第10話 その名前を呼ぶまで
丘を渡る風に、薄紫のスイートピーが一斉に揺れた。
月が少しずつ高くなり、夕暮れの名残を残していた空も、いつの間にか深い青へと変わり始めている。
その花々の中に立つグレースから、俺は目を離せずにいた。
先ほど脳裏に蘇った幼い頃の会話が、まだ耳の奥に残っている。
『じゃあ毎日来る』
あれは間違いなく、自分の声だった。
来なくていいと言われても、また来ると答えた。彼女が呆れたようにため息をつきながら、少しだけ嬉しそうに笑ったことまで、今なら思い出せる気がした。
「……ここ、よく来てたの」
グレースが花々を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……ひとりで?」
何気なく尋ねたつもりだったが、口にした途端、胸の奥に違和感が生まれた。
ひとりのはずがない。
理由も分からないのに、そう思った。
グレースは小さく首を横に振る。
「違うわ」
それ以上は何も言わなかったが、彼女の返事を聞いた瞬間、先ほどの幼い声がまた胸の奥で響いた。
毎日来ると言い張った少年。
その相手は、誰だったのか。
目の前に答えがあるような気がするのに、確かめるのが怖かった。
「……風、強いな」
結局、口にできたのはそんな言葉だった。
グレースは少しだけ目を細め、揺れる花々へ視線を戻した。
「そうね。いつも、こうだった」
いつも。
その一言に引かれるように、足元の斜面を見つめる。
風に押された花が波打ち、柔らかな土の上を細い影が走っていく。その光景を見ているうちに、ふと、小さな少女が斜面を駆け上がる姿が浮かんだ。
「……転んでたな、お前」
考えるより先に、言葉が出ていた。
自分で驚いて顔を上げる。
いつ、どこで見た光景なのか分からない。けれど、少女が足を滑らせたことも、転んだくせに笑っていたことも、なぜか知っている気がした。
グレースは否定しなかった。
「……そうね。よく見てたのね」
懐かしむような声音に、胸が強く締めつけられる。
「笑ってたな。転んでるくせに」
もう一度そう言うと、彼女はふっと息をこぼした。
「だって……楽しかったもの」
その笑い方を、知っている。
そう思った瞬間、先ほどまで曖昧だった光景が、ほんの少しだけ鮮明になった。
夕暮れに染まる丘で、花の間に座り込んだ少女がこちらを見上げている。差し出した手を取る代わりに何か言い返してきて、俺は呆れながらも、結局その場を離れられなかった。
何を話したのかは思い出せない。
それでも、あの時間が楽しかったことだけは分かった。
目の前のグレースは、そんな俺の様子を静かに見つめていた。
その眼差しがあまりにも優しくて、かえって苦しくなる。
「……何か、忘れてる気がする」
ようやく口にすると、彼女はそっと目を伏せた。
「……そうね」
否定しない。
けれど、何を忘れているのかも教えてくれない。
「だったら、教えてくれよ。俺はここで、お前と何を——」
「それでいいの」
言い終える前に、グレースが静かに遮った。
彼女はゆっくりと振り返り、真っ直ぐに俺を見つめる。
「楽しかったことだけ、覚えていれば」
穏やかな声だった。
だが、その言葉を聞いた途端、胸の奥が冷たくなった。
楽しかったことだけでいいはずがない。
忘れているのなら、思い出したい。あの頃、彼女と何を話して、どんな約束を交わしたのか。なぜ今になって、その記憶が戻り始めているのか。
何より、どうしてグレースは、俺が思い出すことを恐れているのか。
「……お前は、それでいいのかよ」
問いかけても、彼女は答えなかった。
ただ、困ったように微笑む。
その表情を見ているうちに、言葉が喉の奥で止まった。
きっと彼女は、何度も同じことを自分に言い聞かせてきたのだろう。楽しかったことだけでいいのだと。俺が何も思い出さなくても、それで構わないのだと。
そう考えると、どうしようもなく腹が立った。
彼女にではない。
何も知らず、何も覚えていないまま、ここまで来てしまった自分にだ。
風が吹き抜け、グレースの銀髪がふわりと揺れた。
月明かりを受けたその輪郭が、再び薄く滲む。
今度は、見間違いだと思えなかった。
髪の先も、肩の線も、夜の空気に溶け込むように揺らいでいる。
「……おい」
思わず声をかける。
グレースは何事もないようにこちらを見ていたが、その姿は、ほんの少し目を離しただけで消えてしまいそうだった。
背筋に冷たいものが走る。
何かが失われようとしている。
それが何なのか分からなくても、取り返しのつかないことが起き始めているのだと、身体の奥が告げていた。
「……グレース」
気づけば、彼女の名前を呼んでいた。
これまでも何度か口にしたはずの名前なのに、そのときは不思議なほど胸が震えた。
ただ呼び止めるためではない。
目の前にいる彼女に、どうしてもこちらを向いてほしかった。まだここにいるのだと、確かめたかった。
グレースは、わずかに目を見開いた。
驚いたように俺を見つめ、それから、泣きそうなほど柔らかく笑った。
「……やっと、呼んでくれた」
その声に、息が止まる。
責められたわけではなかった。
ただ、ずっと待っていたものがようやく届いたのだと告げるような、ひどく穏やかな声だった。
俺は何も言えずに立ち尽くした。
名前なら、今までも呼んできた。
それなのに、彼女が待っていたのは、きっとそういうことではないのだろう。
もう一度、その名を呼ぼうとした。
けれど、声になるより早く、頭の奥で眩い光が弾けた。
「……っ!」
視界が大きく揺れ、反射的に額を押さえる。
月明かりに照らされた夜が見えた。
小さな手を、離れないように握っている。重なった指先から伝わる温もりと、すぐ傍で聞こえる幼い声。
『絶対に、また来る』
『……ほんとに?』
『約束する』
あの夕焼けの下で交わした「また明日」とは違う、もう一つの約束。
けれど、どちらも同じ少女に向けた言葉なのだと、今度は分かった。
忘れていたはずの温もりが、痛いほど鮮明に蘇る。
彼女の手を握っていた。
離さないと、約束した。
そのときの自分が、どれほど真剣だったのかまで、胸の奥に流れ込んでくる。
「……あ……」
喉が震えた。
断片だった光景が、少しずつ繋がり始めている。
まだすべてを思い出したわけではない。けれど、目の前のグレースが、ただの幼馴染でも、俺を嫌う公爵令嬢でもないことだけは、もう否定できなかった。
俺はこの手を知っている。
この声を、この笑顔を、ずっと昔から知っている。
失くしたと思っていた記憶が、胸の奥で静かに目を覚まし始めていた。
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