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歪んだ三日月 ―法務官エドガー・レイブンズと王都に棲む蛇―   作者: かも ねぎ
第三章 石畳の下 ―王立裁定院と治安監察局―
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3-5 宙に浮いた手


「兄貴!」


 子どもたちが、壁に背を預けたままのルシアンに駆け寄った。

 貧民街の子どもたちからなる、小さな情報屋集団ミストラッツ。

 

 リーダーのトビーがいち早くルシアンの脇に膝をつく。


「足をやられたのか!」

「トビー……助かった。 

 悪いが、エドガーのところまで……走ってくれ」


 少年の黒髪が揺れ、目が見開かれる。後から追いついてきた赤髪のエルザと、彼は顔を見合わせた。


「ルシアン……警備隊じゃなくていいの?」

「信用できねぇんだ」


 年長組の二人は息を呑み、頷き合う。


「俺とエルザは先生《サー》のところに走る。

 残りは兄貴に手を貸して、俺たちが戻るまで匿ってやってくれ!」

 

 子どもたちから返事の声が上がる。

 二人は闇に溶けるようにして駆け出した。


 その背をルシアンは見送る。


「ルシアン、大丈夫?」

 

 子どもたちが心配そうにルシアンの周りに集まってきた。


「……お前らが見つけてくれて、命拾いした。ありがとうな」


 ミストラッツの子どもたちは、にっこりと笑った。





 馬車の音。


 建物の影で息を潜めていたルシアンとミストラッツの子どもたちは、顔をあげる。


 子どもの一人が月光の下に出て、様子を伺う。

 そして、すぐに戻ってきた。


「トビー達だ!」


 子どもたちから、安堵の声が上がる。


 馬車がやや離れたところに止まった。

 

 扉が開く。

 トビー、エルザ、そしてエドガーが順に降り、駆けてくる。


 子どもたちに導かれてやってきたエドガーは、いつもの紳士然とした服装ではなかった。

 ゆったりとしたリネンのシャツにゆとりのあるパンツを合わせ、靴もロングブーツではなく、軽い革靴。

 髪も濡れて、服まで湿らせている。

 コートだけはいつものフロックコートを羽織っていた。


 誰の目から見ても、湯浴みのあとに急いで駆けつけてきたのが分かる。


 コートの裾を揺らして駆けつけたエドガーは、一瞬だけ足を止め、道に落ちた血痕を見た。

 小さく息を呑む。

 ルシアンの脇に膝をつき、視線を落とした。

 足の付け根に巻かれたリネンのハンカチも血に濡れ、黒々と色を染めている。


「……ルシアン」

「夜着じゃなかっただけましか」


 ルシアンがおどけて笑うと、エドガーは眉を下げた。


「軽口を言っている場合じゃないだろう」


 琥珀の瞳は、エドガーを見つめる。

 遅れて、ルシアンはゆっくりと息を吐いた。


「すまん。……お前を見たら、急に気が抜けちまった」

 

 エドガーは呆れたように小さく息を吐く。


「……誰にやられた」

「わからん。

 だが、エドワード・ハリントンの調査を妨害したい、誰か。

 しかもあれは、軍人、もしくは元軍人だ」

「わかった。

 ……馬車で病院へ向かおう。支えるから、少し歩けるかい?」


 ルシアンは首を縦に振る。


 エドガーは向かいに立っていたトビーを見上げる。


「君……。トビーだよね。手伝ってくれるかな? ルシアンを馬車に乗せたい」


 それから、エドガーは周りにいる子どもたちを見回した。

 やわらかく笑んでみせる。


「やぁ。ミストラッツのみんな。

 ほとんどの子が、会うのは初めてだね。

 ――僕が、法務官エドガー・レイブンズ。

 君たちの調査にはいつも助けられてるよ。本当にありがとう」


 少年たちが、息を呑む音がした。


「君たちの兄貴は、僕が責任を持って病院に連れていく。生命力は誰よりもある男だ。

 すぐに戻ってこれるさ。だから、心配しないで」


 彼らは顔を見合わせる。

 やがて、エドガーに向かって大きく頷いた。


 エドガーもそれに応えるように頷くと、トビーと目を合わせる。

 ルシアンの脇に腕を入れ、息を合わせて立たせた。

 ルシアンから低い声が漏れる。


「……なぜ、警備隊を呼ばなかった」


 一歩、一歩、ゆっくり馬車へ歩く。


「……警備隊も、治安局も……信じられなくなっちまった」

「そうか」


 気づいた御者が、御者台から降りてこちらに向かってくるのが見えた。


「君は、日頃はナイフくらいしか持っていないだろう。

 武器を携帯してきたということは、罠の可能性を初めから考えていたんだよね?」

「……あぁ」


 エドガーはふっと笑う。


「そういうときは、あらかじめ僕に声をかけてから調査に行ってくれ」


 ルシアンが眉を寄せながらエドガーの顔を見た。


「僕にできることは少ない。

 だけど、そういう日は湯浴みはしないでおくよ」

「お前の濡れた髪が腕に当たって冷たい……」

「そうだろう?」


 エドガーの向こう側でルシアンを支えていたトビーが笑う。

 御者も手伝い、ルシアンとエドガーが馬車に乗り込むと、すぐに馬車は動き出した。


 子どもたちは、それを静かに見送る。

 月光が、濡れた石畳を淡い青に染めていた。



 ◇

 


 翌朝。


 法務官室にノックの音が落ちる。

 ピップが扉を開けると、向こうに立っていたのはオリーブグリーンの制服を纏った中年の男。


 きっちり撫でつけた墨色の髪。眼鏡の奥から覗く薄灰の瞳は、鋭く部屋を見渡した。

 彼は部屋に入ると、軽く頭を下げる。


「レイブンズ法務官殿。

 ヴェイル調査官の代理として参りました。  

 ウォルター・ケインと申します。

 短い間でしょうが、どうぞよろしくお願いいたします」


 顔をあげた男の口端は、わずかに歪んでいる。

 エドガーはウォルターに歩み寄り、手を差し出した。


「ケイン調査官。お待ちしてました。

 若輩者ですが、こちらこそどうぞよろしくお願いいたします」


 ウォルターはその手を取らず、瞳だけ細める。


「本日はご挨拶にだけ、伺いました。明日から本格的に調査に入りたいと考えている所存です。

 ――では」


 彼は踵を返し、部屋を出ていった。


 エドガーは宙に浮いたままの自分の手を見つめる。

 

 雨がまた、ガラス窓を打ち始めた。


 

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