第12話 最後に残った温もり
頭の奥で、何かが音を立てて崩れた。
それまで霧に覆われていた光景が、一気に鮮明になる。
夕暮れの丘で言い合ったこと。風に煽られて転んだ彼女へ手を差し出したこと。月明かりの下で、小さな指を絡めて約束したこと。
何度も呼んだ名前も、隣にいることが当たり前だった日々も、すべて。
——思い出した。
腕の中にいるのは、グレースだ。
ずっと昔から、俺の隣にいた少女。
忘れていたのではない。忘れさせられていたのだ。
その事実に辿り着いた瞬間、彼女がこれまで見せてきた表情の意味が、残酷なほどはっきりと繋がった。
俺が近づくたびに怯えていた理由。記憶が戻りかけるたびに苦しそうにしていた理由。そして、あれほど衰弱していながら、最後にこの丘へ来たいと願った理由。
彼女は、自分がどうなるか知っていた。
それでも、俺を守るために記憶を消したのだ。
「……グレース」
名前を呼ぶと、腕の中の彼女がかすかに顔を上げた。
俺を見つめる紫の瞳が、月明かりを受けて柔らかく揺れる。
「……ふふっ。よかった……」
ほっとしたような笑みだった。
その顔を見た途端、胸の奥に込み上げてきたものを、もう抑えられなかった。
「何が、よかったんだよ……!」
声が震える。
「俺の記憶を勝手に消して……こんなになるまで一人で抱え込んで……! やっと、やっと思い出したんだぞ……!」
怒鳴りたいわけではなかった。
ただ、彼女が何事もなかったかのように笑っていることが、たまらなく苦しかった。
俺が忘れている間も、グレースはすべてを覚えていたのだろう。俺が彼女を疑ったことも、冷たく突き放したことも、別の誰かの隣に立っていたことも。
それでも彼女は、何も言わなかった。
こんなにも細くなった身体で、ずっと一人で耐えていた。
「……離して」
グレースが小さく呟く。
その声に、抱きしめた腕が一瞬強張った。
また拒絶されるのかと思った。けれど、彼女の輪郭が淡く揺らぐのを見て、その言葉が何を意味するのか悟ってしまう。
俺を遠ざけようとしている。
最後まで、俺を巻き込まないために。
「……嫌だ」
彼女の身体を支え直し、震える声で答えた。
「もう離さない。君のいない人生なんて……そんなものに、意味なんかない」
グレースの呼吸が、わずかに乱れた。
紫の瞳が苦しそうに揺れ、それでも彼女は、俺を安心させるように微笑もうとした。
「……大丈夫よ。あなたは、忘れるわ」
その一言で、血の気が引いた。
忘れる。
ようやく取り戻したこの記憶を、また失うというのか。
彼女と過ごした日々も、今こうして腕の中にいる温もりも、すべて。
「……やめろ」
自分でも驚くほど弱い声だった。
グレースはそっと手を伸ばし、涙に濡れた俺の頬へ触れた。
その指先は冷たかったが、触れ方は昔と少しも変わらなかった。
「忘れて……ちゃんと、生きていける」
「そんなわけないだろ……!」
思わず、その手に自分の手を重ねる。
彼女を失って、何事もなかったように生きていけるはずがない。忘れてしまえば苦しくないなどと、どうして彼女はそんなことを言えるのだろう。
いや、きっと違う。
そう思わなければ、彼女自身が耐えられないのだ。
「もう離さないって、言っただろ……」
頬に触れる手を握りしめたまま、懇願する。
「どこにも行くな。頼むから……俺の前から、いなくならないでくれ」
もっと早く思い出していれば。
もっと早く、あのハンカチの意味に気づいていれば。
何度も彼女が見せていた苦しさを、拒絶だと決めつけずにいられたなら。
そんな後悔が次々と浮かんでは、胸を焼いた。
けれど、今さら何を悔やんでも、腕の中の彼女は戻らない。
グレースの肩から、淡い銀色の光が零れ始めていた。
「……グレース?」
息を呑む。
光は夜風に乗って舞い上がり、月明かりの中へ溶けていく。そのたびに、抱き止めていた身体の重みが少しずつ失われていった。
慌てて腕に力を込める。
確かに抱きしめているのに、指先に触れる感覚が薄くなっていく。
「待て……待ってくれ……!」
離したくない。
この手を離せば、彼女が本当に消えてしまう。
そんなことがあっていいはずがないのに、銀色の光は止まらなかった。
グレースは俺の胸元にそっと額を寄せた。
「……愛してるわ」
耳元に落ちた声に、呼吸が止まる。
「誰よりも、何よりも——あなたを」
ようやく聞けた言葉だった。
ずっと、聞きたかった言葉だったはずなのに。
今は、その続きを聞くことが怖かった。
「……言うな」
声が掠れる。
「そんな、最後みたいに……言わないでくれ……」
グレースは何も答えず、ただ静かに微笑んだ。
その笑顔を、俺は知っていた。
夕暮れの丘で、花に囲まれて笑っていた少女と同じ顔だった。呆れたように俺を見ながら、結局いつも隣にいてくれた、大切な人の笑顔だった。
「あなたは、私の——」
「グレース……!」
最後まで聞くことはできなかった。
彼女の身体から溢れていた光が、ふいに強く輝いたからだ。
眩しさに目を細めた、ほんの一瞬。
腕の中から、重みが消えた。
「……え?」
抱きしめていたはずの腕が、何もない空間を囲んでいる。
さっきまで頬に触れていた指先も、胸元に寄せられていた額も、もうどこにもなかった。
銀色の光だけが夜空へ舞い上がり、やがて月明かりの中に紛れて見えなくなる。
「……グレース?」
名前を呼んでも、返事はない。
腕を伸ばしても、何にも触れられなかった。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
土に手をついたまま、俺は彼女がいた場所を見つめ続けた。
どうして。
やっと思い出したのに。
伝えたいことが、まだ何一つ伝えられていないのに。
「……なんで、今なんだよ……」
声が震え、頬を涙が伝った。
思い出すのも、気づくのも、すべてが遅すぎた。
俺は彼女を愛していた。
ずっと昔から、何度忘れても、きっと同じ人を愛していたのだ。
「……グレース……」
もう一度、名前を呼ぶ。
届かないと分かっていても、呼ばずにはいられなかった。
「……愛してる……」
ようやく口にできた言葉は、彼女のいない丘に虚しく落ちた。
夜風が吹き抜け、スイートピーが一斉に揺れる。
甘い香りが強く漂った、そのときだった。
胸の奥から、何かがごっそりと抜け落ちた。
「……あ……?」
今まで確かにあったはずの記憶が、音もなく遠ざかっていく。
月明かりの下で交わした約束も、握りしめた手の温もりも、花の中で笑っていた少女の顔も。
引き止めようとする間もなく、すべてが霧の向こうへ消えてしまった。
……グレース?
誰だ、それは。
「……俺は、どうしてここに……?」
辺りを見回す。
学園の裏手にある、小さな丘だった。
月明かりに照らされた薄紫の花が、風に合わせて揺れている。
こんな時間に、なぜ一人でここにいるのだろう。
立ち上がろうとして、頬が濡れていることに気づいた。
指で拭うと、涙だった。
「……どうして、泣いてるんだ……?」
理由が分からない。
ただ、胸の奥に大きな穴が空いたようで、息をするたびにひどく痛んだ。
何かを失った。
それだけは分かるのに、何を失ったのか思い出せなかった。
ふと、足元に白い布が落ちていることに気づいた。
拾い上げると、柔らかなハンカチだった。隅には小さな刺繍が施されている。
誰のものだろう。
見覚えはないはずなのに、なぜか胸の奥が痛んだ。
俺はそのハンカチをそっと握りしめ、もう一度、誰もいない丘を見渡した。
風が吹く。
薄紫のスイートピーが静かに揺れ、甘い香りが夜の中へ広がっていく。
何も思い出せないまま、俺はしばらくそこに座り込んでいた。
ただ、理由の分からない涙だけが、いつまでも止まらなかった。
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