17 帰る場所
ピップは、大聖堂へと続く石畳をそれて芝を踏んだ。
昼下がり、彼はいつものように女性寄宿区へと向かっていた。
庭園の花壇に咲く花。
ゆったりと風に揺れ、ほのかに甘い香りが舞う。
それを見ながら歩いていた。
だから――気づくのが遅れた。
「あれ……? 君は」
声を掛けられ、ピップが顔をあげる。
途端、彼は目を見開き、肩を震わせた。
ピップの目の前には、白い長衣を着た――ファーザー・エリオット。
変わらぬ優しげな瞳。
少し猫背な立ち姿。
ファーザー・エリオットが手を伸ばしかけ、ピップは背を向けて駆け出した。
「あ……君!」
司祭の声を無視し、ピップはがむしゃらに駆けた。肩に掛けた鞄の中の荷がぶつかり合い、音を鳴らしている。
広い庭園を、彼はとにかく駆けた。
やがて、女性寄宿区の建物の影に入ると、ピップは壁にもたれるようにして座り込んだ。
深呼吸を繰り返し、呼吸を整える。
胸に手を当てた。
未だに心臓はうるさく脈を打っている。
しばらくそのまま、地面の芝を見つめていた。
背に触れた石壁は冷たい。
空を流れる雲は、いつもよりも早かった。
唇を噛む。
「……どうして、俺は……」
つぶやきは、春の風にさらわれていった。
ピップが部屋を訪れると、アリシアは変わらずに満面の笑みで彼を迎えた。
挨拶を交わし合い、ピップは慣れた足取りで机に向かうと、鞄から本を出した。
そのかわりに机に置かれた読み終わった本をしまっていく。
アリシアは椅子に座ってピップをにこにこと眺めていた。
ピップが顔をあげる。
「髪……今日もやる?」
「うん!」
鉄格子のはまった窓から差し込む明かりは、霧に濾され、今日もどこか鈍くて白かった。
ピップはアリシアから櫛とリボンを受け取ると、彼女の背後に立ち、丁寧に髪を櫛っていく。
「うーん……。編み込みって難しい」
「編み込みに挑戦してるの?」
「アリシア嬢の刺繍と、どちらが先に得意になるか、勝負するんでしょ?」
「うふふ。そうよ。そうだったわ」
アリシアはくすくすと楽しそうに笑っていた。ピップの指からは、するりと髪が一束逃げる。
「髪が細いからやりにくいのかも」
「あら、私のせい?」
「いや……そういうわけでは……」
「あははは」
アリシアが声を上げて笑うと、ピップもつい、つられてしまう。
「ふふっ。あはは」
アリシアは、ふいにぱっと振り返った。
ピップは驚いて髪から手を離す。
彼女のヘーゼルと、ピップの栗色の瞳が交わると、アリシアはゆっくりと視線をそらした。
「何……?」
「あ。……いえ……。
……ピップさんが、笑ってるところが見たかったの」
「え……」
再び向こうを向いたアリシアの耳が赤い。
「ピップさんに、髪をいじってもらうのは、嬉しいわ。
……でも」
「でも?」
「ううん。なんでもない」
ピップは首を傾げると、再び悪戦苦闘しながらアリシアの髪を編み込んでいった。
「……やっぱり編み込みは難しい」
「……ふふ」
髪を整え終わり、ピップが櫛を机に置く。アリシアは椅子から降りると引き出しを静かに開けた。
「あの……あのね、ピップさん」
「うん」
アリシアはピップに向き合い、俯く。
「これ……」
「これ?」
彼女がピップに差し出したのは、白いリネンのハンカチ。
「あげる」
「俺に?」
アリシアは頷く。
ピップはそれを受け取ると、ハンカチを開いた。
「こ……これ!」
スミレの花の刺繍と、“P.L.”の文字。
花びらの形は少し歪で、茎もまっすぐではない。
それでも、紫の糸で刺されたその小さなスミレは、丁寧に、大切に縫われたことが伝わってくるものだった。
「……やっぱり下手くそなの」
アリシアは俯いたまま、自分の指先をいじる。
ピップが栗色の瞳を輝かせてアリシアの顔を覗き込こむと、アリシアはゆっくりと顔をあげた。
「すごく……すごく嬉しいよ!」
「……喜んでくれる?」
「もちろんだよ!」
ピップが大きく頷くのを見て、アリシアは頬を真っ赤にしながら笑う。
――あ……。
ピップも頬を染めて、視線を下げた。
――俺、この子のこと……。
――でも……俺は……。
ピップは、瞳を伏せた。
裁定院。
エドガーの法務官室。
外は夜の貌をなし、ガス灯が橙の明かりを纏っていた。
ピップは窓を閉める。
部屋の明かりはすでに、落としてあった。
彼は、手の甲で目元を拭った。
それでも、窓の縁に置いた手に、また涙が落ちて触れた。
鼻をすすった。
止めようと思えば思うほど、涙が瞳にあふれてくる。
その時、扉の軋む音。
ハッとしてピップがそちらを向くと、書類を抱えたエドガーが戻ってきたところだった。
「あ……」
ピップは咄嗟にその場に座り込み、顔を手で覆う。
エドガーは机に書類をバサリと置くと、ピップに駆け寄り、彼の前に膝をついた。
「……ピップ」
「ごめんなさい」
ピップは顔を覆ったまま、首を振る。
エドガーは眉を寄せた。
「なぜ謝る」
「仕事中に……こんな……」
ピップの声がしゃくり上がった。
エドガーはそっと腕を伸ばし、ピップを抱きしめる。
「……ピップ、今日はうちに来なさい」
「……でも」
「ピップ」
「……はい」
静かにピップの背をさするその手は、相変わらず温かかった。
エドガーの下宿先。
テーブルにはオイルランプが灯り、エドガーとピップの二人は、それぞれ一人がけソファに座っていた。
橙の明かりが壁でゆらゆらと揺れている。
暖炉には火が入らず、それは静かに黙していた。
ピップの手の中のカップからは、白い湯気が立ち上っている。
「……ピップ。話せるかな?」
いつもよりも、静かでやわらかい声。
ピップが顔をあげる。
エドガーは目を細め、少し前かがみになってピップの顔を覗き込むようにしていた。
その横顔は橙の明かりに照らされ、金色が静かに縁取っている。
ピップは俯くと、カップをテーブルに置いて立ち上がった。
コトリ――小さな音が鳴る。
座っているエドガーの前に立つと、床に両膝をついた。
「……エドガーさん。
俺を見捨てないで」
エドガーを見上げるピップの瞳からは、一筋、涙が溢れた。
一粒落ちると、それは後から後から溢れてくる。
「エドガーさん……俺、もっと頑張るから……」
「……ピップ、どういうこと?」
エドガーが手を伸ばして彼の肩に触れると、ピップはエドガーの膝に縋り付くようにして泣き出した。
「ごめんなさい……。
仕事中に泣くなんて最低だ……。
でも、俺、ここにいたいんだ」
嗚咽混じりの声。
「ピップ。
僕は君を見捨てたりなんかしない」
ピップの肩は、細かく震えていた。
「俺……どこまで行っても、貧民なんだ。
どれだけ頑張っても、消えないんだ。
でも……」
エドガーは、そっとその髪を撫でる。
「……エドガーさんのそばに、いたいよ」
顔をあげたピップの顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
「でも……俺なんか……本当はいちゃいけないんだ」
ピップの視線が下がる。
「エドガーさんに拾ってもらえただけで、幸運なはずなのに……
俺………」
エドガーはそっと、彼の両肩を掴んだ。
「ピップ、聞いて」
真っ直ぐにその瞳を見つめる。
「僕は……君を見捨てない」
ピップの頬を涙が伝った。
「君は、幸運を享受していいんだ。
それを責める人はいない」
群青の瞳に、ランプの明かりが差し込む。
「君が選んだ道を、僕は支えると決めているんだ。
君が僕のそばにいたいというなら、一生涯そばにいていい。
僕はそれを拒絶しないし、その場所を守るよ」
エドガーはソファから降りると、彼もピップの前に膝をついた。
「幸せになるんだ、ピップ」
エドガーに強く抱き寄せられ、止まりかけた涙がまた、こぼれ落ちていく。
「幸せになっていいんだよ。ピップ」
ピップは、声を上げて泣いた。
幼い子どもみたいに、大声で。
エドガーに縋るようにしながら。
エドガーはその背を、静かにトントンと叩き続けた。
彼が疲れて眠ってしまうまで。
窓の向こう。
馬車が通り過ぎる。
カーテンを透かしたわずかな月光が、部屋に静かに横たわっていた。




