第7話 忘れたはずの三日月
指先に残る、あの冷たい布の感触と花の香り。
落としたのなら、返さなければならない。
ただの「忘れ物の返却」だ。
そう自分に言い聞かせ、俺は来た道を引き返した。
だが、中庭の入り口に差し掛かったその時。
夕闇が濃くなり始めた空気の向こうから、聞き慣れた声が届いた。
「……俺じゃ、だめか?」
心臓が、嫌な跳ね方をした。
咄嗟に建物の影に身を潜める。
視界の端に映ったのは、いつもの冷静さをかなぐり捨てた、痛々しいほど切実なエドガーの姿。
エドガーの声は、俺が知っているどの声音よりも揺れていた。
いつもなら冷静で、感情を一段引いた位置に置く男が、あれほど感情を剥き出しにしている。
その腕の中のグレースは、抵抗しているようにも見えない。
だがそれが、拒絶していないのか、それともできないのか——距離が遠くて分からなかった。
ただ、エドガーの腕に支えられているように見えた。
逸らさなければならないと分かっているのに、どうしても離せなかった。
「…………っ」
喉の奥が、焼け付くように熱くなる。
見てはいけないものを見てしまったという拒絶感と、それ以上に、理性を焼き切るほどの激しい嫉妬が渦巻いた。
——そういうことか。
——俺の知らないところで、二人はそんな関係だったのか。
これ以上そこに留まることはできず、俺は逃げるようにその場を離れた。
握りしめたハンカチが指の間でひどくシワになり、爪が掌に食い込んで白くなることにも、気づかないままだった。
◇
自室に戻った俺は、乱暴に脱ぎ捨てた上着もそのままに、机の上にあのハンカチを広げた。
「……っ、なんだよ……これ」
シワを伸ばそうと、ハンカチの四隅に目を走らせる。
指先に、わずかな凹凸が伝わる。
糸の重なりをなぞるたびに、なぜか胸の奥が軋むように痛んだ。
右上に刺繍されているのは、見慣れたアシュフォード公爵家の紋章だ。
だが、その対角にあたる左下を見た瞬間、俺の指先が止まった。
白に近い銀糸で、いびつに重なり合った二つの小さな三日月。
それを見た瞬間、頭の奥で火花が散った。
『いい? これが私と、あなたの合図』
笑いながら、指を絡めていた誰かの温度だけが、やけに鮮明だった。
あのときの空気は、こんなに冷たくなかったはずだ。
『三日月が二つ……これなら、暗い夜でも寂しくないな』
聞き覚えのない、けれど泣きたくなるほど懐かしい子供たちの声が、一瞬だけ耳をかすめる。
脳裏をよぎったのは、今の自分からは想像もできないほど、晴れやかで、幸福に満ちた少年の笑い声だった。
「……俺の、声か?」
自分がいつ、こんな風に笑ったのか。
誰に対して、こんなに心を許していたのか。
「……なんだ、今の。俺は、何を……」
激しい眩暈に襲われ、机の端を掴んで耐える。
視界が歪む中で、指先は無意識にその刺繍をなぞっていた。
学園の教科書にも、王家の家紋にも、ましてやソフィアの持ち物にも、こんなマークは存在しない。
なのに、俺の指はもう何千回もそうしてきたかのように、迷いなくその形をなぞり続けている。
眩暈をこらえながら、残る二つの隅に視線を移す。
そこに刻まれていたのは、言葉を失うほど精緻な花の刺繍だった。
「……俺の、誕生花か?」
一角には、俺の誕生花。
そしてもう一角には、寄り添うように彼女自身の誕生花が。
四隅に刻まれた意味を、言葉にすることはできなかった。
だが——
驚くほど丁寧に、一針一針に祈りを込めるような、執念に近い重みを感じる刺繍だった。
『これなら、離れていても同じ月を見てるってわかるだろ?』
脳裏に響く、幼い少年の笑い声。
「……俺は、何かを忘れてる……?」
記憶は依然として深い霧の中だ。
けれど、確信だけが胸を突き刺す。
この小さな布地はただの持ち物じゃないと、そう思った。
——このハンカチを作った人間は、俺を心の底から愛している。
——そしてその人間は、今さっき、親友の腕の中で泣いていた。
それが、どうしても許せなかった。
「……ふざけるな」
俺はシワだらけのハンカチを顔に押し当てた。
彼女の冷たい拒絶の裏に隠されていた、あのかすかな花の香りが鼻腔をくすぐる。
「エドガーの前であんな顔をしておいて……こんなものを、ずっと持っていたのか? お前は、一体誰なんだ……」
嫉妬と困惑、そして自分自身への苛立ちが募る。
ぐちゃぐちゃになった感情を抱えたまま、俺は、夜が明けるその直前まで、その「三日月」をなぞり続けていた。
ふと、指が止まった。
静まり返った部屋の中で、やけに自分の呼吸だけが響いている。
顔を上げたその先の窓の外、夜の静けさはやけに優しかった。
だからこそ、胸の痛みだけが浮き彫りになる。
夜の端に細い三日月が浮かんでいた。
その形を見た瞬間——指先が、無意識に重なり合う弧をなぞる。
空に浮かぶ月と、手の中にあるいびつな刺繍。
重なり合う二つの弧が、まるで「欠けてしまった俺の半身」を象徴しているようで。
「……なんで、こんなに痛いんだ」
無意識に頬を伝った熱い雫が、刺繍の三日月を濡らした。
「……なんでだ」
胸の奥が、ざわついて仕方がなかった。




