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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない  作者: はな
第一部:忘却の王太子

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第13話 最後に残った温もり



 途切れていたはずのものが、一気に繋がる。


 閉ざされていた記憶の扉が、強引にこじ開けられるみたいに、抑え込まれていた光景が雪崩のように溢れ出した。


 ——思い出した。


 断片だった記憶が、音を立てて繋がっていく。


 月明かりの下で交わした約束。

 離れたくなくて握った手の温もり。

 何度も呼んだ名前。


 ——全部。


 そして同時に、理解してしまう。


 彼女が何を代償にしたのか。

 何を守るために、自分から消えようとしていたのか。


 胸の奥が、引き裂かれるみたいに痛んだ。


「……グレース……」


 震える声で名前を呼ぶ。


 その名を口にした瞬間、腕の中の彼女の身体がかすかに揺れた。


 まるで、その声をずっと待っていたみたいに。


 けれど——遅かった。


 今さら全部を思い出したところで、もう何も間に合わないのだと、本能が残酷なほどはっきり理解してしまう。


 喉の奥が詰まり、息がうまく吸えない。


「……ふふっ。よかった……」


 グレースが小さく笑う。

 どこか力の抜けた、けれど泣きそうなくらい優しい笑い声だった。


 まるで長い間抱えていた願いが、ようやく叶ったとでもいうみたいに。


「ふざけるな……っ!」


 喉が裂けそうな声だった。


「俺の記憶を勝手に……消して……!やっと……やっと思い出したんだぞ……!」


 堪えきれない感情が溢れ、腕の中の彼女を強く抱きしめる。


 その身体は驚くほど細く、少し力を込めるだけで壊れてしまいそうだった。


 どうして今まで気づけなかったのか。


 こんなにも小さな身体で、彼女はずっと一人で抱え込んでいたのだ。


「……離して」


 掠れた声が、小さく落ちる。

 けれど俺は、さらに腕へ力を込めた。


「離さない!」


 即座に返した声は、ひどく震えていた。


「君のいない人生なんて……っ、そんなものに意味なんかない……!」


 叫ぶみたいに吐き出したその言葉に、グレースの呼吸がわずかに乱れる。


 まるで、その想いを真正面から受け取ってしまえば、自分を保てなくなるみたいに。


 月明かりの下で、彼女は苦しそうに目を伏せた。


「……大丈夫よ。あなたは、忘れるわ」


 返ってきた声は、あまりにも穏やかだった。


 静かで、優しくて——だからこそ残酷だった。


 その言葉を聞いた瞬間、血の気が引いていく。


「やめろ……」


 掠れた声しか出ない。


 嫌だった。

 もう二度と忘れたくない。


 ようやく思い出したのだ。


 ずっと探していたものも、胸の痛みの理由も、全部。


「忘れて……ちゃんと、生きていける」


 グレースがそっと手を伸ばし、震える頬へ触れる。


 冷たいはずの指先は、不思議なくらい優しかった。

 まるで泣きじゃくる子供を宥めるみたいに。


 そんなこと、あるはずがないのに。


 彼女を失って、それでも平然と生きていける未来なんて、存在するわけがなかった。


「……ふざけるな!!」


 堪えきれず、叫び声が夜の丘へ響いた。


 そんな未来、認められるはずがない。


 彼女を失って。

 また全部忘れて。

 何事もなかったみたいに生きていけるわけがないのに。


「ちゃんと、生きていける」


 それでもグレースは静かにそう繰り返した。

 まるで、自分に言い聞かせるみたいに。


 レオナルドは唇を噛み締め、壊れてしまいそうなほど強く彼女を抱き寄せる。


「もう離さないって、言っただろ……!」


 震える声で吐き出した言葉は、あまりにも遅すぎた誓いだった。


 もっと早く思い出していれば。

 もっと早く、この想いに気づけていたなら。


 そんな後悔ばかりが胸を焼く。


 それでも、もう二度と手放したくなかった。


「どこにも行くな……っ」


 懇願するみたいに零れた声が、情けないほど震える。


 その瞬間だった。


 腕の中のグレースの輪郭が、ふっと揺らぐ。


「……グレース……?」


 息を呑んだ、次の瞬間、彼女の身体から淡い銀色の光が零れ始めた。


 夜の闇へ溶けるように舞い上がるその光は、幻想的なほど美しかった。


 けれど同時に、ひどく残酷だった。


 まるで最初から、ここにいなかったみたいに。


 スイートピーよりもなお美しいその光は、俺の胸を容赦なく引き裂いた。


 それは彼女の「命の破片」そのもので、ひとつぶ光が弾けるたびに、腕の中から彼女の重みが吸い取られていく。


「……っ、待て、持っていかないでくれ……俺から、彼女を奪うな……!」


 抱きしめるほど、その熱は指の隙間から零れ落ちていく。


 まるで砂みたいに。


「……いやだ……」


 掠れた声が、喉の奥から零れた。


 嫌だった。

 ようやく取り戻したのに。

 やっと思い出せたのに。


 なのにまた、目の前から失われていく。


 必死に腕へ力を込める。


 壊れてしまいそうなほど強く、逃がさないように抱きしめる。


「……行くな……」


 懇願する声は、自分でも情けないほど震えていた。


 それでも、止まらない。


 彼女の身体は、月光へ溶けるみたいに少しずつ輪郭を失っていく。


 そんな俺の耳元へ、ふいに優しい声が落ちた。


「……愛してるわ」


 息が止まる。


 あまりにも穏やかで、あまりにも優しい声音だった。


「誰よりも、何よりも——あなたを」


 一言一言を、大切に残すみたいに彼女は囁く。


 その声が胸の奥へ染み込むたび、苦しくてたまらなかった。


「あなたは、私の——」


 続きを聞いた瞬間、本当に終わってしまう気がした。


「言うな……っ!それ以上、言うな……!」


 咄嗟に叫ぶ。


 聞きたくなかった。


 そんな別れの言葉なんて。

 最後みたいな声で、自分を置いていかないでほしかった。


 けれどグレースは、ただ静かに微笑む。

 それは、確かに“知っている”笑顔だった。


 夕暮れの丘で。

 風に揺れる花の中で。

 何度も隣で見てきた、大切な笑顔だと。


 ——どうしようもなく、きれいだった。


 次の瞬間、彼女の身体から溢れていた光が一気に弾ける。


「……グレースッ!!」


 悲鳴みたいな叫びが、夜の丘へ響き渡った。


 腕の中から、すべてが消えていた。


 さっきまで確かにそこにあった温もりも、重さも、息遣いすらも。


 まるで最初から何も抱いていなかったみたいに、現実だけがぽっかりと欠け落ちている。


 残されたのは、冷え切った夜風と、やけに静かな丘の気配だけだった。


「……あ……」


 力が抜け、その場に崩れ落ちる。

 伸ばした手は、何も掴めないまま宙を切った。

 指先に残るのは、もう存在しないはずのぬくもりの幻だけ。


「……なんで……」


 喉の奥がひどく痛い。

 声にならない声が、途切れ途切れに零れていく。


「なんで……今なんだよ……」


 遅すぎた。

 全部が、あまりにも遅すぎた。


 思い出すのも。

 気づくのも。

 そして、想いを伝えるのも。


 どうして今になって全部揃ってしまったのか。


 胸の奥が焼けるように苦しいのに、涙だけが止まらなかった。


「……グレース……」


 呼んでも、もう返事はない。


 それでも、レオナルドは何度もその名を呼び続けた。


 そこにもう何もないと分かっていても、ただ空に向かって、声を落とすしかできなかった。


 ——愛していると。


 届くはずのない言葉だけが、夜の丘へと静かに溶けていった。


 その瞬間、視界の端で揺れていた薄紫の花が、一際強く香った。

 まるで、彼女の最後の名残が、俺の記憶のすべてを連れ去っていくかのように。


 その瞬間、胸の奥から、何かがごっそりと抜け落ちた。


 ……グレースって、なんだ?


「……俺は、どうしてここにいる?」


 掠れた声が夜へ溶けていく。

 胸の奥だけが、ずっと痛い。


「どうして——泣いている?」


 頬を伝う涙の理由さえ、もう分からなかった。


 夜風が丘を吹き抜ける。


 薄紫のスイートピーが一斉に揺れ、そのさざめきだけが静まり返った世界に響いていた。


 まるで何かが終わったことだけを告げるように。


 その中で、レオナルドはゆっくりと視線を落とす。


 指先に、白い布の感触だけが残っていた。

 いつからそこにあったのかは、分からない。


 ただ確かに、そこに触れている。


 そして——なぜか手放すことができなかった。


 理由も分からないまま、それだけが胸の奥に残り続けていた。


読んでいただきありがとうございます!

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