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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない〜忘れているはずなのに、いつだって君だけが特別だった〜  作者: はな
第一部:忘却の王太子

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第11話 月光に溶ける輪郭



 忘れていたはずの温もりが、胸の奥へ流れ込んでくる。


 月明かりの下で交わした約束。離れないように握りしめた小さな手。何度も聞いた、幼い少女の声。


 それらはまだ断片にすぎなかったが、目の前のグレースと無関係だとは、もう思えなかった。


「……グレース」


 もう一度その名を呼んだとき、彼女の肩が小さく震えた。


 月光を受けた銀髪が風に揺れる。その向こうに見える輪郭は、先ほどよりも明らかに薄くなっていた。


 目を凝らしても、元には戻らない。


 彼女の身体を透かして、背後の花の色がかすかに見えた気がした。


「おい、どうしたんだ。何が——」


 言い終えるより早く、グレースの身体がぐらりと傾いた。


 反射的に駆け寄り、倒れかけた彼女を抱き止める。


「グレース!」


 腕の中に収まった身体は、驚くほど軽かった。


 以前、触れようとしただけであれほど怯えられたことが脳裏をよぎる。それでも今は、手を離すことなど考えられなかった。


 抱き止めた腕には、確かに彼女の重みがある。頬を寄せれば、弱々しいながらも呼吸の気配が伝わってくる。


 なのに、目を向けるたび、その姿が月明かりに溶け込んでいくように見えた。


「……大丈夫か。どこか痛むのか?」


 問いかけながら顔を覗き込むと、グレースはゆっくりと目を開けた。


 紫の瞳が俺を捉える。


 彼女は何かを確かめるようにしばらくこちらを見つめ、それから、かすかな声で尋ねた。


「……ねえ、覚えてる?」


 その問いに、胸が締めつけられた。


 祠からここへ来るまでにも、彼女は俺の記憶を気にしていた。思い出してほしいのか、それとも思い出してほしくないのか。どちらとも取れる言葉や表情に、俺はずっと戸惑っていた。


 今も、答えは分からない。


 けれど、誤魔化したくはなかった。


「……全部は、まだだ」


 そう答えると、グレースの睫毛がわずかに揺れた。


「でも、この場所は知ってる気がする。お前と何度も来て……くだらないことで言い合ってたんだろ」


 口にするうちに、先ほど見えた幼い頃の光景が、少しずつ形を持ち始める。


 夕暮れの丘を駆け上がる小さな背中。風に煽られ、斜面で足を滑らせた少女。転んだくせに楽しそうに笑う彼女へ、呆れながら手を差し出した自分。


 その手を、少女は素直に取らなかった。


 何か言い返されて、俺も負けじと言い返した。


 それでも結局、二人で笑っていた。


「……お前、よく転んでたな」


 思わず零すと、グレースは腕の中で小さく笑った。


「……ひどいわね」


「本当のことだろ。転んだくせに、いつも笑って……」


 そこまで言って、言葉が止まる。


 いつも。


 自分が当たり前のように使ったその言葉に、遅れて息を呑んだ。


 一度や二度ではない。俺は何度もこの丘へ来て、彼女と同じ時間を過ごしていたのだ。


 忘れていたはずなのに、花の香りも、風の強さも、彼女の笑い声も、少しずつ思い出せる。


 グレースは、そんな俺を静かに見上げていた。


「……そうね。楽しかったわ」


 その声を聞いた途端、胸の奥がひどく痛んだ。


 なぜ彼女は、こんなにも穏やかに過去を語れるのだろう。


 俺が何も覚えていなかった間も、彼女だけはずっと覚えていたのか。俺が冷たく接したことも、彼女を疑ったことも、全部知っていながら。


 今さらそんなことに思い至り、喉の奥が詰まった。


「……なんで、言わなかったんだよ」


 問いかけた声は、思っていたよりも震えていた。


 グレースは答えない。


 ただ、困ったように微笑んだ。


 その顔を見ていると、これ以上責めることができなかった。彼女が黙っていた理由を、俺はまだ知らないのだから。


 代わりに、抱き止めた腕へそっと力を込める。


 彼女が苦しくないように気をつけながら、その温もりを確かめた。


「……俺、ここが好きだったんだな」


 自然と、そんな言葉が口をついた。


 花が好きだったのか、景色が好きだったのか。それとも、ここで会える誰かが好きだったのか。


 まだ、はっきりとは思い出せない。


 けれど、胸の奥に残る懐かしさだけは本物だった。


 グレースが小さく頷く。


「……そうよ」


 その返事を聞いた瞬間、視界が滲んだ。


 最初は夜風のせいだと思った。だが、頬を伝う温かなものに気づいて、ようやく自分が泣いているのだと分かった。


「……なんでだよ」


 声が掠れる。


 何が悲しいのか、うまく説明できない。


 懐かしい記憶が戻ってきたことは、嬉しいはずだった。ずっと分からなかった胸の痛みに、ようやく理由が見つかりかけている。


 それなのに、腕の中の彼女を見ていると、どうしようもなく怖かった。


 今ここで手を離したら、もう二度と会えなくなる。


 そんな予感が、胸の奥から離れない。


「……お前、何をしたんだよ」


 グレースの輪郭は、今もかすかに揺らいでいた。


 月明かりのせいではない。俺の目がおかしくなったわけでもない。


 確かに腕の中にいるのに、その存在だけが少しずつ遠ざかっている。


「何が起きてるのか、ちゃんと教えてくれ。俺はまだ、何も——」


 最後まで言えなかった。


 喉の奥が焼けるように苦しくなり、涙が次々と頬を伝う。


 グレースはしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……いいのよ。それで、いいの」


 まるで、泣いている子供を宥めるような声だった。


 その優しさが、今はひどく残酷に思えた。


 よくない。


 何も知らないまま、彼女が消えていくのを見ているだけなんて、そんなことが許されるはずがない。


 そう言い返そうとした瞬間、頭の奥で何かが音を立てた。


「……っ!」


 こめかみに鋭い痛みが走り、視界が大きく揺れる。


 それまで霧に覆われていた光景が、次々と浮かび上がってきた。


 月明かりの下で握った手。


 離れたくないと願った夜。


 何度も呼んだ、少女の名前。


 腕の中のグレースが何かを言っていたが、その声さえ遠くなる。


 途切れていたはずのものが、崩れるように繋がっていく――



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