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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない  作者: はな
第一部:忘却の王太子

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第9話 記憶の残滓



 あの日から、頭の奥がずっと静かじゃない。

 何かが、ひび割れるみたいに軋み続けている。


 ——そして、その中心にはいつも、グレース・アシュフォードがいた。



 ハンカチは、まだ返せていない。


 引き出しにしまったはずなのに、気づけばまた手に取っている。

 指先に触れるたび、あの冷たい感触と、かすかに残る花の香りが蘇るからだ。


 ——返すだけだ。


 たったそれだけのことが、どうしてこんなにもできない。


「……ちっ」


 小さく舌打ちして、乱暴に引き出しを閉める。


 だが、閉まりきる直前のわずかな隙間から、白い布の端が、妙に目についた。


 ——閉じたはずなのに。


 考えるな。関わるな。

 そう決めたはずなのに。


 授業中でさえ、ふとした瞬間に意識が引きずられる。


 銀色の髪。冷たい瞳。

 そして——泣きそうに歪んだ、あの表情。


 思い出すたびに、胸の奥がひどくざわついた。


 それだけじゃない。


 頭の奥に、断片的に差し込まれる“知らない記憶”。


 暗い通路と、ひんやりとした空気の、その先で——


『動かないで』


 冷たい声がして振り向いた先にいた、知らないはずの少女。


 けれど——その瞳を、知っている気がした。


 夕焼けに染まった空。

 子供の頃の、自分より少し低い視線。


『……また明日ね』

『ああ、約束だ。指切り、しよう』


「……っ」


 思考を遮るように、こめかみを押さえる。


 知らないはずの光景と、知らないはずの声。

 なのに、どうしてこんなにも——懐かしい。


 胸の奥が、締め付けられるように痛んだ。



 グレースの様子は、日を追うごとに目に見えて悪くなっていった。


 廊下ですれ違うたびに、その顔色は白を通り越して青く、まるで血の気を失った人形のように見える。

 時折、立ち止まって息を整えている姿も、嫌でも視界に入った。


 ——見て見ぬふりをしろ。


 そう思うのに、視線は勝手に彼女を追ってしまう。


 昼休み、人気の少ない回廊でも。


「……っ、げほ……」


 壁に手をつき、小さく咳き込むその背中を見つけた瞬間、胸の奥が強く軋んだ。


 白く細い指先が、石造りの壁を掴むように強く食い込んでいる。

 陽の光に透けたその指先が、一瞬だけ向こう側の景色と重なった気がした。


 背筋が冷える。

 考えるより先に、足が動いていた。


「……おい」


 呼びかけると、びくりと肩が揺れる。


 ゆっくりと振り返ったその顔は、もう隠しようもないほど限界に近かった。


「……来ないで」


 掠れた声だった。

 それでも、拒絶だけははっきりとしている。


「……大丈夫な顔に見えない」

「関係ないでしょ……っ」


 強がるように言い返した直後、彼女の膝がかすかに崩れる。


「——っ」


 反射的に手を伸ばした。


 だが——


「触らないで!」


 鋭く振り払われる。

 その瞬間、ぶつり、と頭の奥で何かが音を立てて切れた。


 ——『来ないで』


 違う。

 今の声じゃない。


 もっと幼い、けれど必死な声。


 ——『ここは、あなたが来ていい場所じゃない』


 頭の奥で、何かが軋む。


「……っ、あ……!」


 激しい頭痛が思考を貫く。

 視界がぐらりと揺れ、膝がわずかに折れた。


 グレースは、恐怖に歪んだ顔で一歩下がる。


「……お願いだから……これ以上、私に関わらないで……」


 その声にあったのは、怒りでも拒絶でもない。


 ——ただの、懇願だった。


 それ以上、言葉が出てこなかった。


 立ち尽くすことしかできないまま、彼女は逃げるように背を向け、その場を去っていく。


 引き止めることも、追いかけることもできなかった。



 その日の放課後。


 ——落ち着かない。


 胸の奥で、何かがずっとざわついている。

 理由なんて分からない。


 ただ、このまま何もしなければ、取り返しのつかないことになる。

 そんな確信だけが、根拠もなく胸に居座っていた。


「……なんなんだよ……」


 自嘲するように呟く。

 気づけば、空はもう群青に沈んでいた。


 校舎を出ると、夜気がゆっくりと肌を撫でる。


 行き先は——中庭だった。


 昼間とは違い、人の気配は一切ない。

 静まり返った空間に、かすかに漂う魔力の流れだけが感じ取れた。


 中央に据えられた、古びた石造りの祠。


 学園の生徒なら誰でも知っている、魔力を安定させるための場所だ。


 本来なら、こんな時間に足を運ぶ理由などないはずだった。


 それでも——ここに来なければならない気がした。


 祠へと近づいたそのとき、夜気とは異なる、もっと根源的な冷たさが肌を刺した。

 まるで、この場所だけが世界から切り離されているかのような違和感がある。


 思わず、息を呑む。


「……誰だ」


 反射的に視線を向ける。


 そこに立っていたのは——


 月明かりに照らされる、銀色の髪。

 そして、今にも消えてしまいそうなほど、儚く立つグレースの姿だった。


 彼女はゆっくりとこちらを振り返る。


 その頬を、一筋の光が伝っていた。

 涙なのか、それとも溢れた魔力なのかは分からない。


 ただひとつ言えるのは——


 その瞳が、これまで見たことのないほど静かで。

 どこか、すべてを受け入れたような覚悟の色を宿していた。


 ——まるで、もう二度とここへ戻ってこないと決めているみたいに。



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