20 少年の居場所
治安監察局による一斉検挙が行われた後も、ピップは大聖堂の女性寄宿区へ通っていた。
白い石畳。
奥に広がる庭園。
ピップは、大聖堂のアーチの前で足を止めた。
高い塔を見上げる。
霧に濾された光が、石壁に鈍く反射していた。
大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
ピップは鞄のベルトを強く握ると、女性寄宿区とは反対側に歩き出した。
しばらく歩くと、やがて白い石造りの平たい建物が見えてくる。
彼がかつて生活していた――
聖ルミナ孤児院。
いくつもの人の気配。
ピップの歩みが、徐々に遅くなる。
いつもより、ブーツが重く感じた。
「あ」
建物の扉が開き、白い長衣の男性がそこから出て来る姿が見える。
(ファーザー・エリオットだ!)
ピップは息を吐き、駆け出した。
鞄が揺れて、うるさく音が鳴る。
湿った短い芝を蹴り、
花の揺れる花壇を避けて、
かつての恩師のもとへ。
音に気づいたファーザー・エリオットが足を止め、振り返った。
ピップは彼の前まで来ると、胸に手を当てて、呼吸を整える。
「あぁ……。やっぱり、君、ピップさんですね」
ファーザー・エリオットは、目をやわらかく細め、笑った。
その変わらぬ優しい表情に、ピップの胸が強く締め付けられる。
「ファ……ファーザー・エリオット。お久しぶりです。
……俺、今、王立裁定院で補助員をしています」
ファーザー・エリオットが目を見開く。
そして、彼は嬉しそうに笑った。
「それはそれは……。素晴らしいですね」
ピップは一度俯き、また顔をあげた。
ファーザー・エリオットの顔を真っ直ぐに見る。
「あなたのお陰です。
あなたが俺に、文字を教えてくれたから……。
俺に、寄り添ってくれたから……。
あなたがいたから………
俺、ここまで来れた……」
ファーザー・エリオットは眉を歪め、その瞳がわずかに潤んだ。
そして、小さく首を振る。
「いいえ。ピップさん。
あなたが今そこにいるのは、あなたが頑張ったからです」
ピップは唇を噛み、司祭の瞳を見つめた。
「でも、私のおかげだなんて言ってもらえて……。私はとても嬉しい。
――ありがとう。ピップさん。
そしてね、元気そうなあなたに会えたこと。それが何よりも、私は嬉しいです」
「はい……」
ピップは、深く頭を下げた。
芝に、一粒、涙が落ちる。
ファーザー・エリオットは、その栗色の髪にそっと触れた。
「また、ぜひ会いに来てください」
「……はい」
彼は、ゆっくりと踵を返し、歩き去る。
石畳の道を、まっすぐと。
ピップはしばらく、かつての恩師に向かって頭を下げ続けた。
溢れる涙を何度も拭いながら。
女性寄宿区のアリシアの部屋をノックすると、ほとんど間を置かずに扉が開いた。
「ピップさん!」
いつも通りのアリシア。
「こんにちは」
ピップも慣れたように机に向かうと、本の入れ替えを行う。
「アリシア嬢、もうすぐ家に戻れるよ」
「えぇ、聞いたわ。嬉しい」
椅子に座るアリシアをピップが見ると、言葉とは裏腹に、彼女は寂しそうにピップを見ていた。
「……また会える?」
「え?」
「ピップさんに会えなくなるのは、寂しいわ」
ピップの頬がじわじわと赤くなる。
「ねぇ、ピップさん。私のことはアリーでいいわ。もう、お友達でしょう?」
ピップは苦く笑うと、机の上に既に出してあった櫛とリボンを手に取った。
「“ピップ”ってきっと愛称よね?
本当は何というの? フィリップ?」
手のひらのアイボリーのリボンを見つめ、ピップは小さく息を吐く。
そして、顔をあげた。
「俺の雇用通知には“フィリップ・レーン”て書いてあった。
エドガーさんが、そう、名付けてくれたから」
「……エドガー法務官様?」
アリシアが首を傾げる。
「俺……孤児なんだ。そこの、聖ルミナ孤児院で育った」
ピップが顔をあげると、アリシアは「へぇ」とごく普通に応えた。
しっかりと、目が合う。
ピップは瞬きをした。
「……え? それだけ?」
「え? “それだけ?”ってどういうこと?」
ピップは自分の前髪を押さえる。
「いや……俺、だから孤児なんだよ。
貴族令嬢と本来話せるような立場の人間じゃない」
「どうして?
あなた今、あの格式高い王立裁定院で立派にお勤めしてるじゃない」
アリシアは不思議そうにピップの栗色の瞳を見つめる。
「それでも……」
「うーん。
高位貴族のお嬢様ならともかく、私は一代限りの騎士爵の娘よ。
私が結婚する方は、きっと庶民の方だわ」
ピップは頷く。
「王立裁定院にお勤めなら、どんな立場でも、結婚相手として何も問題ないと思う……のよ」
そこまで言って、アリシアは顔を真っ赤にして俯いた。
ピップも耳まで赤く染まる。
アリシアはぱっと顔をあげた。
「あなたのこと、ピップって呼ぶわ。
いいでしょ?」
ピップも、ゆっくり顔をあげる。
そして、やわらかく微笑んだ。
「うん。いいよ。アリー」
アリシアは頬に手を当てながら、声を上げて笑う。
「アリー。
俺はね、裁定院にずっといるよ。
エドガーさんのそばに」
「……会いに行くわ」
「そんな簡単に来れる場所じゃないけどね」
二人して笑い合う。
少年と少女の笑い声は、軽やかに、静かな寄宿区に響いた。
それから、幾日か経ったある日。
ピップは、エドガーの法務官室の戸締りをしていた。
「ピップ、帰ろうか」
ピップが振り返ると、エドガーが出先から明かりの落ちた部屋に戻ってきたところだった。
「はい!」
エドガーが帽子を被り、杖を持つ。
ピップは鞄を肩にかけると、彼の隣に並んだ。一緒に部屋を出る。
足音の響く木床を踏み、階段を下って、玄関ホールから外へ出た。
丸い月。
春になっても、王都オルドンの夜は肌寒い。
ピップはコートの襟を立てると、小さく息を吐いた。
「……夜は冷えるね」
「はい。温かいものが欲しいです」
「部屋についたらまずはお茶を飲もう」
「はい」
前庭を歩いていると、門の方に人影が立った。
「ピップ!」
大きく手を振り、彼女が走り寄ってくる。
「……アリー?」
彼女の後ろにいたローワンが、エドガーとピップに向かって、深く頭を下げた。
エドガーはそれに、軽く頭を下げて返す。
ピップもアリシアに駆け寄ると、二人は互いに目を合わせて、笑いあった。
「今日、家に帰るの?」
「えぇ、そうなの」
「良かったね」
アリシアがにっこり笑って頷く。
彼女は持っていた小さな鞄から、リネンのハンカチと本を取り出し、ピップに手渡した。
「本は、貸すだけよ」
月明かりの下、ピップは本の表紙をなぞる。初代国王をモデルにした小説。
「読み終わる頃、絶対、会いに来るわ」
ピップは苦く笑う。
彼は続けて、リネンのハンカチを開いた。
“P.L.”の文字。それから淡紫の小花がたくさんの刺繍。
「うわぁ……。細かい刺繍。難しかったでしょ」
「……でも、前のより上手でしょ?」
「うん。これ、何の花?」
アリシアの頬がじわりと赤くなる。
「……秘密」
「え?」
「もっと上手になって、もっと素敵なハンカチを贈るわ」
ピップはゆっくり頷くと、二人でまた笑った。
「ピップ……またね」
「うん。アリー、またね」
彼女は背を向けて、ローワンのもとに駆けていった。
父娘は門のところで、また深く頭を下げると、並んで、待たせていた馬車に乗り込む。
ピップは本とハンカチを胸に、そっと抱いた。
そして、顔を上げ、門まで走り出した。
遠ざかる馬車の背。
それを、見送る。
馬車はやがて、霧に溶けていった。
ゆったりと歩いてきたエドガーはピップに並ぶと、その背にそっと触れる。
「帰ろう、ピップ」
ピップは顔をあげる。
「……はい」
背に触れる、いつもの温かい手。
エドガーは少しいたずらっぽく笑う。
「ピップはライラックの花言葉を知ってる?」
「……知りません」
「そう」
「この刺繍、ライラックですか?」
「さぁ、どうかな?」
エドガーが笑いながら先に歩き出し、ピップは慌ててその横に並んだ。
王都オルドンは、今日も、霧に包まれている。
だけど、霧に少しだけ霞んだ月は、美しくその夜を包み込んでいた。




