3-3 偽りの報告
治安監察局実務官であるアーサー・グレイは、遅れて西区での死亡事件現場に到着した。
捜査官たちと軽く挨拶を交わし合い、遺体に近づく。
――どう見ても他殺だな。
ほとんど抵抗する間もなく、切られている。切った者は、素人ではなさそうだ。
だが、被害者が握らされているナイフは、明らかに“握らされて”いる。
机の上は乱されているが、椅子は仕舞われたまま。
おそらく、被害者と加害者は知り合い。
署名か何かを求められ、被害者は椅子に座らないまま、それを記入した。
――だが、その内容で揉めたか。
人を殺めたことのある者が犯人だが、計画的な犯行ではなかったかもしれない。
あたりを見回し、窓を見る。
「窓には誰も触れてないよな」
「はい」
窓に近づき、身を乗り出した。
――壁の蔦が剥がされた痕跡。
――靴跡と潰された葉を見るに、成人の男が、ここから外へ出た。
「逃走経路は、川だろうか……」
続いて、既に木箱へ詰め込まれている被害者の遺品。それを覗き込み、彼は、その整った眉をかすかに寄せる。
「なんだよ……これ」
――軍の補給拠点一覧の書類。
――明らかな軍機密情報。
「この人物は……軍関係者か?」
――だとしても、部屋に置いておくような情報ではないだろう。
作業をしていた捜査官が顔をあげる。
「これから詳しく調査するつもりですが、商会の事務員だそうですよ」
「商会の事務員だって?」
――ますます、こんなものがここにあるのは不自然だ。
捜査官たちを見つめ、アーサーはため息を飲み込んだ。
背筋が冷えるような、嫌な感覚が生まれる。
治安監察局に戻ったアーサーは、彼の上司であるダニエル・コートニーの元にまっすぐに向かった。
広い部屋にはいくつも机が並ぶが、どの机も書類が山となり、雑然としている。
染み込んだ煙草の匂い。
通路にまではみ出す捜査官たちの私物。
向こうの席では、笑い声が上がっていた。
机と机の狭い隙間を縫いながら、部屋の一番奥、一回り大きな机に向かっていた痩身の中年の男の前に立つ。
ダニエルは、アーサーに気づくと、席を立った。
「主任、此度の事件は……」
「上からの指令だ。お前はこの捜査を外された」
アーサーがその灰色の瞳を見開く。
ダニエルは瞳を伏せ、首を静かに振った。
「……なぜですか?」
「わかってくれ。上からのお達しだ。この事件は私が直接指揮を執る。
――お前は別の事件も担当しているだろう。そちらに集中してくれ」
アーサーは唇を噛んだ。
「主任。一つだけ教えてください。
現場には、外部調査局の特別調査官がいたそうですね。
……どなたかご存知ですか?」
「ルシアン・ヴェイル調査官だと報告を受けている」
アーサーの口端がわずかに上がる。ダニエルはそれを見て、呆れたように小さく息を吐いた。
「悪いな……。わかってくれ」
「はい」
◇
扉が開く。
窓際に立っていたエドガーはゆっくりと顔をあげた。
窓の向こうでは、音もなく霧雨が降っている。
「ルシアン」
ルシアンは調査書を持ち上げて軽く振ってみせた。
机の前に立ち、それをエドガーに手渡す。
ルシアンの金の短髪には雨の雫がつき、その色を少しだけ深めていた。
「西区のあの件は、“自殺”と処理されたよ」
エドガーが群青の瞳を調査官に向けると、ルシアンは目を見開く。
「は? ……あれが自殺なわけないだろう」
エドガーは首を振って小さく息を吐いた。
「とにかく、裁定院としては金の行方は追わなければならない。
そもそも詐欺事件なのかさえ、判明していないからね。免責事項に値する可能性だってまだある」
「まだ調査は続けられるってことか」
「そう」
調査書をめくっているエドガーを、ルシアンは静かに見つめる。
細長い指先が、丁寧に紙に触れていた。
「なぁ」
「うん?」
「お前は、俺を信じるか?」
エドガーが、ゆっくりと顔をあげる。
「君が……エドワード・ハリントンは他殺だって言っていることについて?」
「……そうだ」
ルシアンはその琥珀の瞳で、群青の瞳をまっすぐに見た。
エドガーの口角が、わずかに上がる。
「信じてるに決まってる。
ルシアンの目を、僕は誰よりも信じてるよ」
群青と、琥珀が、交わった。
「でも、治安監察局は“自殺”だと断定した。
つまり、この事件には――何かある」
エドガーの瞳の中に、ゆらりと火が灯るように、淡い光が差し込む。
窓を打つ雨の粒が、大きくなってきたようだ。
ルシアンの片方の口端が上がる。
「やっぱり、俺の相棒はお前しかいない」
エドガーが淡く笑みながら首を傾げると、ルシアンは踵を返した。
「もっといい情報を持って来てやる」
「君には期待しているよ」
木床を踏む音。
扉が、閉まる。
エドガーは窓を見た。
ガラスに当たって砕けた雨粒は、静かに縁に落ちていった。
◇
「……これだけですか?」
エドガーの法務官室に運び込まれた木箱は一箱のみ。
ダニエル・コートニーは、治安監察局の黒衣の制服の襟を軽く引きながら、頷いた。
「えぇ、お渡しできるのは、この一箱だけです」
エドガーは床に置かれた木箱の蓋を開けるが、中は半分も入っていない。
屈んだ姿勢のまま、エドガーはダニエルを見上げた。
「こちらは、彼の金の動きを追わねばなりません。日頃の価値観も含め、彼のすべてを知りたい。遺品のほとんどをお渡ししていただけるようお願いしていたはずですが」
「我々が今、法務官殿にお渡しできるのは、これだけです」
エドガーはしばらく木箱の中身を見つめていた。
そして、もう一度ゆっくりと顔を上げる。
「自殺と断定されたのですよね。
つまり、そちらの捜査は既に終わったということでは?」
「えぇ。終わりました……」
エドガーがその瞳を見つめると、ダニエルは視線を外す。
エドガーは静かに立ち上がった。
「他に何か、伝達事項はありますか?」
「……いえ」
ダニエルは姿勢を正すと、深く頭を下げた。
「失礼します」
「……えぇ。何かあればまた、ご連絡差し上げます」
治安監察局の主任実務官は、視線を下げまま、静かに答える。
「レイブンズ法務官殿。我々に答えられることは、きっと何もありません……。
――では」
エドガーが何か言いかける前に、ダニエルは素早く部屋を出ていった。
残された木箱。
エドガーは小さく息を吐いた。
◇
ルシアンはグレイブ川沿いの道を、メモを片手に歩いていた。
エドワード・ハリントンの殺害された日の行動を、近所の人々から話を聞いて回っているところだった。
荷馬車が背後から近づいてくる。
ルシアンがそちらへ視線を向けると、馬の脚がゆっくりとなり、隣で止まった。
「治安監察局の人?」
荷馬車の男がルシアンに気安く声をかけてくる。
「あ、いや、私は王立裁定院の外部調査局の者です」
「ハリントンの調査?」
「……えぇ」
御者台に乗ったままの男は、人好きのする笑顔を浮かべた。
「俺さ、ちょうどハリントンがその日、揉めてるのを見てるんだよ。関係あるかもしれないなと思い出してさ。少し話聞いてくれるかい?」
ルシアンはメモを構える。
「……話していただけますか?」
男は頷く。
「あの日、商会の倉庫で何やら揉めてたよ。遅番のやつさ。
だから、そいつに会いたきゃ夜にハリントンの勤め先の倉庫に行ってみりゃいい。東の倉庫だよ。今夜もいるはずさ」
「あなたは商会の方ですか? お名前を伺っても?」
「じゃあな。役に立てばいいがな」
男は名乗らず、また手綱を緩める。
馬が走り出し、その背は見る見る遠ざかる。
ルシアンは手元のメモを見下ろした。
「……東の倉庫? 行くだけ、行ってみるか」
川の水音。
薄曇りの空に、それはじわりと溶けていった。




