↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
歪んだ三日月 ―法務官エドガー・レイブンズと王都に棲む蛇―   作者: かも ねぎ
第三章 石畳の下 ―王立裁定院と治安監察局―
29/67

3-2 開いた扉


「よぉ、エドガー」


 いつもと変わらず、ノックもせずに法務官室に入ってきたルシアンは、大股でエドガーの机に近づいた。

 

「やぁ、ルシアン」

「兄貴、こんにちは」


 窓辺に寄りかかるようにして立っていたエドガーは、書類から視線を上げる。自身の机で作業していたピップも、顔を上げてにこりと笑った。

 

 窓の外はどんよりとした薄曇り。

 この国の夏は、晴れ間よりも雲の方が多い。


 エドガーは持っていた紙束を机に置くと、別の書類を取り上げてルシアンに手渡した。


「新しい案件だ。婚約解消時の持参金返還訴訟」

「ふぅん」

「内容としてはシンプルだよ」


 エドガーが肩をすくめるのを見て、ルシアンは小さく笑った。


「まぁ、俺たちは裁定だけして、取り立てるのは治安監察局の部門だからな」

「そう」

「じゃ、すぐに話を聞いてくる」

「うん。頼んだよ」


 ルシアンは調査書をめくりながら踵を返す。


 ――被告は、エドワード・ハリントン。

 大手商会の事務員だった男だ。

 親族の遺産相続絡みで国外に移住が決まったため、商会長の娘との婚約は円満に解消された。

 だが、金はあるはずなのに持参金だけは返還されず、裁定案件となった。

 

 さほど難しくない、よくある案件だった。


 



 ルシアンは裁定院を出ると、その裏手、石畳の路地を一本入った場所に足を向けた。

 そこに建つのは、ルシアンの所属する――外部調査局。


 裁定院と同じ白亜の石造りでも、本館のような装飾はない。窓は小さく、門前には常に警備が立っていた。

 華やかな裁定院に比べると、ここは影のような場所。


 ルシアンが黒鉄の門をくぐると、ほとんどあって無いような前庭を踏み、入館受付を通る。

 入館には厳しい検査がある。

 許可証がなければ中へは入れない。


 ――ここは、王立裁定院のためだけの調査部門だ。


 特別調査官には、この国のほとんどすべての扉を開ける権限がある。

 彼らがその気になれば、貴族の邸宅も、軍の倉庫も、役所の書庫も、例外ではない。


 だからこそ、この国の秘密は、最終的にはすべてここへ集まる。


 ルシアンは徽章を見せ、中へと入っていった。

 

 木床の廊下はいつでも薄暗く、硬い靴底で歩き回る調査官たちのせいか、床は無数の傷で白く擦れていた。

 多くの調査官は外に出ているため、建物の規模の割に人の気配は少ない。

 木床を踏む音は、廊下の奥までよく響いた。

 奥には広い資料室があり、そこにも警備が立っている。

 武器庫、備品室、資料請求や急報便の手配を行う事務室、小さな食堂――


 王立裁定院のもう一つの顔が、ここにはあった。


 ルシアンは一つの部屋の前で足を止めると、ジャケットの内ポケットから鍵を取り出した。

 鈍い金属音をさせて扉の鍵を開ける。

 後ろ手に扉を閉めながら部屋へ入り、彼は机のオイルランプに火を灯した。席の一つに腰を下ろす。


 調査官の部屋は狭い。

 エドガーの法務官室に比べると、あまりにも質素で見劣りする程だ。

 それでもここには、書き物机と椅子が三セットも並び、壁際には書架がある。

 本来、法務官にはニ、三人の調査官が付くが、エドガーにはルシアンしかついていない。

 だから、この部屋を使っているのはルシアン一人だった。

 なぜそうなのかは、ルシアンには知らされていない。


 格子つきの窓から差し込む鈍い光は、ほとんど手元を照らしはしなかった。

 彼は、オイルランプの明かりを頼りに、新案件の書類を読みながら、要件をメモに書き出していく。


 ――簡単な案件。

 それでも、彼がこなすべき仕事は多くあった。


 壁掛け時計が、一つ時を刻む。


 


 ルシアンは黒革の書類ケースを抱え、グレイブ川沿いを歩いていた。

 鉛色の水が小さな波を作りながら流れていく。小型の貨物船がちょうど川を下って来るのが見えた。

 

 西区。中流階級向けの店舗や住宅が並ぶ街。その端に、エドワード・ハリントンの下宿先があった。


 煉瓦造りの三階建て。

 

 ルシアンは胸ポケットに入れていたメモを取り出して確認してから、蔦の這う建物のノッカーを叩いた。

 管理人の夫人に案内され、部屋の前に立つと、夫人は一礼だけして去っていく。


 下宿の階級としてはさほど高くない。エドガー達、官僚や貴族出身の紳士たちが住む下宿に比べれば、管理人の世話は薄く、部屋も建物も、狭くて質素なもの。


 ルシアンはノックした。

 乾いた音が薄暗い廊下に響く。


 しばらく待つが、返答がない。管理人は「出かけていないはずだ」と言っていた。


 もう一度ノックする。


 やはり返答はない。

 ルシアンは腕を組んでしばらく待つが、やがて、彼はドアノブに手をかけた。

 

 カチャリ――抵抗なく扉が開く。


「……ハリントンさん。ご在室ですか?

 入りますよ」


 扉を小さく開けて覗き込んだ瞬間――

 ルシアンは眉を寄せた。


 血の匂い。


 視線を床に落とし――

 ルシアンは扉を大きく開けて部屋に入った。

 

「おい!」


 倒れている男。


 喉や、その指先はひどく血に濡れていた。

 床の薄い臙脂の絨毯には、色濃く血の染みができている。

 

 ルシアンは男の脇にしゃがみ込んで、顔を寄せた。


 呼吸はない。


 喉がすっぱりと切られている。


 ルシアンは、息を呑んだ。


 ――これは自殺じゃない。

 ――戦場で何度も見た傷だ。


 手にはナイフを握っているが、親指はナイフには掛かっていない。

 後から握らされたのが明白だ。


 血を避けるように残る、二種類の足跡。

 彼以外の人間がここにいた形跡だ。


 ルシアンは、顔をあげた。

 窓が開き、カーテンがゆらゆらと揺れている。


 ――逃げたのか。


 小ぶりな書き物机の上は荒らされていた。

 ペンやインク壺もひっくり返り、インクが床にまで垂れて落ちている。

 ペン先には、インクに浸された跡がそのまま。

 だが、書類の類は机上には一枚もない。


 ――もともとはそこに書類があったのではないか?


 ――書類が持ち去られた?

 ――何の書類? 何のために?


 ルシアンは立ち上がると、扉に駆け寄った。


「誰か! 警備隊を呼んでくれ! 人が死んでる!!」





 間もなくして、警備隊が到着。

 遅れて、治安監察局の捜査官補や捜査官が部屋に入ってきた。


 彼らは壁に立っていたルシアンのオリーブグリーンの制服を見るなり、小さく眉を寄せる。


「あなたは……外部調査局の方ですか」


 ルシアンは目を細めて頷いた。


「……この遺体の発見者だ」

「そうですか。ここは我々の担当です。どうぞ調査局へお戻りを」


 捜査官はルシアンを押しのけるようにして狭い部屋に幾人も入ってくる。


「……俺から話を聞かなくていいのか?」


 その場を仕切る捜査官だけが振り返る。


「調査局の方だ。どうせ遺体には触れていないでしょう?

 後で書類を送りますから、それに答えていただければ結構ですよ。

 裁定院案件は……、えぇ、とてもとてもお忙しいでしょうからね」


 捜査官はふいと向こうを向いた。


 ルシアンはため息をつき、踵を返す。

 部屋を出ると、声が漏れ聞こえてきた。


「逮捕権もないくせに。裁定院の犬はうるさくて苦手だよ」

「偉そうなんだよな」


 ルシアンは首を振ると、大股で歩き出す。

 途中、震えている管理人の夫人を見つけ、彼は声をかけてその背をそっと擦った。


「……大丈夫。彼らは有能です。すぐ解決してくれます」

「ですが……」

 

 穏やかに笑んで見せる。


「問題ありゃしませんよ」


 夫人が頷くのを見て、彼は静かにそこを離れる。


 扉を押し開け、煉瓦造りの建物を見上げた。

 壁を這う蔦。


 ハリントンの部屋は二階だった。その窓の下の蔦を見れば、すぐに足跡が見つかるだろう。

 近くにはグレイブ川。

 整った西区の街中より、川から逃げた方が人の目をすり抜けられるかもしれない。


 ――大丈夫。きっとすぐに犯人は捕まるさ。

 

 ざわめき。

 既に多くの野次馬たちが建物を囲っていた。

 

 ルシアンはその隙間を抜けて、現場を離れる。


「とんだ案件に成長しちまったな」


 独り言は、野次馬たちの声にかき消されていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。