3-12 霧の埠頭
治安監察局。
行政区であるセント・ブリッジ区の端。学院街のハートウェル区に面した場所にそれはあった。
灰色の石造りの四角い建物。
縦長の窓がずらりと並んでいる。
土だけの広い前庭には黒塗りの馬車が幾台も乱雑に停まっていた。
馬車はひっきりなしに出入りし、書類を抱えた市民や、笑い声をあげながら歩く黒い制服の同僚たちが行き交う。
勤務を終えたアーサー・グレイは、顔に疲れを滲ませながらも姿勢正しくその前庭を歩いていた。
黒鉄の門に立つ衛兵と軽く挨拶を交わし、灰と白の混ざる石畳に出る。
いくつもの音がここには漂い、喧騒に飲まれていた。
ガス灯はすでに灯っているが、空はまだ日が落ちきっておらず、妙に白い空をしている。
治安監察局の敷地を囲う石塀が途切れる、道の間。
彼がふと、通りの向こうに視線を向けた時――
突然、背後から口を塞がれた。
羽交い締めにされ、路地裏に身を引きずり込まれる。突き放すように腕を離され、体勢を崩したアーサーは石の地面に投げ出された。
湿った石の感触。
喧騒の街の狭間。
誰の目にも死角となる場所。
街灯さえ差し込みはしない。
「何をする!!」
投げ出された体勢のまま、アーサーは顔をあげた。
そこにいたのは、壁に手をつき、浅い呼吸を繰り返す男。
霧の雫が金の短髪に絡みついている。
その琥珀の瞳は、射るようにアーサーを見下ろしていた。
「……ルシアンさんじゃないですか!」
アーサーは跳ねるようにして身を起こす。
ルシアンは壁に身を預け、浅い呼吸を整えた。
「……おい、アーサー。ツラかせ」
「やっと飲みの誘いを受けてくれるつもりになったんです!?」
「んなわけあるか。調査を手伝えって、言ってんだ」
「……え?」
アーサーは壁にもたれるルシアンを見上げる。
色の悪い顔。額には汗が滲んでいる。
手には杖。
体重をかけているのか、指の節は白く浮き上がっている。
特別調査官のオリーブグリーンの制服ではなく、黒衣を纏い、その脚はかすかに震えていた。
アーサーは黙って立ち上がると、埃を払い、ルシアンの脇の下に腕を通す。
端正な顔をにやりと歪めて笑った。
「極限状態のときに、私を思い出してくれるなんて、光栄です。
……エドガーさんのためですよね。腕が鳴る」
ルシアンはその灰の瞳を見ると、呆れたように小さく息を吐く。
「こんな時ばかりはお前がエドガー馬鹿で良かったと思うよ」
「どこに行くんです? 辻馬車を拾いますか?」
「……そうだな」
「では、馬車の中でエドガーさんについて語り合いましょう」
「……勘弁してくれよ」
二人は薄暮に息を潜め、王都オルドンを出た。
サウス・ガース埠頭は王都を流れるグレイブ川の下流にあった。
霧は濃く、油と錆の匂いがあたりに充満している。人気は少なく、働く者たちのほとんどが無言。水は黒ずみ、闇に沈んでいた。
ルシアンとアーサーは人が引くたびに死角を読み取り、倉庫の影に滑り込むようにして渡る。
着いた船便の時間、国籍、荷の木箱に記された箱の刻印や輸送伝票などを淡々とメモしていった。
「D5-25346? 五桁なんか聞いたことないな」
「登録番号ですか? どうせ適当な番号でしょう。ルシアンさんは、身を潜めて指示を出してくれればいいですよ」
「……そうだな。今の俺は足手まといになりかねない」
「ルシアンさんが指示を出してくれたら、私は頭を空にして働くだけですから、私も楽になる」
ルシアンは苦く笑うと、メモを取るのはアーサーに任せ、影に身を潜めた。
埠頭に着くのは、ほとんどが大きな船ではない。
小型貨物船や改造された蒸気船。登録も曖昧で、国籍が不明確なものばかり。
――密輸にはもってこいだな。
また、一隻が埠頭に着く。
吐き出される灰の煙が、夜空に滲んだ。
男達が駆け寄り、荷の運び出しが始まる。
「おい、アーサー」
「……穏やかではないですね」
二人の視線の先。
船から降りてきたのは、縄で繋がれた――人間。
「どう見ても乗船客ではないですよね」
「“荷”だろうな」
「これは……裏切ろうなどとしたら、そりゃあ、殺されますよね」
「“国家安全保障案件”とは……。よく言ったもんだ」
「我が国では重罪ですよ。こんな組織を作れる人間は只者ではありませんね」
「お前だって誰が後ろにいるかわかってるんだろ」
「あぁ……やっぱりそうだったんですね」
二人の視線が交わる。
「……お聞き及びでないですか? 私と……かの軍務省との因縁を」
「お前のことなんぞ知らん」
「残念です」
二人は軽口を交わし合いながらも、メモを幾枚も重ねていった。
「あの船が……どう見ても俺たちが探してる船だろうな」
「えぇ、きっとそうですね」
ルシアンが、空を見上げる。
東の空がわずかに白みを帯びていた。
「……オルドンに戻ろう。夜が明ける」
アーサーはメモをまとめると、ルシアンのジャケットのポケットに突っ込んだ。
「私は一睡もできずに仕事に戻るわけですね」
「エドガーのためだ。耐えろ」
「……今度こそ飲みに行きましょうね」
「嫌だよ」
自力で立ち上がろうとしたルシアンの腕を無理やり取って立たせ、アーサーは彼の脇の下に腕を通して肩を貸した。
「ルシアンさんはいい体してますね」
「重たいだろう……悪いな」
アーサーは、かすかに口角を上げた。
鼻にこびりつく濁った潮の匂い。
ちらつくガス灯は、男たちの足元に淡く影を作り出していた。
その後、ルシアンは一度官舎の部屋に戻り、急いでメモをまとめ直した。
管理人には出かけたことがばれて大いに小言を言われたものの、昼は泥のように眠り、夜半にまた部屋を抜け出してエドガーの下宿部屋に向かった。
◇
ルシアンが目を開けると、見慣れない天井があった。
――あぁ、そうか。
エドガーにメモを渡し、安堵のまま眠ってしまったようだった。
部屋には鈍い朝陽が、水のように床を漂っている。
小さくうめき声を漏らしながら体を起こした。
手に触れる、上質な寝具の感触。
――ベッドを取っちまったようだな。
ベッドから脚を下ろし、立ち上がる。足を引きずるようにして窓辺に寄った。
エドガーの気配はない。
彼はもう出勤したようだった。
厚いカーテンを少しだけめくって外を眺める。
いつもの、霧に包まれた王都オルドンの空。
「エドガー……頑張れよ」
カーテンを閉じ、ルシアンは重い脚を叱咤しながら、官舎に戻った。
管理人には、また長い説教をされるに違いない。




