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歪んだ三日月 ―法務官エドガー・レイブンズと王都に棲む蛇―   作者: かも ねぎ
第一章 青の三日月 ―名を持たぬ少年の初恋―
15/67

15 見守る者たち


「あ、おはようございます!

 エドガーさん」


 朝、エドガーが出勤してくると、いつものようにピップが法務官室で彼を迎える。


 今日も、そうだった。


「おはよう、ピップ」


 エドガーはピップに淡く笑んでから、扉脇に帽子を掛け、杖を立てかけ、フロックコートを掛けた。

 そして法務官机に向かう。


 いつもなら――

 そのくるくるした前髪を跳ねさせながら、ピップはエドガーに駆け寄る。


 だが今日は、ピップは視線を下げたまま書類を整理していた。

 彼の表情は朗らか。

 背筋も伸び、顔色も悪くない。


 エドガーは、すれ違いざまにその頭に手をそっと置いた。

 ピップは顔をあげ、にこっと笑う。


「ピップ、アリシア嬢はどうだった?

 寄宿区の生活にも、慣れてきたかな」


 栗色の瞳がわずかに下がった。


「はじめの頃よりは、慣れてきたみたいです。

 騎士物語は、やっぱり喜んでいました」

「そうか。良かった」


 エドガーは席につくと、書簡をひとつずつ確認していく。


「ピップ」

「はい」


 ピップはメモと鉛筆をポケットから取り出した。


「今日は資料の返却がたくさんある。午前中のうちに回ってきて欲しい。頼んだよ。

 午後はいつも通りアリシア嬢の話し相手をしてあげて」

「……はい」

「就業後は、うちにおいで」

 

 ピップが顔を上げる。


「今日は官舎に……」

「僕が君と食事したい気分なんだ。来てくれるかい?」

 

 エドガーが柔らかく目を細めてそう言うと、ピップはぱっと頬を染めた。そして嬉しそうに笑う。


「はい! じゃあ、お邪魔します!」

 

 エドガーは小さく頷くと、静かに書類に視線を落とした。





「よぉ、ピップ」


 王立裁定院の中庭。

 ベンチに座ったピップがサンドイッチを頬張りながら顔をあげると、制服の襟を緩めながら歩くルシアンがいた。


「兄貴!」

「今日は一段と暖かいな」


 ピップの隣にルシアンが腰掛ける。


 中庭の中央では、小さな噴水がちょろちょろと音を立てて水を落としていた。

 白い蝶がふわりと二人の前を通り過ぎていく。


「ミストラッツのみんなは元気?」


 ルシアンも紙包みからミートパイを取り出すと、大口を開けて頬張った。

 瓶のエールを煽る。


「おう。ついこの間も大活躍だ。

 頼りになる連中だよ」

「良かった!」


 ピップが頬を緩めると、ルシアンもつられるように口角を上げる。


 淡い霧がかかる青空は、今日も少しだけ白に滲んでいた。


「あー……、アリシア嬢はどうだ?」

「まぁ……慣れてきたみたい」

「ふぅん」


 中庭では、法務官や書記官たちが本を読んだり、散歩していたりと思い思いに過ごしていた。

 話し声は少ない。

 

 水の流れる音と、向こうの通りを走る馬車の音だけが聞こえてくる。

 

「あの大聖堂はな……」

「……うん。

 でも、彼女は前向きだよ。本の感想の言い合いっこをしてるんだ」

「へぇ」


 背もたれにルシアンが腕を置くと、ピップが彼の方を向いた。


「お前は……元気にしてるのか?」

「え? 俺とは裁定院でもよく顔を合わせてるでしょ?」


 ルシアンの琥珀の瞳が柔らかく細められる。


「……元気か?」


 ピップは眉を下げて、俯いた。


「……うん」

「そうか。無理すんなよ」

「無理なんか……」

「ミートパイとエールはやっぱりうまい」

「……良かったね。兄貴はそれ好きだよね」


 ルシアンがからっと笑うと、ピップもつられるように声を立てて笑った。


 



 中庭での食事を終えたルシアンがエドガーの法務官室に向かうと、彼は既に席につき、書類と向き合っていた。


「よぉ、エドガー。ちゃんと飯は食ったのか」

「やぁ、ルシアン。……食べたよ」


 ルシアンはエドガーが仕事をしているその机に軽く腰掛ける。


「なぁ……」

「何?」


 エドガーが顔をあげると、ルシアンは腕を組んだまま天井を見上げていた。


「お前は……ピップをどうするつもりなんだ?」

「どうって?」


 手を止め、机の上で指を組む。


「一生お前の下働きみたいなことをさせるのか?」

「それは、ピップが決めることだよ」


 ルシアンが振り返る。

 

「つまり?」

「ピップがそうしたいなら、そうさせる」

「え」


 エドガーはまっすぐにルシアンを見、ルシアンは少しだけ眉を寄せた。


「もしピップが、治安局の捜査官になりたいって言ったら?」

「推薦状を書くよ。知り合いも多いし、ピップならうまくやれるんじゃないかな」


 エドガーはインク壺にペン先を浸し、また書類に向き合う。


「もし……調査官になりたいって言ったら?」

「治安局よりも狭き門だけど、僕と上級法務官であるマルコム卿の推薦があれば、夢ではない」


 ルシアンは顎に手を添えた。

 エドガーの指先は、迷わずに文字を綴っている。


「……法務官になりたいって言ったらどうする?」

「……前代未聞だよね。孤児出身の法務官は。まずは推薦状を書くかな。大学にも行かせた方がいいかもしれない。

 それから――」

「あぁ、それ以上はいい。

 お前がちゃんと考えてやってるのか、気になっただけだ」


 書類を書き終えると、エドガーは印章を押し、乾くのを待った。


「ピップがどんな道を選ぼうと、僕は生涯彼を支えるつもりでいる」


 ルシアンは小さく息を吐く。


「そうか。お前らしいな」

「……そう?」

「あぁ。そういうところだけは、貴族的だ」

「“そういうところだけ”?」

「そうだ」

 

 エドガーは何か言おうとして口を開けたが、結局そのまま口を閉じた。

 書いていた書類をまとめると、脇に置く。

 そしてルシアンに向かって手を差し出した。


「何だ?」


 ルシアンはきょとんとエドガーの手のひらを見つめる。

 

「報告書は?

 雑談しに来たの?」


 ルシアンは苦く笑うと、黒革の書類フォルダから取り出した調査書をエドガーの手にのせた。

 

「今度飲みに行こうぜ」

「いいよ」

「今夜は?」

「先約がある」

「あ、そう」


 ルシアンは立ち上がると、ジャケットの裾を引いて整える。


「ま、お前のことだ。俺なんかよりよっぽどピップのことは見えているんだろうな」

「そんなことはないよ」


 エドガーが顔をあげる。

 ルシアンが振り返ると、群青と琥珀がまっすぐに交わった。


「気にかけてくれてありがとう。

 心強いよ」


 エドガーは柔らかく目を細める。

 ルシアンはかすかに目を見開くと、エドガーに背を向けた。髪を乱暴にかきあげる。


「じゃ、俺は調査に戻るわ」

「何、照れてるの?」

「うるさいな」


 エドガーが笑うと、ルシアンも小さく笑った。ルシアンは手を上げて、法務官室を出ていく。


 その後姿を、エドガーは静かに見送った。



 

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