やばい!)


「お前! 誰だ!」


 ――シガールームにいた男の声。


 アーサーは転びそうになりながら方向転換し、別方向へ駆け出す。


「待て!」


 石畳を打つブーツの音が高く鳴る。


 全力疾走。

 湿った風が頬を濡らす。


 足音が、いくつも重なり、どれが自分のものなのか、もはやわからない。


 ――唯一良かったことは、

 ――この邸宅の塀が低いこと!


 勢いのままに塀に脚をかけ、跳ぶ。


 転がるようにして敷地の外に身を投げた。


 起き上がり、また、駆け出す。


 邸宅からは、犬の鳴き声と男の怒声。

 先程の男が応援を呼んだのだろう。

 男の声は一つではなかった。


 ガス灯の並んだ石畳を駆ける。


 ――道が広すぎる!

 ――路地も見えない!

 ――身を隠せないじゃないか!


 背後から馬蹄の音。


 (馬だと!?)


 ――馬でこの道を駆けて来られたら、絶対に逃げ切れない。


 (どうすればいい!?)


 息が上がる。

 ずっと駆け続けていた脚が、震え始めた。


 大きくなる馬の足音。


 (これまでか!)


「乗れ!」


 馬上から襟首を掴まれる。

 アーサーが顔をあげると、上司であるダニエル・コートニーがそこにいた。


 もう一度強く引かれる。

 アーサーはダニエルの手を掴み、走りながら鐙に足をかけた。踏み込み、体が浮く。一気に上司の後ろに跨った。

 馬の速度が上がる。


「主任……。その格好は」


 ダニエルは深い茶色のジャケットに赤のサッシュと斜めがけの書類鞄を肩から掛けていた。

 短いつばの帽子は、彼に似合っているとは言い難い。


「速達人の変装だ。それより証拠は手に入れたのか」


 子爵邸が、遠ざかっていく。


 アーサーは、深呼吸をし、呼吸を整えた。

 

「……人身売買の証拠は手に入れました。

 ただ、殺人については話を盗み聞きしただけで」

「十分だ。一斉捜査に持ち込めればなんとかなる。

 ――このまま裁定院に向かうぞ!」


 アーサーは振り返る。

 犬の鳴き声と男達の怒声は、未だに夜の街に響いている。

 彼らはしつこくアーサーを探していた。

 そろそろ追手が放たれる頃だろうか。


「主任は……なぜ、ここに……」


 ダニエルは、一度も振り向くことはなく、前だけを見ていた。


「お前、冤罪をかけられた後も、出世コースにいること。おかしいと思ったことはないのか」

「え?」


 アーサーの上司は、口端をあげた。

 背後から覗き込むようにしていたアーサーからも、それが見えるほどに。


「うちだって、お前みたいなやつを見捨てるほど腐ってないってことだ!

 飛ばすぞ! つかまれ!」


 アーサーは目を見開いた。

 遅れて、ぞわりと身体が震える。


「……はい!」


 月光の灯る石畳に、馬蹄の音が駆け抜けていった。

 



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