18 尻尾切り
王立裁定院の別棟“お召しの棟”。
上級法務官の部屋が並ぶその廊下は、歩くたびに床を踏む音がくぐもって響いた。
床には上質な手織りの絨毯。
壁には、淡い深紅のタペストリーが掛けられている。
“上級法務官室 ― マルコム・ヘインズ”
そう書かれた金文字のプレートが取り付けられた深色の扉。
エドガーをそれをノックした。
「どうぞ」
すぐに声が返り、彼は中へと足を踏み入れる。
「エドガー、新しい案件だ」
大きな机に座ったエドガーの直属の上司であるマルコム・ヘインズ。
彼は、その丸みのある手をあげた。
彼の髪には、今日も見事に寝癖がついていた。
マルコムは、エドガーの上司であり、師でもある。
一目ではうだつが上がらない役人の男に見えるが、経験に裏打ちされた人を見る目と洞察力は、裁定院の中でも随一と謳われている。
招かれるようにしてエドガーが彼のそばまで進むと、書類束を手渡された。
素早く文字に目を走らせ、エドガーは眉をわずかに寄せる。
「……これは」
顔をあげると、マルコムは小さく頷いた。
「そう、またベルテン侯爵がウォルフォード卿を訴えてる。同内容だ」
「しかしこれは」
「そうだ。私もそう思う。
治安監察局もすでに捜査を進めている。
すぐに報告書は届くだろう」
「……そうですか」
「じゃ、任せたよ」
「はい」
エドガーが礼をすると、マルコムは口角を上げて笑った。
「今週末、どうだ?」
エドガーも書類を脇に抱えると、穏やかに笑む。
「またお邪魔してもよろしいですか?」
「あぁ、お前が食事を食べに来てくれると、妻も喜ぶ。ピップも連れてきなさい。
彼の好物は、なんだったか」
「りんごです」
「アップルパイを用意したら、喜ぶかな」
エドガーは、頬を綻ばせた。
「えぇ、とても喜ぶと思います」
「そうか。妻に伝えておこう」
マルコムが手をあげると、エドガーはもう一度礼をして、踵を返した。
開いたままの窓のカーテンは、風にゆったりと揺れていた。
彼の手元は、白く照らされている。
席につき、書類に視線を落としていたエドガーは、ふと、顔をあげた。
「よぉ、相棒」
相変わらずノックもせずに部屋に入ってきたルシアンは、調査書を軽く掲げる。
「やぁ、ルシアン。どうだった?」
「治安局の捜査にも立ち会ったが、かねがねお前の想像通りだろうな」
エドガーは立ち上がると、ルシアンから書類を受け取った。
窓辺に立ち、書類をめくる。
ルシアンは壁際に避けてあった椅子を引き寄せると、それに腰を下ろした。
「前回訴えられてから、ウォルフォード卿はインクを刷新してる。
かなり青みの強い特殊なインクに変えた。
治安局の捜査でくまなく邸宅内を探したが、それまで使用していたインクは全て処分されていた。
業者に引き取らせた記録までわざわざ残していた」
「うん。徹底してる」
エドガーがルシアンを見ると、ルシアンは頷く。
「さらに、ウォルフォード卿は代筆を一切禁止にしたんだ。
だから、ある時を境に、執事の文字で書かれた書類はほとんど存在しない」
「ほとんど……とは?」
「荷物の受け取りのサイン。その程度のもの」
「なるほど」
エドガーはルシアンの調査書類を机に置くと、別の書類を手に取った。
「僕からは、筆跡鑑定の結果を。
今回新たに訴えが出された“偽造文書”の筆跡も“執事のベイカーの筆跡を真似たもの”だった」
エドガーは腕を軽く組む。
「しかし、前回よりかなり雑だ。
以前の文書はベテラン筆跡鑑定士のマルブリー先生が悩むほどによく作られていた。
だが、今回の文書は、前回の文書の丸写しだった。署名には揺らぎがなく、完全に一致している」
エドガーは、小さく息を吐いた。
「つまり、すでに存在しないはずのインクで書かれた、代筆をしないはずの“執事の筆跡”による文書なんだ。
明らかに“ウォルフォード卿を嵌めるために作られた文書”だった」
群青の瞳が、わずかに細められる。
ルシアンも髪を乱暴にかき上げた。
「これはもう……」
「そうだね。
おそらく、ガロウ商会は足切りされたんだろう。
いきなり稚拙になったのは、貴族の情報を手に入れられるだけの立場の人間や、相当な偽造文書作製の腕を持つ人物が、商会から手を引いたんだ」
ルシアンは腕を組んだ。
「……やられたな」
「うん。やられた。
もう、ガロウ商会の背後にいた貴族との繋がりは切られているだろう」
エドガーが苦く笑うと、ルシアンもつられるように口端をゆがめる。
「だけど、ウォルフォード卿は冤罪だったと、これではっきり裁定できる。
ガロウ商会を抑えた後は、アリシア嬢も家に帰すことができるし、鑑定士のマルブリー先生にも、帰ってきていただける。
そう悪いことばかりじゃないだろう」
「そうだな。あまり長引かせずに済んで、良かったかもな」
「……うん」
エドガーは、筆跡鑑定結果の書類も机に置くと、静かに窓の外に視線を向けた。
「悔しいか?」
「……まぁね」
彼の青みがかった黒髪が、背で小さく揺れた。
ルシアンはそれを黙って見つめる。
大通りを馬車が通り過ぎた。
窓の向こうの王都は、やはり今日も、霧に包まれている。
ハートウェル区。
王立大学や研究所が並ぶ学院地区のバー〈古書と麦酒《ブック&エール》〉。
よく磨かれた木の扉を開けると、店内には紙の匂いが漂っていた。
壁一面に並んだ書架には、古書が惜しみなく詰め込まれている。
「エドガーさん」
大きめの木製テーブルとベルベットの布地のソファが並べられたボックス席。
そのひとつに腰を下ろしている男が手を上げた。
――アーサー・グレイ。
治安監察局の実務官である彼は、整った顔立ちに澄んだ灰色の瞳、きっちりとなでつけられた黒髪の男だった。若いが、治安監察局第六部を率いる現場指揮官でもある。
エドガーが向かいに座ると、アーサーは嬉しそうに目元を和らげる。
「珍しいね。飲みに誘ってくれるなんて」
「珍しいですかね?
度々お誘いしているつもりなんですが……。
それはともかく、特に今回はエドガーさんにどうしてもお会いしたくなってしまって」
エドガーはわずかに目を見開いた。
卓上の燭台の火が、柔らかく揺れる。
「僕に? 何か伝えたい重要な事柄でも?」
アーサーは苦く笑い、それから、小さく手をあげる。
「あぁ、いやいや。
この案件をみていたら昔を思い出してしまって。貴方と飲みたくなってしまっただけです」
「あぁ、そうだったんだ」
エドガーのもとに、注文しておいたウィスキーのグラスが届いた。
エドガーがそれを持ち上げると、アーサーは自分のグラスを小さく当てる。
「あの……騎士爵の方の案件ですが……」
アーサーは首元に手を添えて、ネクタイを少しだけ緩めた。
「私の事件を覚えていますか?」
「覚えているよ」
エドガーが目を細めて頷くと、彼も小さく頷いた。
「……私も、過去に嵌められました。
――常套手段なのでしょうね」
「そうだろうね」
「いやぁ、でもあの時のエドガーさんは格好良かったなぁ……」
うっとりと見つめてくるアーサーに、エドガーはため息をつく。
「……僕は仕事をしただけだよ」
「それが格好いいんですよ。
席を失うところでしたが、エドガーさんのおかげで私は今も働けている。ありがたいことです」
エドガーはグラスを口に運んだ。
「それで私はエドガーさんの信望者になったんですからね」
「全く……。僕はそんな大したもんじゃないよ」
アーサーが笑うと、エドガーもつられるようにして小さく笑う。
「今度ルシアンさんも誘ってくださいよ。
合同調査で会うたびに声をかけてるんですが、毎度断られるんです」
「ルシアンが断るの?
君、相当嫌われてるんじゃない?」
「そんなはっきり言わないでくださいよ」
「あはは」
卓上の燭台の明かりがゆらゆらと揺れ、グラスの中の氷が、カランと小さく鳴った。




