2-2 隣の机
エドガーが階段を上りきると、朝陽が窓枠の形を残したまま、木床の廊下にいくつも落ちていた。
書記官やほかの法務官とすれ違い、挨拶を交わす。いくつもの足音が木床を鳴らした。いつもの、朝の光景。
ふと、廊下の一番奥に視線をやり、エドガーは小さく笑った。
扉の前でピップがそわそわとエドガーを待っているのが見える。
少年はエドガーに気づくと、小さく足踏みをした。駆け出したい衝動を抑えているのだろう。
「エドガーさん! おはようございます!」
「おはよう、ピップ」
エドガーが近づいていくと、ピップの頬が少しだけ赤くなる。
「あの……!」
「君のだよ」
エドガーは淡い微笑みを残して先に部屋に入った。
エドガーの法務官室。
昨日まで、その部屋には大きな机が一つと、書架、棚、そして来客用の予備の椅子が二脚あるだけだった。
だが今は、大きな法務官机の隣に、一回り小さな机が横向きに並べられている。
ピップのための、仕事机。
エドガーの後ろから部屋に入ってきたピップは、彼の帽子やコートを受け取って扉脇のコート掛けに掛けてから、その机に駆け寄った。
そして、その机に指先で触れる。
「そろそろ必要かと思って、申請しておいたんだ。
夜のうちに運び入れてくれたみたいだね」
エドガーが彼の脇を通る際にその頭にぽんと手を置くと、ピップは顔を両手で覆い、声にならない声を漏らした。
エドガーは笑いながら自分の席につく。
「……ありがとうございます」
ピップも、静かに席に着いた。
「これからも頑張ってね」
「はい」
目を合わせて笑い合うと、エドガーは机上の書簡の束に視線を落とした。
中を確かめ、小さく息を吐く。
続けて、鍵付きの引き出しから書類を取り出すと、それを見返した。
ブラムウェル伯爵夫人と話してから間もなく。当主のリチャード・ブラムウェルから、絵画の所有権確認裁定の申請が出された。
エドガーは書類の文字を指でなぞる。
伯爵家財産目録、先代伯爵遺産目録、どちらにもあの絵画『猫と青年』が記載されている。
今朝届いた書簡は、王国貴族院の記録。
公証人記録のそれにも、――記載あり。
――あの絵画は、法的には伯爵家のもので間違いない。
「例の絵画ですか?」
さっそく机に文具を並べていたピップは、顔を上げて、エドガーに問う。
「……そうだよ。ピップが調べてくれた裁定院の記録上も、この絵は伯爵家の所有となっていた。よほどのことがない限り、これは覆らないだろうね」
エドガーは追加の書類も丁寧にまとめると、革表紙のファイルに挟み込んだ。
「“よほどのこと”とは?」
「そもそもの入手経路に問題があった場合」
「盗品だった……とか、そういうことですか?」
「そう」
ピップは鞄からノートを引っ張り出し、メモを取り始める。
「ただ……仮にそうだったとしても、ここまで記録がそろっていたら、そう簡単に返却するという事態にはならないだろう」
「“伯爵家”だからですか?」
「そう。
決して“伯爵”という地位は軽くない。
そして、“王国貴族院”と“王立裁定院”の記録付きだ」
鉛筆が紙に擦れる音が響く。
その時、扉の開く音。
「よぉ。……あれ? 机をもらったのか」
ノックもせずに入ってきたルシアンは、机に向かっているピップに気づくと、にっこりと笑った。
「おはようございます。兄貴」
「ルシアン、おはよう」
ほとんど物の乗っていない机上をルシアンが手のひらで撫でると、はにかんでいるピップとルシアンの目が合う。
「良かったなぁ! ピップ」
「わぁ!」
髪をルシアンにぐしゃぐしゃにされてピップが悲鳴をあげるが、ルシアンとエドガーは笑っていた。
ルシアンは黒革の書類ケースからエドガーに調査書を手渡す。壁際の一脚の椅子を引っ張り出し、二人の机の前に置いて腰掛けた。
「調べてきたぞ。
かなり昔であることと、関係者が皆鬼籍に入ってるから、大したことは調べられてないけどな」
調査書の文字に目を走らせながら、エドガーは手のひらをぺらりとルシアンに見せた。
「いいよ。話して」
「絵画の作者、エドウィン・ハートは当時、苦しい生活を送っていた。
だが、それを拾ったのが伯爵家の次男フレデリック・ブラムウェル。
フレデリックはエドウィンを懸命に支えた。画商へ紹介したり生活を世話したり、かなり甲斐甲斐しく面倒を見ていたようだ。
だが、それも報われず、結局評価されないままエドウィン・ハートはこの世を去ってしまった。
彼の絵が再評価されるようになったのは、ここ数年の話だ」
ルシアンが腕を組むと、エドガーは書類を机に置く。
「この程度だ。
具体的な絵画の行方は追えていない」
エドガーは机上で指を組んだ。
「あの絵画の中の青年は、エドウィン・ハートの自画像?
それともフレデリック・ブラムウェルだったりするのかな」
「いや、すまん。現段階では掴めていない」
エドガーは引き出しから何枚か書類を取り出すと、ペン先をインク壺に浸す。
「画商の取引記録をあたろう」
「そうだな」
「個人所蔵だった場合が厄介だね」
「どこにも記録が残っていないだろうからな」
ルシアンは立ち上がると、メモを取っていたピップの頭に手を置いた。
「ピップ、昼メシをおごってやる。祝いだ」
ピップは眉を寄せてルシアンを見上げる。相変わらず背の高い男だ。
「え……机の?」
「そうだ!」
「兄貴……。まだ朝だよ……」
「来るのか来ないのか」
助けを求めるようにピップがエドガーを見ると、彼はやわらかく笑んで頷くだけ。
「いいよ。行ってきて」
「ピップ、お前の上司は寛大だな」
「こういう時ばっかり君は僕を褒めるね」
エドガーが視線を落として文字を書き始める。ルシアンがピップの腕を引くと、ピップはため息をついて立ち上がった。
「行ってくる。お前の補助員を借りるぞ」
「はいはい」
軽い足音が重なり、扉が閉まった。
エドガーの唇の端が、ほんの少しだけ緩む。
窓の外。
春の風が、かすかに窓枠を揺らしていった。




