第12話 月光に溶ける輪郭
静かな夜だった。
丘を満たすスイートピーだけが、風に合わせて波のように揺れている。
月明かりの下で、グレースの輪郭が揺らいでいた。
見間違いじゃない。
まるで存在そのものが、この世界から零れ落ち始めているみたいだった。
「……っ」
背中に冷たいものが走った。
——何かが、失われ始めている。
気づけば、身体が先に動いていた。
考えるより早く、彼女へと手を伸ばしていた。
「……グレース」
掠れた声で名を呼ぶ。
その瞬間、グレースの肩がびくりと大きく震えた。
何かに耐えていた糸が、とうとう切れてしまったみたいに。
「……っ」
小さく息を呑む音がして、彼女の身体がぐらりと傾ぐ。
次の瞬間には、力を失ったように崩れ落ちていた。
「——っ!」
反射的に腕を伸ばし、その身体を抱き止める。
腕の中へ収まった彼女は、信じられないほど軽かった。
まるで、抱いていることすら怖くなるほどに。
確かに抱きしめているはずなのに、腕の中からこのまますり抜けて消えてしまいそうだった。
それでも、確かに温もりはあった。
「……大丈夫か」
言葉は、ひどく掠れていた。
どうしてこんな声になるのか、自分でも分からない。
ただ、胸の奥がどうしようもなく苦しかった。
腕の中の彼女は、弱々しく息を吐く。
「……ねえ、覚えてる?」
腕の中から落ちてきたかすかな声に、胸の奥が遅れて痛んだ。
その問いは、これまで何度も向けられてきたはずなのに——今度だけは、どうしても誤魔化せなかった。
逃げることができない。
そう、本能みたいに理解してしまう。
「……さあな」
ようやく返した声は掠れていて、それでも精一杯の強がりだった。
本当は分からない。
思い出せそうで、思い出せない。
頭の奥に靄がかかったみたいに、肝心なところだけが抜け落ちている。
けれど——
「……でも、ここ好きだった」
次に零れた言葉は、自分の意思とは関係なく、驚くほど自然に口をついて出た。
その一言で、腕の中の彼女がかすかに震えた。
「……そう」
小さく返された声は、泣きそうなくらい穏やかだった。
その響きだけで、胸の奥に眠っていた何かが、静かに疼き始める。
この場所で笑ったこと。
くだらないことで言い合ったこと。
風に煽られて転びそうになる彼女を見て、呆れながら手を引いたこと。
断片的な感覚だけが、ゆっくりと胸の奥へ滲んでいく。
まだ思い出せない。
それなのに、胸だけが彼女を覚えていた。
「……よく来てた」
零れるように言葉が落ちた。
まるで誰かに語らされているみたいに、記憶にもないはずの情景が次々と胸の奥へ浮かび上がってくる。
「くだらないことで競って、転んで……それで、笑ってた」
掠れた声でそう続いた瞬間、断片的な光景が頭の奥を掠めた。
夕暮れに染まる丘。
風に揺れる薄紫の花。
斜面を駆け上がって、足を滑らせて。
それでも楽しそうに笑っていた、小さな背中。
「……うるさかったな、お前」
呆れたように息を吐きながら言うと、腕の中のグレースが小さく肩を震わせる。
「ひどいわね」
くすり、と零れたその笑い声が、胸に優しく沁み込んだ。
ああ、と不意に思う。
きっと俺は、昔からこの声を聞いていた。
こんなふうに他愛もない言葉を交わして。
呆れて、笑って。
それでも離れずに、ずっと隣にいた。
理由なんて分からない。
記憶だって曖昧なままなのに。
それでも、この時間だけは確かだったのだと、胸の奥が静かに理解してしまっていた。
ふいに、頬へ温かなものが伝った。
何が起きたのか分からず、遅れてそれが涙だと気づく。
どうして泣いているのか、自分でも分からなかった。
ただ、胸の奥だけが、壊れそうなくらい痛い。
「……なんでだよ……」
掠れた声が、震えながら零れる。
止めようとしても止まらない。
喉の奥が焼けるみたいに苦しくて、腕の中の温もりを失うことだけが、どうしようもなく怖かった。
グレースはそんなレオナルドを見上げ、小さく息を吐く。
「……いいのよ。それで、いいの」
優しく言い聞かせるような声だった。
まるでずっと前から、この瞬間が来ることを知っていたみたいに。
その言葉が耳へ届いた瞬間——頭の奥で、何かがぶつりと音を立てた。
途切れていたはずのものが、崩れるように繋がっていく。




