3-7 夜の来訪者
並んだガス灯の灯りが、湿った石畳をぼんやりと照らしている。
仕事を終えたエドガーは、一人、下宿までの道を歩いていた。
霧が足元を低く這っている。
ブーツが石畳を打つ音。
湿気を帯びた夏の風の匂い。
――未だに、エドワード・ハリントンの正体は掴めていない。
治安監察局から持ち込まれた彼の遺品は、彼が商会事務員として働いていたことを指すだけ。それ以上のものは見つけられなかった。
生い立ちも、いたって普通。
――治安監察局が隠した何か。
――それは一体なんだろうか。
自分の足音。
遠くから、酒を嗜む紳士たちの笑い声が聞こえてくる。
犬の鳴き声。
それに混じった、別の音。
エドガーは足を止める。
彼の後をついてくる、何者かがいる。
杖の柄を強く握った。
エドガーが足を早めると、何者かの足音も合わせたように早くなる。
彼は足を止め、振り返った。
霧の沈む、夜の街並み。
ガス灯の灯りが、ちらちらと揺らいでいる。
喉がかすかに熱くなり、張り付く。
呼吸を吐き出し、再び前を向こうとした時、石畳を打つ小さな音。
ガス灯の影から、黒い外套を羽織った男。
男は、ゆっくりと道の中央に出ると、そのシルクハットを一瞬だけ持ち上げた。
そして、また深くかぶり直す。
男はまた、影の中に潜り込んだ。
エドガーは男が消えた先をしばらく見据える。
やがて、前を向き、歩き出した。
匙で茶葉をポットに放り、湯を注ぐ。
エドガーは、フロックコートを脱いだウェストコート姿のまま、下宿部屋のミニキッチンの台に手をついた。
ノックの音。
エドガーは迷わずに部屋を出て、廊下へつながる扉を開けた。
向こうには、先ほどのシルクハットの男。
男は、滑るように部屋の中に入り込む。そして、ハットを取った。
「やぁ、待ってたよ。アーサー」
エドガーが微笑むと、アーサー・グレイは眉を下げて笑った。
「こんばんは。エドガーさん。尾行などと、不躾なことをしてしまい……」
「ちょうど紅茶が入った。ソファに座って」
エドガーはアーサーを置いてキッチンに戻ると、温めておいたカップに紅茶を注いだ。カップを二つ持ってソファ近くのサイドテーブルに寄り、それを並べる。
紅茶の芳香。
テーブル上のオイルランプの火が、かすかに揺れる。
テーブルを挟んで二つ並んだ一人がけソファのうちの一つに、エドガーは腰を下ろした。
アーサーに向かって、もう片方のソファを指し示す。
アーサーは一度、ゆっくりと頭を下げた。
扉近くに帽子とコートを脱いで置き、書類ケースだけを抱える。袖をまくり上げながら、ソファに浅く座った。
エドガーは膝に肘を置き、前かがみになるようにしてアーサーの顔を見る。
「……何か、僕に伝えたいこと?」
オイルランプの火が、大きくゆらりと揺れた。
「はい。
私が裁定院に行くと足がつくかと思いまして……。
でも、エドガーさんの下宿先を私は知りませんでしたので……尾行を」
「そう」
アーサーは、眉を情けなく下げる。
「怒りませんか」
「怒らないよ。そうまでして伝えたかったことって何?」
アーサーはその灰色の瞳をわずかに伏せた。
「エドワード・ハリントンの件です」
エドガーは小さく頷いて見せる。
窓の向こうから、かすかに、馬車の通り過ぎる音がした。
「あれは……自殺ではありません」
呼吸の音が、落ちる。
「だけど、圧力がかかっています」
カップから立ち上る白い湯気。
エドガーはカップの一つを手に取ると、両手で包み込むようにして持った。
「私は初め、あの事件の担当官でした。でも早々に外されたんです」
「……君みたいな実直な男に捜査されたくないってことかな」
「そのようです」
アーサーは抱えていた書類ケースから、書類束を取り出すと、エドガーの方に向け、差し出す。
「エドガーさん……これを」
エドガーはカップを置き、それを受け取った。
素早く目を通すと、彼の眉がわずかに寄る。
「これ……」
「持ち出してきました」
エドガーは顔をあげる。
「見つかったら、君の立場が危うくなる」
アーサーから渡されたものは、エドワード・ハリントンの遺品。
明らかに軍事機密と思われる情報が羅列された書類束だった。
アーサーの灰の瞳は、そらすことなく、まっすぐにエドガーを見返した。
「……不正を正すために治安監察局に入ったんです。
不正に加担させられるくらいなら、あんなところ、辞めてやります」
アーサーの握られたこぶしの節が、白く浮き上がる。
「でも……私程度の力で組織を変えることはできない」
ゆっくりと彼の視線が下がる。
アーサーは奥歯を強く噛み締めた。
「力のある人に……。あなたにこの書類を託します」
「……アーサー」
アーサーは強く瞳を伏せる。
やがて、また視線を上げた。
その瞳に、ランプの明かりがゆらりと差し込む。
「……ルシアンさんが、大怪我をされたと」
エドガーは、瞳を伏せて小さく頷いた。
「そうなんだ」
「私たちがまともに捜査していれば、防げたのかもしれない」
「そうとも言えないよ」
アーサーは背筋を伸ばし、エドガーに向き合う。
「エドガーさん。私を使ってください」
彼は、胸に手を当てた。
「あなたの足となります。体力だけはあります。使ってください。
……ただ、表立っては動けません」
エドガーがアーサーの瞳を見つめる。
「でも……私は働き者です。きっとお役に立てます」
エドガーの瞳がかすかに揺れた。
「アーサー……」
アーサーは強く頷く。
「ありがとう。正直に言うと、ルシアンがいなくて困ってたんだ」
「なんなりとお申し付けください!」
アーサーが笑うと、エドガーもつられるようにして小さく笑った。




