第8話 お願いだから、触らないで
翌朝。
学園の廊下は、いつも通り騒がしかった。
けれど、その中にひとつだけ——どうしても視線を奪われるものがあった。
——いた。
白銀の髪が、人混みの向こうで揺れる。
最初は、ただの錯覚だと思った。
人の流れに紛れて、白っぽい光が揺れたように見えたからだ。
朝の光が差し込むたびに、影と光が重なっては消える。
誰かの髪が揺れたような気がして、そのたびに視線が引っかかった。
——そして次の瞬間。
その銀色の正体を、ようやく認識する。
──気のせいだと、何度も否定しようとした。
それでも、その銀髪の少女がグレース・アシュフォードだと気づいた瞬間、昨夜から疼き続けている胸の奥が再び鈍く軋んだ。
エドガーの腕の中で流していた涙、そして、机の上に広げたあのハンカチ。
考えるなと自分に言い聞かせても、気づけば彼女を目で追っていた。
——そのときだった。
前を行く彼女の体が、ふらり、と力なく揺れた。
「……?」
一瞬の違和感は、すれ違う距離まで近づいたとき、確信に変わった。
顔色が、明らかにおかしい。
昨日よりもさらに血の気が抜け落ち、透き通るような青白さに染まっている。
「……っ、げほ……っ」
押し殺すような短い咳が彼女の喉から漏れ、俺は思わず足を止めた。
だがグレースは、こちらを見ようともせず、ただ俯いたまま通り過ぎようとする。
「おい——」
呼び止めようと声をかけかけた、その瞬間だった。
ぴしり、と耳の奥で何かが軋むような音が響き、周囲の空気がわずかに歪んだ。
空気が重い。
息を吸うだけで、喉の奥がざらつく。
肌を刺す温度が一気に下がり、視界の端で廊下の窓ガラスがかすかに震える。
——魔力の乱れだ。
昨日よりもずっと不安定で、おぞましいほどの拒絶を孕んだ波動だった。
周囲の生徒たちが不安げにざわめき出す中、俺の視線は立ち尽くす彼女に釘付けになった。
グレースは必死に何かを堪えるように、ぎゅっと指先を握りしめている。
「……来ないで」
俺の存在に気づいた彼女は低く、地を這うような押し殺した声を絞り出した。
俯いたままの声は、拒絶というより悲鳴に近かった。
「……大丈夫か」
それでも気づけば、足は止まらなかった。
心配というより、もっと本能的な衝動に突き動かされて一歩踏み出す。
「来ないでって言ってるでしょう……っ!」
弾かれたように顔を上げた彼女の瞳は、いつもの冷徹な紫ではなかった。
何かに怯え、必死に自分を保とうとする絶望の色が見える。
その瞳と視線がぶつかった瞬間、ぶつり、と頭の奥で何かが切れた。
——『触らないで。壊れちゃうから』
声だけが、やけに鮮明だった。
誰のものかも分からないのに、耳の奥に直接残っているような感覚。
知らないはずの光景が、脳裏を鋭く駆け抜ける。
小さな手を振り払われた感触、泣きそうな顔で無理に笑う少女の幻影がみえた。
「っ……!」
激しい頭痛に視界が歪む。
背後でソフィアが俺の名を呼ぶ声がしたが、それすら遠い世界の雑音のようにしか聞こえない。
グレースは逃げるように後退り、震える声で絞り出した。
「……近づくなって、言ったはずよ……」
その声に宿っていたのは、怒りでも拒絶でもなく——明確な『恐怖』だった。
その事実に胸を抉られるような感覚を覚えた刹那、彼女の体が大きく傾く。
「——っ!」
反射的に手を伸ばし、その細い肩を支えた。
触れた瞬間、心臓が凍りつくかと思った。
氷か、あるいは実体のない幽霊にでも触れたような、おぞましいほどの冷気を感じた。
体温だけでなく、存在そのものが指先から崩れていくような錯覚がした。
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
——月明かりの下。
——小さな手が、離れないように握られている。
——『約束、だよ』
「……っ、あ……」
記憶が鮮明に色づくたび、目の前の彼女の顔からさらに色が失われていく。
思い出そうとするたび、彼女の命が削れていく。
——そんな錯覚が、胸を締めつけた。
「……触らないで!」
鋭い叫びとともに、彼女は俺の手を必死に振り払った。
激しく肩を上下させ、かすれる声で何度も繰り返す。
「……お願いだから……」
その懇願には、さっきまでの強気な仮面はどこにもなかった。
「……グレース……」
少し離れた場所で、エドガーが名を呼ぶ。
だが、その声に彼女が応じることはなかった。
ただ背を向けて走り去っていく。
彼女が通り過ぎた後、床にわずかな銀の光が残り——すぐに、消えた。
止めることも、追いかけることもできなかった。
グレースが去った後、廊下だけがやけに静かだった。
指先に残る、刺すような冷たい感触と、そして脳裏に焼き付いたあの幼い声。
「……なんだよ、これ……」
呆然と立ち尽くす俺の呟きは、喧騒の中に虚しく消えた。
——もう、戻れない。
理由も分からないまま、そんな確信だけが胸に残っていた。




