第9話 黄昏のスイートピー
風が祠の周囲を吹き抜け、木々の葉がかすかな音を立てた。
見上げた空には、まだ昇りきらない月が滲んでいる。夕暮れの名残を帯びた薄青い空は、昼とも夜ともつかない曖昧な色をしていた。
その下に立つグレースもまた、どこか現実から切り離された存在のように見えた。
少し前までなら、俺の姿を見つけた途端に顔を強張らせ、近づくなと言い放っていたはずだ。けれど今の彼女は、逃げようとも、俺を追い払おうともしない。
ただ静かにこちらを見つめている。
それが、どうしようもなく恐ろしかった。
「……どうして、ここに」
ようやく声をかけると、グレースは一度だけ睫毛を伏せた。
返事を待つ間にも、胸の奥で嫌な予感が膨らんでいく。祠に満ちた冷たい魔力のせいなのか、それとも目の前の彼女があまりにも弱々しく見えるからなのか、自分でも分からなかった。
「……お願いがあるの」
やがて返ってきたのは、驚くほど穏やかな声だった。
いつもの棘も、俺を遠ざけようとする強さもない。その静けさが、かえって彼女の決意を物語っているように思えた。
「お願い?」
聞き返すと、グレースは祠の奥へ視線を向けた。
そこには、学園の裏手へと続く細い小道がある。普段は生徒がほとんど通らない道だが、その先を見た瞬間、頭の奥に何かが引っかかった。
初めて見る場所ではないような気がする。
そう思った理由を探るより早く、グレースが口を開いた。
「あそこに行きたいの。あなたとの……思い出の場所」
思い出。
その言葉に、胸が鈍く跳ねた。
俺とグレースの間に、そんな場所があったのか。
以前なら、馬鹿なことを言うなと一蹴していたかもしれない。だが今は、机の引き出しにしまったハンカチも、三日月の刺繍も、幼い頃に交わした約束の声も知っている。
彼女の言葉を否定できるだけの確信は、もうどこにもなかった。
「……今、そんな状態じゃないだろ」
思わず彼女の顔を見つめる。
青白い頬に、かすかな疲労の色が滲んでいた。ここへ来るだけでも無理をしているはずなのに、さらに歩こうというのか。
けれどグレースは、小さく首を横に振った。
「今じゃないと、だめなの」
その言葉を聞いた途端、喉の奥が詰まった。
なぜ今でなければならないのか。どこへ行こうとしているのか。聞きたいことはいくらでもあったが、彼女の表情を見ていると、問い詰めることさえ躊躇われた。
しばらくの沈黙の後、俺は小道へ目を向けた。
「……分かった。行こう」
グレースがわずかに目を見開く。
それから、ほっとしたように小さく息を吐いた。
その反応を見て、胸の奥がまた痛んだ。
たったそれだけの願いを聞き入れてもらうことさえ、彼女は諦めかけていたのだろうか。
◇
中庭を抜け、人気のない小道へと入る。
足元の石畳はほどなく途切れ、柔らかな土へと変わった。木々の間から差し込む夕暮れの光が、細い道に長い影を落としている。
グレースは俺の少し前を歩いていた。
その足取りは頼りなく、時折、身体がわずかに傾く。手を伸ばせば支えられる距離にいるのに、あの日の「触らないで」という声が思い出され、どうしても腕を取ることができなかった。
代わりに、彼女が歩く速さに合わせて後を追う。
何度か声をかけようとしたが、グレースは一度も足を止めなかった。
まるで、あの場所へ辿り着くことだけを支えにしているようだった。
やがて木々が途切れ、視界が開ける。
「……ここ、か」
目の前に現れたのは、小さな丘だった。
なだらかな斜面には薄紫のスイートピーが広がり、夕暮れの残光を受けて、風の中で静かに揺れている。
花々の間を抜けてきた甘い香りが鼻先をかすめた瞬間、胸の奥がひどくざわついた。
知っている。
この香りを、俺は知っている。
ハンカチに残っていたものと同じ、懐かしい花の香りだった。
グレースはゆっくりと丘へ足を踏み入れた。細い足首に触れるように花が揺れ、彼女が通り過ぎた後も、風に合わせて小さく波打っている。
その姿を見ているうちに、初めて訪れたはずの場所が、ひどく懐かしく思えてきた。
花の色も、風の匂いも、隣に銀髪の少女がいる光景も。
ずっと昔に、同じものを見たことがある気がする。
グレースは一輪のスイートピーの前で立ち止まり、壊れものを扱うように、その花弁へ指先を添えた。
「……覚えてる?」
振り返らないまま、彼女が尋ねる。
俺はすぐに答えられなかった。
覚えている、と言いたかった。だが、何を覚えているのかが分からない。
この丘へ来たことがあるのか。彼女と並んで花を眺めたことがあるのか。
記憶の奥に確かに何かがあるのに、手を伸ばせば届くというところで、いつも霧に隠されてしまう。
「……分からない」
ようやく答えると、グレースの指先がわずかに止まった。
それでも彼女は振り返らず、花に触れたまま、小さく頷いた。
「……そう」
責めるでも、落胆を見せるでもない返事だった。
そのことが、かえって胸に刺さる。
何か言わなければと思ったとき、丘を渡る風が少し強くなった。スイートピーが一斉に揺れ、花の擦れ合う音が耳に届く。
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
『……ここ、好き』
幼い少女の声だった。
夕焼けの中、花に囲まれて立つ小さな影が見える。
『また来るの?』
『来る』
即答したのは、自分の声だ。
『来なくていいって言ってるでしょ』
『じゃあ毎日来る』
『……勝手にしなさい』
呆れたようなため息の後に、小さな笑い声が聞こえた。
突き放すような言葉とは裏腹に、その声はどこか嬉しそうだった。
「……っ」
息を呑み、思わず額に手を当てる。
今のは、何だ。
知らないはずの会話なのに、返した言葉が自分のものだと分かる。少女がどんな顔をしていたのかまでは見えなかったが、その声を聞いていた自分が、ひどく幸せだったことだけは伝わってきた。
ゆっくりと顔を上げる。
グレースは、こちらを見ていた。
その唇に浮かんだのは、いつもの冷たい笑みではなかった。
泣き出しそうなほど優しく、どこか懐かしむような微笑みだった。
その表情を見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられる。
——知っている。
昔も、こんなふうに笑っていたのではないか。
花に囲まれた夕暮れの中で、呆れたようにため息をつきながら、それでも少しだけ嬉しそうに。
思い出せないことが、こんなにも苦しい。
「……グレース、俺は——」
言いかけたところで、彼女が小さく首を振った。
何も言わなくていいと告げるような、静かな仕草だった。
そして、もう一度だけ花々へ視線を落とす。
風が吹くたびに薄紫の花が揺れ、黄昏の光が彼女の銀髪を淡く染めていた。
その輪郭が、ふいに滲んだ。
目を凝らす。
風に髪が揺れただけだと思いたかった。だが、月明かりが差し始めたその場所で、彼女の姿は薄い膜を隔てた向こう側にあるように見えた。
祠で感じた、世界から切り離されたような冷たさが蘇る。
何かがおかしい。
そう思っても、何がおかしいのかを説明する言葉が見つからない。
ただ、目の前のグレースとこうしていられる時間が、もう長くないのではないか。
そんな予感だけが、どうしようもなく胸を締めつけていた。




