3-13 見えない文字
「フィリップ・レーン補助員。
あなたはここで作業を進めてください」
ピップは顔をあげ、肩掛け鞄のベルトを強く握った。
治安監察局の管理下に置かれることとなった、その初日。
通された部屋は、簡素な机と椅子が一つずつ置かれたとても狭い部屋。
小さな窓。
壁には書架も棚も屑籠一つさえない。
机の上にはインク壺とペンホルダー。いくつかのペン先と布巾が一枚だけ。
机には引き出しもない。
仕事をするための部屋などではない。
閉じ込め、監視をしておくための部屋だった。
ピップの隣に立った黒い制服の男は、表情を微動だにさせずに淡々と説明を続ける。
「鐘が鳴ったら、次の鐘が鳴るまで休憩を。
飲み物が欲しい時や昼食は食堂を使うように」
「あ……あの、昼食用にパンを買ってきたのですが……」
「それは結構ですね。この部屋で摂ることは許可します。
ただし、貴方は管理下にある身です。勤務中は、敷地から出てはなりません」
ピップは小さく頷いた。
「……はい」
男は薄い革表紙のフォルダをピップに手渡す。
「この写しを作るように」
それだけを言って部屋を出ていった。
扉は明け放たれたまま。
ピップは扉に触れるが、閉まらないように固定されていた。部屋の向こうでは、忙しなく人が行き交い、常に誰かがこちらをうかがっている。
小さくため息をつくと、彼は鞄を床に置いて、椅子に座った。
フォルダを開く。書類が三枚と、白紙が三枚だけ。
ペン先をホルダーに差し込み、インク壺に浸す。
窓から差し込む光は鈍く、手元に影を作り出していた。
一定の間隔もなく職員が訪れ、同じような書類フォルダをピップの机に置いていく。
写し作業が途中だったとしても、強制的に新しいものへと交換させられた。
飲み物を貰いに食堂へ向かえば、肌に突き刺さる誰かの視線。
昼食は、あの狭い部屋でパンと紅茶を一人でとる。
夕刻に鐘が鳴ると、朝ここへ案内してきた職員がやってきて、ピップの荷物確認をした。
何もないことを確かめると、男はピップが書き写した書類を手に取り、少年を静かに見下ろす。
「今日の勤務は終了です。では、また明日」
「はい……。ありがとうございました」
ピップは前庭を抜け、敷地の外に出る。
灰と白のうねった歪な石畳を駆け抜けていくと、やがて、石畳は真っ白に変わった。
格の高い、沈黙の落ちる行政区セント・ブリッジ区。
王立裁定院のある、整えられた街。
街路樹のプラナタスの葉が風に揺れた。
ピップはやっと、息がつける気がした。
翌日も、そのまた翌日も、ピップは治安監察局に通い、書類の写し作業を淡々とこなした。
この日も、お茶をもらいに食堂へ向かう。
今日も誰かに見られている気がして落ち着かない。
食堂自体は広々としているが、机や椅子の一つ一つが簡素だった。
王立裁定院の食堂では出される食器は全て陶器製だが、ここではブリキのもの。
カップを受け取り、傷だらけの木床を踏むと、向こうから来た姿勢の良い男性とふと目が合う。
きっちりと撫でつけられた黒髪。
乱れのない制服。
どこか粗雑な雰囲気の人が多い治安監察局の中では、少し浮いて見える。
――公安の人かな……。
彼は辺りを伺うように視線を巡らせてから、ピップににこりと笑んだ。少し駆け足で近づいてくると、わずかに腰を落としてピップに目線を合わせる。
「君……名前を聞いてもいいですか?」
澄んだ灰色の瞳。
「ピップ……。フィリップ・レーンです」
ピップが小さな声でそう答えると、男は納得したように頷いた。
「ピップ。君はエドガーさんのところの子だよね」
ピップは目を見開く。
「……もしかして、あなたがアーサーさんですか?」
アーサーは大きく頷くと、声を潜めた。
「アーサー・グレイといいます。
良かった……。君が無事で。
前回持ち出せなかった遺品を手に入れた。
君に託したい」
ピップは視線を下げ、カップを持つ手にギュッと力を込めた。
そうやって少し考え、顔を上げる。
「……写しを作ります。
退勤時、俺は荷物確認をされるんです。まともな書類は持ち出せません」
「……写し? どうやるつもりだ?」
ピップは口角を上げ、にやりと笑ってみせた。
その後、すれ違いざまに小さく折りたたまれた書類がアーサーからピップに渡される。
それを少年は部屋に持ち帰った。
屑籠さえない部屋。
食べた後のパンの包み紙は、机の端に畳んだまま置いていた。それは外側が油紙、内側が少し厚い紙となっている。
ピップは、包み紙の内側にインクをつけないペン先で文字を強くなぞった。跡が残るように、しっかりと。
人の目から逃れるように、与えられた書類の写しの仕事も進めながら、少しずつ書いていった。
人の気配がすると、また畳んで机の端に置き、カップをいつもの癖のようにその上に置く。
書き終わったパンの包み紙はくしゃくしゃに丸めて鞄へ投げ入れる。
部屋を出て、お茶のおかわりをもらいに行くふりをしながら、アーサーに小さくたたんだ書類を返した。
鐘の音。
勤務時間の終わりを告げるその音と共に、監視役の男が部屋に入ってくる。
男が、ピップの鞄の中身を確かめ始めた。
入っているのは、鉛筆、ノート、小銭入れ、聖句の本、ハンカチ。それから――パンの包み紙。
一つひとつを取り出し、本も、ノートも小銭入れも、中を確かめられる。
その手が、パンの包み紙を一瞬だけ指でつまんだ。
どう見ても、ただのゴミだ。
ピップが昼食にパンを食べていることも、この男は把握しているはず。
鼓動が耳のそばで鳴る。
体の前で組んでいた指先に力がこもった。
男は包み紙を開きもせずに戻すと、鞄を閉じる。
黒衣の彼は、顔を上げた。
「今日の勤務は終了です。では、また明日」
ピップは、詰めていた息をゆっくり吐き出す。
「はい……。ありがとうございました」
頭を下げ、鞄を受け取ると、駆け出したい衝動を抑えながらゆっくり歩いた。
建物を出る。
並んだ馬車。
馬蹄の音。
治安監察局の職員も、ここを訪れる市民も、入り乱れる。
人が多い分、ピップを見つめる視線がここでは少しだけ薄まる。
門をくぐり、石畳を踏むと、ピップは一気に駆け出した。
一歩踏みしめるたび、背に回した鞄が音を鳴らした。




