第8話 記憶の残滓
ハンカチは、まだ返せていない。
机の引き出しにしまったはずなのに、気づけば取り出しては、四隅に施された刺繍を眺めている。
アシュフォード公爵家の紋章。いびつに重なった二つの三日月。そして、俺とグレースの誕生花。
偶然で片づけるには、あまりにも奇妙な組み合わせだった。
昨夜、三日月の刺繍に触れた瞬間、知らないはずの幼い声が聞こえた。あのとき感じた懐かしさも、胸を締めつけるような痛みも、朝になれば薄れると思っていたのに、少しも消えてくれない。
『いい? これが私と、あなたの合図』
あれは、誰と交わした約束だったのだろう。
なぜグレースが、その印のあるハンカチを持っているのか。そもそも、俺は彼女のことを本当に何も知らないのか。
答えを探そうとするたび、頭の奥が鈍く軋んだ。
「……っ」
こめかみを押さえ、机に広げたハンカチへ視線を落とす。
そのとき、不意に別の光景が脳裏をよぎった。
夕焼けに染まる空の下、自分より少し低い位置から、こちらを見上げる少女がいる。
『……また明日ね』
『ああ、約束だ。指切り、しよう』
差し出された小さな指に、自分の指を絡めた感触だけが、妙にはっきりと残っていた。
けれど、少女の顔を確かめようとした途端、景色は霧に呑まれるように消えてしまう。
「……誰なんだ」
問いかけても、答える者はいない。
昨夜の三日月と、今の約束。二つの記憶が繋がっているような気がするのに、その先へ踏み込もうとすると、決まって頭が痛んだ。
それでも、もう考えないふりはできなかった。
何より気にかかるのは、俺が何かを思い出そうとするたび、グレースがひどく苦しそうな顔をすることだった。
あの拒絶の裏に、俺の知らない何かがある。
そう思いながら、俺はハンカチを丁寧に畳み、再び引き出しへしまった。
◇
グレースの様子は、日を追うごとに悪くなっていた。
廊下ですれ違うたびに顔色は青白くなり、ときには壁に手をついて、周囲に気づかれないよう息を整えている。誰かが近づけばすぐに背筋を伸ばし、何事もなかったかのように歩き出すのだが、その足取りに以前のような迷いのなさはなかった。
それでも、彼女は誰にも助けを求めようとしない。
俺が視線を向ければ、気づいたように顔を背ける。声をかけようと一歩踏み出しただけで、その表情が強張ることもあった。
『……お願いだから……』
あの日の掠れた声が、何度も耳の奥で蘇る。
触れられることを、あれほど恐れていた。
ただ嫌われているだけなら、あんな顔をするだろうか。
考えても答えは出なかったが、だからといって、以前のように「関わるだけ無駄だ」と切り捨てることもできなくなっていた。
昼休み、人気の少ない回廊を通りかかったときも、俺は壁際に立つ彼女の姿を見つけた。
小さく咳き込みながら、片手で石壁を支えている。窓から差し込む陽光を受けた指先は、血の気が失せているせいか、ひどく頼りなく見えた。
思わず足を止める。
今すぐ駆け寄って、医務室へ連れていくべきではないのか。そう考えた瞬間、彼女がこちらに気づいた。
紫の瞳がわずかに見開かれ、次いで、何かを恐れるように揺れる。
俺が口を開くより早く、グレースは壁から手を離した。
ふらつく身体を無理に立て直し、何も言わずに歩き去っていく。
「……グレース」
呼び止める声は、思っていたよりも小さかった。
彼女は振り返らない。
追いかけようとして、足が止まった。
また近づけば、あの怯えた顔をさせてしまうかもしれない。そう思うと、どうしても距離を詰められなかった。
けれど、遠ざかっていく背中を見送ることにも、耐えがたいものがあった。
——何が、あいつをあそこまで追い詰めているんだ。
握りしめた拳に、じわりと汗が滲んだ。
◇
その日の放課後になっても、グレースの青白い顔が頭から離れなかった。
授業中に見かけた彼女の姿を思い返すたび、胸の奥が落ち着かなくなる。医務室へ行くよう教師に伝えることも考えたが、彼女が素直に従うとは思えなかった。
魔力の乱れと、日に日に衰えていく身体。
その二つを考えているうちに、ふと、学園の中庭にある祠のことを思い出した。
古い石造りの祠は、魔力を安定させるための場所として、生徒たちにも知られている。彼女がそこへ向かうという確証はなかったが、今のグレースが誰にも頼らず魔力を鎮めようとするなら、あの場所を選ぶのではないか。
そう考えたときには、もう校舎を出ていた。
夕暮れの残る中庭には、人の気配がなかった。木々の間を抜ける風は冷たく、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
奥へ進むにつれ、肌を撫でる魔力の流れが少しずつ濃くなっていった。
中央に据えられた祠が見え始めた、そのときだった。
「……っ」
足を止める。
祠の周囲に漂っていたのは、夕暮れの冷気とは異なる、身体の奥まで染み込んでくるような冷たさだった。
まるで、この場所だけが世界から切り離されているかのような違和感がある。
思わず息を呑み、祠の向こうへ目を向けた。
薄青い空の下に、人影があった。
淡い光を受けて浮かび上がる銀色の髪を見た瞬間、誰なのかはすぐに分かった。
「……グレース」
彼女はゆっくりとこちらを振り返った。
その頬を、一筋の光が伝っている。
涙なのか、それとも溢れた魔力なのか、ここからでは分からなかった。
ただ、その瞳がこれまで見たこともないほど静かだったことだけは、はっきりと覚えている。
いつものように俺を睨むことも、近づくなと拒絶することもない。
その静けさが、かえって恐ろしかった。
何かを諦めたのか。それとも、何かを決めたのか。
理由は分からない。けれど、目の前の彼女は、もう自分の行く先を決めてしまった者のように見えた。
——まるで、もう二度とここへ戻ってこないと決めているみたいに。




