3-8 旧き地図
手元を鈍い光が照らしている。
明け放しの窓から入ってくる風は湿気を含み、少しだけ雨の匂いを纏っていた。
紙をめくる音。
エドガーは、アーサーが持ち出してきた書類の精査をしていた。
書類は三種類。
軍の補給コード一覧。
おそらく指示書と思われる暗号文。
数字が羅列された文書。
「この数字は……何の数字なんでしょうか?」
ピップが数字の文書を写し取りながら、首をひねる。
「暗号文だったのだとしても、今はまだ解析は難しいだろうね。情報が足りない」
エドガーの指先が、資料の文字をなぞった。
机に重ねられたいくつもの書類束。
商会の帳簿、登記局の記録、軍需品の納入記録。
エドワード・ハリントンが勤めていた商会は生活用品を扱っていたが、軍への納入記録は見当たらない。
婚約解消の原因となった国外の“親族”についても、軍需物資を扱うような記録は見られなかった。
――ではなぜ、一介の商会事務員が“補給コード一覧”を持っていた?
――エドワード・ハリントンの裏の顔はどこにある?
エドガーは小さく首を振って、開いていたすべての資料を閉じると、エドワードが持っていた補給コード一覧を手に取る。
「ピップ、今ここにある補給コード一覧はすぐに出る?」
「あ、はい。出せます」
ピップは席を立つと、書架から革表紙のフォルダを抜き出し、該当のページを開いてエドガーの手元に置いた。
エドガーは指を添えながら、エドワードが持っていたコード一覧と照らし合わせる。
やがて、フォルダを閉じた。
「補給コードは定期的に割り振り直されるんだ。
以前の裁定のために請求したものを、僕はいくつか持ってるけど、彼が持っていたものは、それのどれにも該当しない。
最新版か、もっと古いものかもしれない。
だが、いつのコードであるかを示す番号が、この“補給コード”からは、あえて削られているようだ」
エドガーは次に、古語辞典を手に取った。ふと視線を感じて彼が顔を上げると、ピップと目が合う。
「軍の暗号文には、古語がよく用いられるんだ。僕らのマルコム卿も、古語を混ぜた暗号文を作るのが得意な人だよ」
「……では、俺も古語を勉強しないと」
エドガーは淡く笑った。
手元に視線を戻し、羊皮紙にメモを取りながら、解析をすすめていく。
辞書を一度置き、アルストリア王国全土の地図も広げた。
――妙だ。
「ピップ、幾枚か申請書を作る。
すぐ、軍監査局に走ってくれないか」
エドガーは机に申請用紙を置くと、迷わずに記入し始める。封筒に入れ、封蝋を押した。
乾いたことを確認し、エドガーがそれを差し出すとピップが両手で受け取る。
鞄に丁寧に入れ、肩にかけた。
「では、行ってきます!」
「……頼んだよ」
エドガーが小さく頷くと、ピップはニカッと笑ってから、跳ねるようにして法務官室を出ていく。
エドガーは、その背を静かに見送った。
ピップが王立裁定院を出て白い石畳に出ると、街路樹のプラナタスが大きな葉を広げ、少し湿った風に揺れていた。ピップが歩くたびに、背に回した肩掛け鞄が小さく音を鳴らす。
広い通りを黒塗りの馬車が通り過ぎていった。
すれ違う紳士たちは、どこかに勤める官僚だろうか。メモを片手に、低い声でひと言二言だけ会話を交わしている。巡回している騎士たちが、足並みを揃えてずっと向こうへ歩いていくのが見えた。
頬に触れる温い風は、やっぱり雨の匂いがする。
やがて、黒灰色の石造りの建物の前で、ピップは足を止めた。
――軍務省監査局。
軍務省本部と同様の暗い色の石で組まれた建物は、華やかな王立裁定院とは異なり、その前に立つものを威圧するかのように静かに佇んでいる。
規則的に並んだ縦長の窓。
三角破風の下では、軍旗がわずかに揺れていた。
石の門柱には国章が刻まれているが、長い時のなかで少し欠けたそれは、威厳と歴史を物語っている。
正面の大きな扉の前には、衛兵が無言で立っていた。
ピップは頭を下げてその横を抜ける。
建物の入り口でも別の職員が立っていた。身分証を提示し、武器の所持などを厳しく確認される。
それを終え、ピップはやっと中へと入っていった。
靴音の響く長い廊下を抜け、資料室へと向かう。
その資料室入口でも、徽章や法務官からの申請書を提示した。ようやく許可が出され、資料室へと足を進める。
広い部屋の奥まで続く鉄製の棚。
ピップは何度もエドガーの使いでここへ来ているが、いまだに最奥まで足を踏み入れたことはない。
棚の中の書類は全て番号管理されている。
ピップは目的の棚を探して、棚に記された数字に指を沿わせながらゆっくりと棚沿いに移動した。
空気が乾いている気がする。
小さく咳き込み、唇を少しだけ舐めた。
ふと、足を止めた。
視線を感じて、横を見る。
長い棚の向こう。
影。
人が通り過ぎたようだ。
……いや、違う。
“こちらを見ていた”気がした。
――ここは、決して開かれた場所ではない。
軍監査局は、軍を監視するための施設。
軍務省、財務省、王立裁定院などの使いとたまに行き合うことはあるが、それでも稀だった。
ピップの、小さな息が漏れる。
彼はエドガーに指定された書類をいくつか腕に抱えると、また資料室の入り口に戻り、持ち出しの手続きを取った。
許可証を貰い、長い廊下を歩く。
少し歩いて、また、足を止めて振り返る。
人は多くない。
だが、いないわけではない。
ピップのような使いの者や、監査官だってここでは働いているのだ。
だが、
――なんか……誰かにずっと見られてる気がする。
ピップは少し足を早め、監査局の出入り口に向かう。そこでも再度持ち出し書類や許可証を確認され、それから、外へと出た。
プラナタスの並ぶ石畳まで戻ると、ピップは一度振り返る。
黒灰の石壁。
窓が少なく、建物中央の三角破風を除けばほとんど真四角の無機質な建物だ。
雨が降ってきた。
壁に、ポツポツと雨粒が染み付く。
その色は、より暗い色へと沈んでいった。
ピップは王立裁定院へ向かって、駆け出した。
雨粒が法務官室の窓に当たっている。
砕けては、また集まり、大きな雫となって窓枠へ落ちていく。
エドガーは、ピップが軍監査局から持ち出してきた旧補給コードを端に並べ、机の中央に大きく広げた旧地図の文字を指でなぞった。
――やはりそうだ。
戦前の、かなり古いコードを使用している。
――情報が更新されていないわけではなく、あえて古い情報をもとに暗号を組んでいるようだ。
暗号文の指示書が示していたのは、サウス・ガース埠頭。
その港へ行き、“貴重品を回収するように”という内容だった。
サウス・ガース埠頭は、正規の港ではあるが、ほとんど過去に切り捨てられたような場所だ。
ピップがじっと、地図を見つめている。
手元のガスランプの明かりが、じわりと揺れた。
「……密輸拠点ではないかな」
エドガーがピップの視線に応えてそう教えてやると、ピップは少しだけ顔を上げる。
こうしてエドガーが彼の目の前で暗号解読をする機会はあまり無い。エドガーの一挙手一投足を見逃すまいとするピップの真剣さに、エドガーは少しだけ頬を緩めた。
「……どこからの、何の密輸でしょうか?」
エドガーは首を振る。
切り捨てられた港。
そこに着く船は、正規の商人達が避けるような場所から、何かを運んでいるはずだ。
彼は、数字の羅列の文書を手に取った。
――単なる取引記録ではない。
――これはきっと、“対応表”だ。
何かを、別の何かに置き換えるための。
数字しか書かないことで、徹底して第三者の目から逃れようとしている。
おそらく、これほどの情報を手元においておける人物だったのだから、エドワード・ハリントンは密輸組織の末端ではなかった。
古語、旧地図、旧コードを用いた暗号文。
徹底して隠された情報。
殺されたエドワード・ハリントン。
そして、治安監察局による“自殺”処理。
――この暗号は、遊びではない。
――権限の外にある情報を、意図的に混ぜている。
……軍だけでは足りない。
……監察局だけでも不可能だ。
そんなことができる人間は、そう何人もいるわけがない。
――ここにも、彼の影。
エドガーは、地図の文字を見据えた。
――エイドリアン・レンドール候。
軍務省副卿。
“姿を見せない真の黒幕”。
雨が、静かに窓ガラスを打ち続けていた。




