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歪んだ三日月 ―法務官エドガー・レイブンズと王都に棲む蛇―   作者: かも ねぎ
第二章 赤猫の署名 ―遺された絵の行方―
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2-4 赤猫の女


 バー〈ハロウズ・エンド〉。


 天井の低い梁に吊られたランプ。

 その鈍い橙の明かりだけが、店内を静かに満たしていた。


 グラスの触れ合う音。

 時折、低い話し声が聞こえる。

 

 革張りのソファが並ぶ小さなボックス席で、エドガーとルシアンは向かい合っていた。


「どうやら、当時の伯爵家の兄チャールズと弟のフレデリックは、相当仲が悪かったようだ」


 ルシアンの金の短髪に鈍い光がかすかに滑る。


「俺の想像に過ぎないが、絵はエドウィンがフレデリックに贈ったんじゃないか?

 それをなんらかの経緯で兄チャールズが手に入れた。奪ったのか、譲り受けたのか、画商から買い取ったのか、まだ分からないが」

「弟の血統を探すのは、困難だろうね」

「フレデリックは後年、貴族籍を抜けているようだからな。庶民からその血筋を探すのは難しいだろう」

「まぁ、やるだけやってみよう」


 グラスを軽く当て合う。


「ところで……」


 ルシアンはそう言いかけ、眉を寄せた。

 エドガーが彼の視線を追って振り向くと、赤髪の女、ヴィヴィアン・クロウフォードがちょうど二人に向かって歩いてきている。


 胸元が大胆に開いたドレス。

 髪色に合わせた真っ赤な口紅。


 ヴィヴィアンは妖艶に微笑み、小さく手を上げた。

 そして、当然のようにエドガーの隣に腰を下ろす。体をぴたりと寄せ、彼の膝に手を置いた。


「……あら、私を待っててくれたの?」

「待つわけないだろう」


 ルシアンが応えると、ヴィヴィアンは彼を横目でちらと見る。


「あんたじゃないわよ。エドガーさんに言ってるの」


 エドガーはテーブルに肘をついて顎を支え、苦く笑った。


「私もあなたを待ってはいませんよ」

「あら釣れないわね」


 ヴィヴィアンは手を伸ばし、エドガーのグラスに勝手に口をつける。

 エドガーの眉がわずかに寄るのを見て、彼女は楽しそうに笑った。


「ねぇ、私を見て」


 ヴィヴィアンが肩をすくめたおどけた仕草でエドガーを見、彼はそれを静かに見つめ返す。


「みんな言うわ。“いい女だね”って」

「ミス・クロウフォードは美しいですよ。それは間違いない」


 ヴィヴィアンは人差し指をエドガーの唇に当てた。


「“ヴィー”よ。覚えて」


 エドガーはふっと笑うと視線をそらす。


「ねぇ、エドガーさん。

 こんなにいい女なのに、手を出さないなんて、あなた本当に紳士なの?」

「紳士だから手を出さないのでは?」


 ヴィヴィアンが体を寄せるのをよそに、エドガーはグラスについたヴィヴィアンの口紅を指先で拭う。くるりと回して別の縁からブランデーを口に含んだ。


「あら、知らないの?

 オルドンの紳士は手が早いのよ」

「それは知りませんでした」

「じゃあ覚えておくといいわ」


 ヴィヴィアンはエドガーの手からグラスを奪うと一気に飲み干す。

 そして、コトンと小さく音を立てて、グラスを彼の前に置いた。

 挑発的な笑みを浮かべ、席を立つ。


「次こそ、二人きりで会いたいわ。素敵な法務官様」


 彼女は腕を伸ばしてエドガーの頬をくすぐるようにして触れると、さっと踵を返して去っていった。

 

 甘い香水の香り。

 口紅のついた空のグラス。

 それだけがテーブルに残された。


 エドガーはため息をつき、ルシアンは苦く笑った。

 

「……あの女についても調べるか?」

「それはいいよ。赤い猫がいただけ。気にしなくていい」


 ルシアンはつい、声を立てて笑った。



 ◇



 ホテルの一室。


 ヴィヴィアンは部屋に戻るなり、結っていた髪を解き、ベッドに鞄を投げてドレスを脱ぎ、パンプスを床に転がした。


 部屋のガスランプに火を灯すと、下着姿のまま、トランクを開ける。

 

 切り抜かれた跡の残る何社分もの新聞とナイフ。

 それから革のフォリオに挟んでおいた古い手紙を取り出して、テーブルに乗せた。


 ソファに腰を下ろすと、その長い脚を組む。


「お硬い男。全然話してくれないじゃない。困ったなぁ……」


 新聞を開いて並べた。


 ――でも、エドウィンとフレデリック、それからチャールズの関係まではたどり着けてるみたい。


「さすが有能“法務官様”よね。

 彼から情報を得るのは無理でも、もう一押しすれば、うまくやってくれる気がするのよね」


 彼女はふわりと笑うと、一度広げた新聞を端に寄せ、古い手紙を持ってソファに寝っ転がった。


 赤い爪先で、文字にそっと触れる。


『フレデリックへ


君には感謝している。

僕のような売れない画家の面倒を見ていたせいで、君にはいらぬ苦労をかけてしまった。

でも、君といた日々は僕にとっては宝だ。

だから“すまない”よりも“ありがとう”をどうにかして伝えたい。

君にあの猫の絵を贈るよ。

僕には筆しかないからね。

もちろんあの絵の中の男は、君だよ。

なかなかいい男に描けてるだろう?

まぁ……どうせ、金にはならないだろうな。

でも、きっと、あの絵は僕の最期の絵だ。

どうか受け取ってほしい。

君のような友人を持てた僕は、幸せ者だ。

ありがとう。

君は長生きしろよ。


心から感謝を込めて。

エドウィン・ハート』


 ヴィヴィアンは手紙を胸に抱いた。


「あなたの思い。絶対守るわ。

 あなたの絵を、弟から奪った兄の血筋の伯爵家なんかに置いておくものですか」


 彼女は起き上がると、手紙を丁寧にしまう。


「ま、私もこの手紙は盗んできたんですけど。法務官様に知られたらお縄かしら?」


 一人でくすくすと笑うと、新聞もトランクに戻す。


「うん。そうね。

 次は伯爵家への脅迫状じゃなくて、あちらの一手にしよう」


 彼女はトランクからレターセットを取り出し、手紙をしたためはじめた。


 鼻歌と、ペン先が紙を擦る音。

 ガスランプの火が小さく揺れた。


 書き終わると口紅を塗り直し、手紙にキスマークを残す。


 彼女は窓の外をちらと見た。


 夜でもガス灯が街を照らしている。

 人々のかすかなざわめき。

 街中にいくつもあるバーや夜の店。

 明かりの消えない尖塔群。


 王都は眠らない。

 ヴィヴィアンは妖艶に微笑み、それを見つめていた。

 


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