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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない  作者: はな
第一部:忘却の王太子

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第11話 その名前を呼ぶまで



 丘を渡る夜風に押されるように、薄紫のスイートピーが一斉に揺れた。


 花の波が月明かりの下で静かにうねり、その中心に立つグレースの姿を淡く包み込んでいる。


 まるで、この場所だけ時間の流れから切り離されてしまったみたいだった。


 なのに、不思議と目を逸らせない。


「……ここ、よく来てたの」


 振り返らないまま、小さく彼女が呟く。

 ただ、花の向こうを見つめている。


「……ひとりで?」


 口をついて出た問いに、自分でもわずかな違和感を覚える。

 そんなはずがない、と胸の奥で誰かが囁いた。


 この場所にいたグレースは、いつもひとりではなかった。

 なぜそんなことを思うのか、自分でも分からない。

 けれど、その感覚だけは妙に確信めいていた。


 グレースは、かすかに首を横に振る。


「違うわ」


 短い否定だけれど、それ以上は言わない。

 言えないのか、言わないだけなのかも分からない。


 ただ、それで十分だった。


「……風、強いな」


 本当にどうでもいいことしか、口にできなかった。


「そうね……いつも、こうだった」


 彼女がほんの少しだけ笑いながら言ったその言葉に、胸の奥が揺れた。


 ——いつも。


 その響きだけで、何かが引っかかる。


「……転んでたな、お前」


 言った瞬間、自分で息を呑む。


 ——なんで知っている?


「ここ、斜面だし」


 続けた瞬間、息が止まりそうになった。


 どこで見た。

 いつの記憶だ。


 だが、グレースは否定しなかった。

 ただ、少しだけ目を細める。


「……そうね。よく見てたのね」


 懐かしむような声での返しに、言葉が詰まる。


 ——見ていた。


 俺が?

 いつ?

 誰を?


 分からないのに、否定できない。


「……笑ってたな。転んでるくせに」


 続けるようにまた言葉が漏れ、ほんの少しだけ口元が緩む。

 記憶はないはずなのに、その光景だけがやけに鮮明に浮かぶ。


 グレースは、ふっと息をこぼすように笑った。


「だって……楽しかったもの」


 その声音は驚くほど穏やかで、まるで遠い昔を懐かしむみたいだった。


 胸の奥が、強く締め付けられる。


 どうしてそんな顔をするのか分からない。

 どうしてそんな声が、泣きたくなるほど愛おしく感じるのかも。


 ただ、月明かりの下で微笑む彼女を見ていると、胸の奥にぽっかりと空いた場所が、静かに痛み続けた。


 その輪郭が、夜の空気に溶けるようにわずかに揺らぐ。


 まるでこのまま、どこか遠くへ消えてしまいそうで——息が詰まった。


「……なんでだよ」


 気づけば、掠れた声が喉から漏れていた。


 胸の奥が痛い。


 花の香りも、彼女の声も、この場所の空気さえも、どうしようもなく懐かしく感じるのに——肝心なものだけが思い出せない。


「こんなに……」


 その先の言葉が、うまく形にならない。

 理由も分からないまま、胸の奥だけが強く締め付けられていく。


 まるで、大切な何かを自分はずっと取り零したままだったみたいだ。


「……何か、忘れてる気がする」


 ようやく絞り出した声に、グレースは静かに目を伏せた。


「……そうね」


 肯定とも否定とも取れない、曖昧な返事だった。

 それなのに、不思議なくらい優しい響きだった。


「でも——」


 彼女がゆっくりとこちらを振り返る。


 その動きはあまりにも静かで、触れれば壊れてしまいそうなほど儚い。


 月明かりを受けた紫の瞳が、真っ直ぐに俺を映した。


「それでいいの」


 まるでずっと前からそう言い聞かせ続けてきたみたいな、静かな声だった。


「楽しかったことだけ、覚えていれば」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が強く軋んだ。


 それだけでいいはずがない。

 楽しかった記憶だけ残して、他を全部失っていいわけがない。


 そんなの、おかしい。


 なのに——どうしても、その言葉を否定できなかった。

 彼女がどんな思いでそれを口にしたのか、分かってしまった気がしたからだ。


 喉の奥が、ひどく苦い。

 何か言わなければならないのに、言葉が出てこない。


 その沈黙を埋めるように、夜風が丘を吹き抜けていく。

 揺れたスイートピーが、月明かりの下で淡く波打った。


 月光に滲むその輪郭は、今にも夜の中へ溶けて消えてしまいそうなほど、儚かった。


「……っ」


 思わず、息を呑んだ。

 見間違いなんかじゃない。


 月明かりの中で揺れる彼女の輪郭は、確かに薄く滲んでいた。

 まるで存在そのものが、少しずつこの世界から零れ落ちていくみたいに。


 胸の奥が、ぞっとするほど冷たくなる。


 ——何かが失われ始めている。


 しかもそれは、取り返しのつかないものだと、本能だけが理解していた。


「……グレース」


 名を呼んだ瞬間、胸の奥が強く震えた。


 懐かしくて。

 触れれば壊れてしまいそうで。


 だからずっと、目を逸らしていたのかもしれない。


 けれど、本当は違った。

 胸の奥はずっと知っていた。


 この名前を呼ぶたび、どうしようもなく心が揺れることを。

 その一言を口にするだけで、失くしていた何かが疼くことを。


 なのに俺は、その意味からずっと目を逸らし続けていた。


 あまりにも長い時間を、無駄にしすぎたのだと——今さらのように思い知らされる。


 彼女は、ほんの少しだけ目を見開いた。


 驚いたように。

 それなのに、ずっと待っていたみたいに。


 そして次の瞬間、泣きそうなくらい柔らかく笑う。


「……やっと、呼んでくれた」


 その言葉は、責めるでもなく、悲しむでもなく—— ひどく穏やかだった。


 ただ、ずっと待ち続けていたものが、ようやく届いたみたいに。


 その微笑みを見た瞬間——胸の奥で、何かが決定的な音を立てて軋んだ。


「……っ」


 次の瞬間、頭の奥で眩い光が弾ける。


 視界が大きく揺れた。

 抑え込まれていた何かが、堰を切ったみたいに溢れ込んでくる。


 ——月明かりに照らされた夜。

 ——小さな手を、離さないように握り締めた感触。

 ——重なった指先。

 ——交わした約束。


『絶対に、また来る』

『……ほんとに?』

『約束する』


 懐かしい声が、耳の奥で鮮明に響く。


 忘れていたはずなのに。

 失くしたと思っていたのに。


 その記憶は、胸の奥にずっと残り続けていた。


「……あ……」


 喉が震える。

 断片だったものが、少しずつ繋がり始める。


 どうして彼女を見るたび胸が苦しかったのか。

 どうして名前を呼ぶことさえ怖かったのか。


 その答えに、ようやく触れかけていた。


 忘れていたはずの温もりが、痛いほど鮮明に胸の奥へ流れ込んでくる。


 埋められていた記憶が、静かに目を覚まし始めていた。




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