3-18 沈黙の肯定
ボタンを掛ける指先が、わずかに震えている。
窓から差し込む光は鈍かった。
空は薄紫色をしたまま、ぼんやりと沈黙している。
アーサーは、明かりも灯されていない部屋で、硬めの白い高襟シャツに身をつつみ、ベストのボタンを一つひとつ掛けていった。
そして、黒いロングジャケットを手に取る。
顔を少しだけ上げた。
鏡に映る自分の顔は、他人かと思えるほどに顔色が悪い。
怒り。焦燥。恐怖。
心に満ちる感情に名付けられないまま、アーサーは唇を噛む。
あれは、二年程前のことだった――
この日もアーサー・グレイは捜査に出ていた。そこで押収された証拠品が示したのは、些細な事件のその背後に、軍務省がいるという驚愕の事実。
実務官になりたての若いアーサーは、興奮を抑えられないままに治安監察局へと馬車を走らせ、上官のもとに駆けていった。
――だが、彼を待ち受けたのは、称賛でも驚嘆でもなかった。
乾いた音が、室内に響いた。
「そんなこと容易に口に出すんじゃない!」
頬を強く打たれ、乱雑に置かれていた様々なものを巻き込みながら床に倒れたアーサーは、目を剥いて上司を見上げる。
――なぜ?
――そこに確固たる証拠があるのに。
――なぜ自分は打たれ、怒鳴られねばならないのか。
――ここは、“正義”の組織のはずだろう?
彼には、到底理解できなかった。
それから間もなくして、彼は横領罪と証拠改竄罪により訴えられ、裁定期間中の自宅謹慎を言い渡された。
王立裁定院、聴取室。
裁定院の書記官に案内され、通された部屋は、静かな、白漆喰の部屋だった。
法務官机と書記官机が前後に配されているが、中央には妙に豪華な椅子がぽつんと一脚置かれているだけ。
木床は、治安監察局の傷だらけのものとは異なり、踏むことが怖くなるほどによく磨かれていた。
椅子に浅く腰掛ける。
壁時計の音が、妙によく響く。
大きな窓には上質な厚いカーテンが掛かっていた。
同じ王立の役所だというのに、どこか粗雑な治安監察局とは、雰囲気も選ばれた家具も何もかもが異なる。
やがて、扉が開く。
後ろの書記官席にいた職員が立つ気配があり、アーサーも慌てて立ち上がった。
入ってきた男は、白い肌に青みがかった長髪の若い紳士。ダークブルーの上質そうなフロックコートとウェストコート、真っ白なシャツには同じく真っ白なクラヴァットが美しく整えられていた。
彼はその群青の瞳を静かに細め、柔らかく笑んだ。
「お待たせしてしまいましたか」
「い……いえ……」
(若いな……。自分と同じくらいかな)
法務官は、書記官補や書記官を経験した後、難関試験を突破しないと就くことができない職だ。若くても法務官になれるのは三十半ばであると、捜査官仲間からアーサーは聞いていた。
法務官はゆったりと法務官机の脇に向かうと、「どうぞお掛けください」と言い、自身も席に着く。
アーサーも静かに椅子に座った。
エドガーは机の上で指を組み、淡く笑む。
「担当いたします、エドガー・レイブンズです。
ご存じの通り、裁定院は貴族間の契約や紛争を中立的に裁定いたします。
まずは証拠と証言を整理させていただきたい。お時間をいただきますが、よろしいですね」
アーサーは膝の上でこぶしを強く握った。
「……はい」
「まず確認します。
今回提出された訴状により、貴方には機密監査資金横領および証拠改竄罪の疑いが掛かっています」
――そんなこと、するわけない。
――“正義”のために治安監察局に入ったのに、なぜこんなことになっているんだ。
「告発文がこちらです。この内容に異議はありますか?」
書記官が席を立ち、アーサーに告発文を見せる。
唇を噛んだ。あまりにも悔しく、握ったこぶしが震える。
「異議も何も……。
私は横領など……、まして改竄なんて……」
正面に座す法務官は、静かにアーサーを見つめていた。
「神に誓ってそんなことはしていません!」
エドガーは「そうですか」と小さく頷き、その瞳には鈍い光がゆらりと差し込む。
「密輸関連調査のための、いわゆる裏資金を着服したとされています。
こちらの帳簿に見覚えは?」
アーサーの隣に立つ書記官が新たな証拠品を手に持ち、広げてみせる。
書面の下方。
――“アーサー・グレイ”の署名。
「見覚えなんてありません……。でも、私の署名がある……。なぜ……」
――“正義”は、どこにある。
「貴方は密輸の捜査をされていましたね。
どこの港の捜査をされていたのでしょうか」
アーサーは顔をあげる。奥歯を強く噛み締めた。
――捜査していたのは暴力事件だ。
――密輸捜査なんか、そもそもしていない。
――何もかもがでっち上げだ!
――“正義”なんて、初めからどこにもなかったんだ!
アーサーは耐えられず、両手で顔を覆った。
「……もう、何も信じられない」
ぽつりと、小さくこぼした言葉。
その言葉に、誰も答えなかった。
書記官のペン先が紙に擦れる音が部屋に落ちる。
「グレイ実務官殿」
呼ばれ、顔をあげた。
群青の瞳の法務官は、それ以上は言葉にせず、ただ、力強く頷いただけだった。
それから数日も立たないうちに、アーサーの冤罪は晴らされた。
帳簿は偽物。
証拠品として提出されていた筆跡鑑定についても、裁定院側が再鑑定を行ったところ、署名は偽造であると判明。
密輸捜査にそもそもアーサーが関わっていなかったことも詳らかになり、彼の謹慎措置はあっけなく解かれることとなった。
事件は、密輸組織による捜査妨害だったとして、治安監察局から彼には、謝罪だけがなされたのだった。
後日、解放されたアーサーは、個人的に黒髪の法務官を訪ねた。
法務官室にいたエドガー・レイブンズは彼をにこやかに部屋に迎えいれる。
アーサーは姿勢を正し、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。元の席に戻れることになったのは、レイブンズ法務官殿のおかげです」
エドガーは穏やかに首を振る。
「私は、貴方の情熱を信じただけです」
アーサーは目を瞬かせ、ゆっくりと顔をあげた。
――“正義”は、どこにある。
若い法務官は、ただ、静かに微笑んでいた。
――あぁ、そうか……。
――“正義”とは……。
アーサーはもう一度、頭を下げた。
涙がポツリと落ち、それは木床を濡らした。
「……本当に、ありがとう……ございました……」
◇
アーサーは光沢のある黒いロングジャケットに袖を通した。
襟を引き、整える。
「エドガーさん……」
髪にポマードをたっぷりとつけ、櫛で撫でつけた。
鏡の中にいる自分は、もう、若さだけで突っ走っていた頃の自分とは違う顔をしている。
「私の情熱。信じていてください」
彼は、床を蹴り、踵を返した。




