2-5 白い蝶
廊下がにわかに騒がしくなった。
エドガーは向き合っていた書類から顔をあげた。
「こちらからお声掛けしますのでお待ちください!」
「大丈夫だって!」
「離席中かもしれませんし」
「いるって! あっはっは! いなきゃ待つから!」
「いやしかし……!」
「大丈夫だから。ね? 君たちの大事な法務官を傷つけたりはしないよ」
少し低めのやわらかい男性の声。
聞き覚えのあるそれに、エドガーは書類を引き出しにしまい、席を立った。
エドガーが扉のノブに触れる前に――
勢いよく開く。
「エドガー!」
扉の向こうにいた男がエドガーに抱きついた。
エドガーはそれを受け止める。
「あはは。兄さんじゃないか」
エドガーの兄、ジュリアン・レイブンズの背後で、書記官の男は顔を青くしている。
エドガーは彼に向かって小さく手をあげると笑みながら頷いてみせた。
「この人は私の兄なんだ。案内してくれてありがとう」
「……本当にご兄弟なのですか?」
ジュリアンは、書記官を振り返る。
「よく見てよ。この理知的な瞳。そっくりだろ?」
エドガーのアーモンドアイの群青の瞳に対し、ジュリアンは榛色の切れ長の瞳。
さらに、オルドンの紳士らしい装いの黒髪のエドガーに比べ、ジュリアンは胸元の大きく開いた開襟シャツに赤色のベスト、軽い革靴、それからキャラメル色の髪をしていた。
下ろされたままの長めの髪からは、異国の強い香水の香りが立ち上がる。
エドガーの次兄であるジュリアンは、どこか陽気の漂う男だった。
「僕とジュリアン兄さんは似てないよ。不審がられても仕方ないと思う」
「……エドガー」
ジュリアンの眉がしょんと下がる。
「……お知り合いのようで安心しました。それでは失礼いたします」
書記官は安堵したように小さく息を吐き、背を向けて去っていった。
「やれやれだな」
「無理やりここに入ってこようとしたんでしょ。
そりゃその格好じゃ止められる」
兄は声を上げて笑う。エドガーも、それを見て小さく笑った。
ジュリアンは我が物顔で法務官室を歩くと、床に擦り切れた鞄を置き、書類束を取り出す。
「はい。お前が欲しがってたやつ」
「……これは?」
エドガーはそれを受け取り、頁をめくった。
「請求してきただろう?
エドウィン・ハート作品の売買記録」
ジュリアンはエドガーの前に立つと、満足げに腕を組む。
「お前が問い合わせたのは、俺が所属する画商組合だったんだ。
アルストリア王国の王立裁定院からの請求だと聞いて、もしかして……と思ったら本当に請求主はエドガーだった。
俺は迷わず組合長から売買記録の写しを引ったくって……じゃない、お預かりして船に乗り込んだよ」
エドガーは書類束から顔をあげる。
「書簡で良かったのに……」
「かわいい弟に会いたい兄の気持ちを無碍にするもんじゃない」
ジュリアンが淡く笑うと、エドガーもつられるように同じような表情で笑った。
「さて、仕事はしないとな」
兄は腰に手を当てると、その切れ長の瞳をさらに細くする。
「エドウィン・ハートの作品だが、当時の
ブラムウェル伯爵家の次男フレデリック氏から多数持ち込まれている。
俺にも伝があってな。
アルストリア王国内の画商の取引記録も見たが、その“猫の絵”だけは、持ち込まれていない」
エドガーは小さく頷くと、兄から受け取った書類を机に置いた。
「僕も、国内の記録は見たんだ。
やはりあれは個人所蔵だったんだろうね」
エドガーは窓際にゆっくりと歩き、ジュリアンはそれを目で追う。
「お前のことだ。もう次男の血統の人間は見つけたんだろう?」
「見つけたよ。だけど、記録がかなり曖昧なんだ」
「庶民の記録は貴族ほど残らないからな」
ジュリアンは法務官机に腰を掛けると、窓の向こうを眺めている弟を見つめた。
「で、どういう事件なんだ? どこかの偽善者に返せとか言われたのか?
貴族に喧嘩売るとは勇気があるな」
「まぁ……そんなようなところだよ」
エドガーは窓枠にもたれるようにして立ち、尖塔群に視線をやる。
「当時の伯爵家の兄は傲慢なやつで、弟のものをよく取り上げてたって話。
どうせ、猫の絵もフレデリック氏から兄が取り上げたんだろう」
「確証がない。
それに法的には、現状間違いなく伯爵家の財産の一つだよ」
「……法ってやつは面倒だな」
エドガーが苦く笑うと、ジュリアンは肩をすくめた。
「……ところで、兄さんはいつもそういう服装なの?」
エドガーの視線を感じてジュリアンが自分の服を見下ろす。温かい国の貴族の服装のようだが、アルストリア王国ではやはり目立つ。
「おきれいな服はホテルの部屋に投げ入れてあるさ」
エドガーが眉を上げた。
「ホテルに? 実家は王都内にあるのにわざわざ取ったの?」
ジュリアンが口をすぼめる。
「それを言うならお前だってわざわざ高級下宿に住んでるだろう」
「実家にはアレク兄さんの一家が住んでる。迷惑はかけられない。
一時帰宅ならともかく、住めはしないよ。
それに僕だってまぁまぁ稼いでる。独立してたっておかしくないだろう」
「アルストリア王国の法務官の給料を“まぁまぁ”とか言うな。俺より相当稼いでるだろうに」
兄は声を上げて陽気に笑った。
「お前が帰らないから親父が寂しがってるぞ。なぜか俺のところにまで“エドガーを連れて帰ってこい”って手紙が届く」
エドガーは窓の外に視線を戻すと、小さく息を吐く。向こうの大通りを馬車が通り過ぎていった。
「寂しがるような人じゃないだろう。
孫はいつ連れてくるんだっていう話じゃないのかな」
「……まぁ、そうだろうな」
窓に手を沿わせると、春とは思えないほどにガラスは冷たい。
「兄さんは帰ってるの?」
「帰ってるわけないだろう」
「兄さん……結婚は?」
「する予定はない。お前は?」
「しないよ」
ジュリアンは腕を組んで、にやりと口端を歪めた。
「……もしかして」
「何?」
エドガーがジュリアンの方を向くと、兄はやれやれと肩をすくめている。
「……重たい男だな」
エドガーは眉を歪めた。
「……お付き合いの経験はちゃんとあるよ。人並みに。でも、いつも自然消滅してしまう。だから、最近はもう恋人を作ることも考えていない」
「初恋の煌めきにかなうものは無いよな。
可哀想な弟」
訳知り顔で頷いている兄を弟は見据える。
「兄さんだって結婚してないだろう」
「俺は青春を謳歌してるだけ」
「いつまで青春してるの」
「一生涯だよ」
エドガーが声を上げて笑うと、ジュリアンも気楽に笑った。
窓の外、白い蝶が緩やかに、遊ぶように飛んでいった。




