3-10 相棒
息が詰まるほどに湿気を含んだ温い風が、窓から吹き込んできた。
エドガーは窓を閉めると、窓枠に肩を預けるようにして立つ。
頬に張り付いた髪を軽く払い、持っていた書類のページをめくった。
ノックの音。
顔を上げる。
「どうぞ」
エドガーが声をかけると、部屋に入ってきたのは調査官ウォルター・ケイン。
彼は一度深く頭を下げてから、眼鏡の位置を直し、口角だけをわずかにあげて笑顔を作った。
「……レイブンズ法務官殿。
調査書をまとめましたので、お持ちしました」
エドガーは窓際を離れ、机上にまとめていた書類を手に取る。
「ケイン調査官。そろそろいらっしゃるかと思って、お待ちしてました。
――こちらの調査書も、申し訳ありませんが調べ直していただけますか?」
エドガーが、机を回ってウォルターの前に立つと、彼らは持っていた調査書を交換した。
「かしこまりました。それではまた、調査に戻りますので失礼いたします」
「えぇ。よろしくお願いします」
ウォルターは丁寧に一礼し、部屋を出ていく。
黒髪がエドガーの背に揺れた。自席についた彼は、ウォルターが持ってきた調査書を広げる。
小さく落ちる、紙をめくる音。
彼の口の端が、ほんの少しだけ緩んだ。
「本当によくまとめられてる」
――だが……。
エドガーは、小さく息を吐く。
――どうしても現地の情報が足りない。
彼は机に、ペンやインク壺などを並べると、淡々と仕事を再開した。
夜。
エドガーは一人がけソファに身を預けながら、グラスを傾けていた。
膝の上には本。
サイドテーブルの上に置かれたオイルランプの灯りが、ゆらゆらと壁に影を作り出している。
彼は壁時計に目をやった。
小さく息を吐くと、本とグラスをサイドテーブルに置き、立ち上がる。
ベッドに向かおうとオイルランプを持ち上げ、
――ふと、動きを止めた。
ノックの音。
彼はもう一度時計を見上げる。
眉をわずかに寄せ、扉へと向かった。
そっと、小さく扉を開ける。
向こうにいたのは、
夏の夜の、湿った冷たい空気を纏った男。
彼を見た途端に、群青の瞳が揺れた。
エドガーは、扉を大きく開け直し、訪問者を迎え入れた。
「ルシアン!」
「よぉ、相棒」
白い歯を見せて、ルシアンは笑う。
いつものオリーブグリーンの制服ではない。黒い外套の下には、闇に溶けるような黒衣。腰には使い慣れたサーベル。
手に持っていたのは、杖だった。
紳士のお洒落のためでも、護身のためでもない。
不自由な身体を支えるための、それ。
「なぜ……」
「とりあえず手ぇ貸してくれ。疲れた」
エドガーは彼の脇の下に腕を通し、肩を貸す。ルシアンを支えながら、ゆっくりと、ソファへと導いた。杖を預かり、外套を脱がせる。
ルシアンは落ちるようにソファに身を下ろした。
「サーベルが痛い。取ってくれ」
エドガーは彼の言うままに腰からサーベルをホルダーごと取ると、少し悩んで机の上に丁寧に置いた。
「……ブランデーでいい? それともお茶にする?」
「あぁ。ブランデーがいい。頼む」
ルシアンは手で額の汗を拭いながらも、にこりと笑む。エドガーはわずかに顔色を失いながら、ミニキッチンへ向かい、震える手でグラスにブランデーを注いだ。
ルシアンのもとに戻ると、彼の脇に腰を落として膝をつき、その手にグラスを持たせてやる。
「ルシアン……」
「エドガー。顔色が悪いな。そんなに俺に会いたかったか?」
「そんな呑気なこと言ってる場合じゃないだろう。あれから、まだ……十日程しか経っていないんだ。
君は……
君は両太腿を深く刺されたんだ。
まともに歩ける状態ではないはずだろう?
なぜここへ来た」
ルシアンは琥珀の瞳で、エドガーをじっと見つめ、静かに笑った。
「お前に渡したいものがあった」
エドガーの眉が寄る。
ルシアンは胸ポケットから、くしゃくしゃになった紙を取り出し、エドガーの手に乗せた。
「調べてきたぞ。エドガー」
「……何を」
「サウス・ガース埠頭」
「……え?」
エドガーは紙を伸ばして、視線を走らせる。みるみるうちに、彼の顔が歪んでいった。
「ルシアン!」
「……なんだ? 感謝の言葉か?」
エドガーはルシアンが座っているソファの肘掛けを強く掴む。
「君には、一ヶ月の休暇が認められていたはずだ」
「あぁ、そうだな」
「……君、本当にその足でサウス・ガース埠頭まで行ったというの?」
「あぁ、行ったさ」
「両太腿を深く刺されたんだよ?」
「刺されたな」
「あんなに血を流したというのに?」
「あっはっは。さすがの俺でも一週間は動けなかったさ」
軽やかに笑うルシアンに、エドガーは言葉を失う。
「……なぁ、エドガー」
ルシアンは「どっこいしょ」と言いながら少しだけ身を起こし、エドガーの肩に手を置いた。
「……調査、進んでなかったんだろう?」
エドガーは口を引き結び、ルシアンから視線をそらす。
「お前のことだから、サウス・ガース埠頭にどこからの船が着くのかは、きっともう推測は立てているんだろう?
だが、何が運ばれているのかだけは、きっと、お前では分かり得ない」
ルシアンの琥珀の瞳に、ランプの明かりが映り込んだ。
「あそこに着くのは正規の商人船じゃないから、まともな記録が残らない。
だからこそ、足を運んで、潜入し、調査するのが調査官の仕事だ」
エドガーはゆっくりと視線をルシアンに向ける。
「つまり、俺の仕事だ」
「僕には今、ちゃんと別の調査官が割り当てられてる」
「エドガー。お前の相棒は、俺だけだ」
エドガーの肩をつかむルシアンの手に、力がこもった。
「……忘れるな」
群青と琥珀の瞳が交わる。
「俺を信じろ。俺を頼れ」
群青の瞳が、じわりと滲んだ。
「……君は馬鹿だ」
エドガーは顔を伏せて手のひらで乱暴に拭う。
しばらくしてから、紙に目を落とし――
そして、小さく笑う。
「……字が汚いよ」
「それは知らん。頑張って読め」
ルシアンがからっと笑った。
エドガーはそれを見て、瞳をそっと伏せた。
「……ありがとう」
ルシアンは、黙って首を振る。
窓の外では、朧月が浮かんでいる。
短い夏の夜が、静かに街を丸ごとつつみ込んでいた。




