19 三日月の夜
外国人街の端、ガス灯の灯りが途切れる石畳の先に、それはあった。
ひっそりと建つ小さな石造りの建物。
ごく普通の邸宅のように、すました顔でそこに建っているのは、ガロウ商会の事務所だった。
窓から、橙の明かりが漏れ、揺れている。
その小さな裏門。
地面を這う霧が割かれ、黒塗りの馬車が音もなく停まった。
側面に刻まれた治安監察局の紋が月光を鈍く弾いている。
数人の隊員が、影のように降り立った。
「位置につけ」
アーサーの声が低く響く。
黒衣の隊員たちは、身を低くし、持ち場に散った。
「突入」
合図とともに、木製の扉が蹴り破られた。
監察局の部隊が雪崩れ込む。
「動くな! 治安監察局だ!」
アーサーの声が響いた。
中にいた商会の人間たちは悲鳴を上げ、逃げようとするが、すぐに隊員たちに取り押さえられていく。
アーサーは書棚を捜索している部隊に合流すると、隊員からいくつか書類を手渡された。
文字を素早く追い、紙をめくる。
「あぁ、やっぱり、ありましたね」
いくつもの偽造文書だけではない。
筆跡偽造のために収集された各家の執事や法務顧問の署名つきの書類。
その中に、ウォルフォード邸の執事、ベイカーのものも含まれていた。
「余さず全て持ち帰る! 書類も、人間もな!」
隊員たちの返事の声が上がる。
アーサーはちらりと窓の外を見た。
霧に滲んだ三日月。
黒い尖塔群は、ここからでは影にしか見えなかった。
彼は視線を外し、また、駆け出した。
ハートウェル区の大通りから一本外れた小道。
石畳に、ガス灯の明かりが青白くちらついていた。
その路地の奥にあるのは、
古い木造建物のバー《ハロウズ・エンド》。
磨き抜かれた深い色の木のカウンター。
そこに立つ元軍人のマスターは静かに、グラスを磨いていた。
深いモスグリーンの壁。
奥には革張りのソファ席が並ぶ。
その席の一つ。
やわらかく落とされた照明は、エドガーの手元を橙に染めていた。
彼の向かいに座るルシアンが、琥珀の液体の入ったグラスを掲げる。
「とりあえず、お疲れ様」
「ルシアンもお疲れ様」
エドガーは軽くグラスを持ち上げて返した。
氷が、カラン――と軽い音を立てる。
「今回の件も……やっぱり背後にいたと思うか?」
「彼?」
ルシアンの琥珀の瞳がエドガーを見ると、エドガーは小さく首を傾げた。
「いたと思う」
ルシアンはナッツを口に頬る。
「そうか。
……やっぱりあれか?
お前が以前新聞で声明文出しただろう?
だから、警戒されているのか?」
「あれほどの大物に警戒してもらえてるなら、光栄だね」
「お前……」
エドガーが肩をすくめると、ルシアンは眉を寄せて彼を見据えた。
エドガーは、グラスを小さく揺らすと、ふっと笑う。
「最後までやるって決めたんだ。ついてきてくれるだろう?
――僕の調査官は」
「そんな当たり前なこと今更聞くな」
目を合わせて、静かに笑い合う。
「ねぇ、ご一緒してもいいかしら?」
不意に、女性の声がかかる。
エドガーが顔を上げると、見事なジンジャーヘアの若い女が、断りもなく、彼にぴたりと体を寄せてソファに腰を下ろした。
透き通るほどの白い肌。
蠱惑的なドレス。
彼女は、エドガーに寄り掛かるようにしてその肩に触れる。
エドガーは彼女の空色の瞳を静かに見下ろすと、いつものように穏やかに笑んだ。
「申し訳ない。私たちは、仕事の話をしているんです」
「……もしかして、法務官様なの?」
女性が白い手を伸ばし、グラスを持つエドガーの手に触れようとした。
彼はスイッと手の位置を変える。
視線が絡み、女性は妖艶に笑んだ。
「エリートじゃない。素敵ね」
ルシアンは息を吐くと、呆れたように頭をかく。
「なぁ、聞いてたか?
俺達、仕事の話をしてるんだ。勘弁してくれ」
「そ。残念だわ」
彼女はゆったりと席を立つと、ルシアンとエドガーの瞳を交互に見つめた。
「きっとまた会えるわ。じゃあね、素敵な法務官様」
女性はひらりと手を振ると、ヒールの音を静かに鳴らして去っていく。
その背をルシアンは呆然と見送っていたが、エドガーは淡々とグラスに口をつけていた。
「もう一杯飲む?」
空になったグラスを振るエドガーに、ルシアンは軽く笑うと、彼も自分のグラスを空にする。
「あ、あぁ。そうだな、飲もう飲もう」
「アーサーが君と飲みたがってたよ」
ルシアンの眉がぐっと寄った。
「……それこそ勘弁してくれ」
きょとんとエドガーがルシアンを見ると、ルシアンは苦々しく首を振る。
「……アーサーって話しやすくていいやつだよね?」
「あいつは俺の前では筋肉とお前の話しかしない!
その上くそ真面目なんだよ。付き合ってられない」
「あっはは。そうだったんだ」
エドガーが声を立てて笑うと、ルシアンも笑った。
テーブルの上の燭台。
火が小さく揺れる。
高窓からわずかに覗く歪んだ三日月が、霧の街の夜を静かに見下ろしていた。




