↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない〜忘れているはずなのに、いつだって君だけが特別だった〜  作者: はな
第一部:忘却の王太子

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/53

第10話 その名前を呼ぶまで



 丘を渡る風に、薄紫のスイートピーが一斉に揺れた。


 月が少しずつ高くなり、夕暮れの名残を残していた空も、いつの間にか深い青へと変わり始めている。


 その花々の中に立つグレースから、俺は目を離せずにいた。


 先ほど脳裏に蘇った幼い頃の会話が、まだ耳の奥に残っている。


『じゃあ毎日来る』


 あれは間違いなく、自分の声だった。


 来なくていいと言われても、また来ると答えた。彼女が呆れたようにため息をつきながら、少しだけ嬉しそうに笑ったことまで、今なら思い出せる気がした。


「……ここ、よく来てたの」


 グレースが花々を見つめたまま、ぽつりと呟いた。


「……ひとりで?」


 何気なく尋ねたつもりだったが、口にした途端、胸の奥に違和感が生まれた。


 ひとりのはずがない。


 理由も分からないのに、そう思った。


 グレースは小さく首を横に振る。


「違うわ」


 それ以上は何も言わなかったが、彼女の返事を聞いた瞬間、先ほどの幼い声がまた胸の奥で響いた。


 毎日来ると言い張った少年。


 その相手は、誰だったのか。


 目の前に答えがあるような気がするのに、確かめるのが怖かった。


「……風、強いな」


 結局、口にできたのはそんな言葉だった。


 グレースは少しだけ目を細め、揺れる花々へ視線を戻した。


「そうね。いつも、こうだった」


 いつも。


 その一言に引かれるように、足元の斜面を見つめる。


 風に押された花が波打ち、柔らかな土の上を細い影が走っていく。その光景を見ているうちに、ふと、小さな少女が斜面を駆け上がる姿が浮かんだ。


「……転んでたな、お前」


 考えるより先に、言葉が出ていた。


 自分で驚いて顔を上げる。


 いつ、どこで見た光景なのか分からない。けれど、少女が足を滑らせたことも、転んだくせに笑っていたことも、なぜか知っている気がした。


 グレースは否定しなかった。


「……そうね。よく見てたのね」


 懐かしむような声音に、胸が強く締めつけられる。


「笑ってたな。転んでるくせに」


 もう一度そう言うと、彼女はふっと息をこぼした。


「だって……楽しかったもの」


 その笑い方を、知っている。


 そう思った瞬間、先ほどまで曖昧だった光景が、ほんの少しだけ鮮明になった。


 夕暮れに染まる丘で、花の間に座り込んだ少女がこちらを見上げている。差し出した手を取る代わりに何か言い返してきて、俺は呆れながらも、結局その場を離れられなかった。


 何を話したのかは思い出せない。


 それでも、あの時間が楽しかったことだけは分かった。


 目の前のグレースは、そんな俺の様子を静かに見つめていた。


 その眼差しがあまりにも優しくて、かえって苦しくなる。


「……何か、忘れてる気がする」


 ようやく口にすると、彼女はそっと目を伏せた。


「……そうね」


 否定しない。


 けれど、何を忘れているのかも教えてくれない。


「だったら、教えてくれよ。俺はここで、お前と何を——」


「それでいいの」


 言い終える前に、グレースが静かに遮った。


 彼女はゆっくりと振り返り、真っ直ぐに俺を見つめる。


「楽しかったことだけ、覚えていれば」


 穏やかな声だった。


 だが、その言葉を聞いた途端、胸の奥が冷たくなった。


 楽しかったことだけでいいはずがない。


 忘れているのなら、思い出したい。あの頃、彼女と何を話して、どんな約束を交わしたのか。なぜ今になって、その記憶が戻り始めているのか。


 何より、どうしてグレースは、俺が思い出すことを恐れているのか。


「……お前は、それでいいのかよ」


 問いかけても、彼女は答えなかった。


 ただ、困ったように微笑む。


 その表情を見ているうちに、言葉が喉の奥で止まった。


 きっと彼女は、何度も同じことを自分に言い聞かせてきたのだろう。楽しかったことだけでいいのだと。俺が何も思い出さなくても、それで構わないのだと。


 そう考えると、どうしようもなく腹が立った。


 彼女にではない。


 何も知らず、何も覚えていないまま、ここまで来てしまった自分にだ。


 風が吹き抜け、グレースの銀髪がふわりと揺れた。


 月明かりを受けたその輪郭が、再び薄く滲む。


 今度は、見間違いだと思えなかった。


 髪の先も、肩の線も、夜の空気に溶け込むように揺らいでいる。


「……おい」


 思わず声をかける。


 グレースは何事もないようにこちらを見ていたが、その姿は、ほんの少し目を離しただけで消えてしまいそうだった。


 背筋に冷たいものが走る。


 何かが失われようとしている。


 それが何なのか分からなくても、取り返しのつかないことが起き始めているのだと、身体の奥が告げていた。


「……グレース」


 気づけば、彼女の名前を呼んでいた。


 これまでも何度か口にしたはずの名前なのに、そのときは不思議なほど胸が震えた。


 ただ呼び止めるためではない。


 目の前にいる彼女に、どうしてもこちらを向いてほしかった。まだここにいるのだと、確かめたかった。


 グレースは、わずかに目を見開いた。


 驚いたように俺を見つめ、それから、泣きそうなほど柔らかく笑った。


「……やっと、呼んでくれた」


 その声に、息が止まる。


 責められたわけではなかった。


 ただ、ずっと待っていたものがようやく届いたのだと告げるような、ひどく穏やかな声だった。


 俺は何も言えずに立ち尽くした。


 名前なら、今までも呼んできた。


 それなのに、彼女が待っていたのは、きっとそういうことではないのだろう。


 もう一度、その名を呼ぼうとした。


 けれど、声になるより早く、頭の奥で眩い光が弾けた。


「……っ!」


 視界が大きく揺れ、反射的に額を押さえる。


 月明かりに照らされた夜が見えた。


 小さな手を、離れないように握っている。重なった指先から伝わる温もりと、すぐ傍で聞こえる幼い声。


『絶対に、また来る』

『……ほんとに?』

『約束する』


 あの夕焼けの下で交わした「また明日」とは違う、もう一つの約束。


 けれど、どちらも同じ少女に向けた言葉なのだと、今度は分かった。


 忘れていたはずの温もりが、痛いほど鮮明に蘇る。


 彼女の手を握っていた。


 離さないと、約束した。


 そのときの自分が、どれほど真剣だったのかまで、胸の奥に流れ込んでくる。


「……あ……」


 喉が震えた。


 断片だった光景が、少しずつ繋がり始めている。


 まだすべてを思い出したわけではない。けれど、目の前のグレースが、ただの幼馴染でも、俺を嫌う公爵令嬢でもないことだけは、もう否定できなかった。


 俺はこの手を知っている。


 この声を、この笑顔を、ずっと昔から知っている。


 失くしたと思っていた記憶が、胸の奥で静かに目を覚まし始めていた。



読んでいただきありがとうございます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。