第7話 お願いだから、触らないで
翌朝。
学園の廊下を歩いていると、人混みの向こうに白銀の髪が見えた。
——グレース。
昨夜、エドガーの腕の中にいた彼女の姿が脳裏をよぎる。
そして、机に広げたハンカチ。いびつに重なった二つの三日月。
考えるなと自分に言い聞かせても、気づけば彼女を目で追っていた。
——そのときだった。
前を行く彼女の体が、ふらり、と力なく揺れた。
「……?」
一瞬の違和感は、すれ違う距離まで近づいたとき、確信に変わった。
顔色が、明らかにおかしい。
昨日よりも血の気が失せ、透き通るような青白さに染まっていた。
「……っ、げほ……っ」
押し殺すような短い咳が彼女の喉から漏れ、俺は思わず足を止めた。
だがグレースは、こちらを見ようともせず、ただ俯いたまま通り過ぎようとする。
「おい——」
呼び止めようと声をかけかけた、その瞬間だった。
ぴしり、と耳の奥で何かが軋むような音が響き、周囲の空気がわずかに歪んだ。
空気が重い。
息を吸うだけで、喉の奥がざらつく。
肌を刺す温度が一気に下がり、視界の端で廊下の窓ガラスがかすかに震える。
——魔力の乱れだ。
昨日よりもずっと不安定で、おぞましいほどの拒絶を孕んだ波動だった。
周囲の生徒たちが不安げにざわめき出す中、俺の視線は立ち尽くす彼女に釘付けになった。
グレースは必死に何かを堪えるように、ぎゅっと指先を握りしめている。
「……来ないで」
俺の存在に気づいた彼女は低く、地を這うような押し殺した声を絞り出した。
俯いたままの声は、拒絶というより悲鳴に近かった。
「……大丈夫か」
それでも気づけば、足は止まらなかった。
心配というより、もっと本能的な衝動に突き動かされて一歩踏み出す。
「来ないでって言ってるでしょう……っ!」
弾かれたように顔を上げた彼女の瞳は、いつもの冷徹な紫ではなかった。
何かに怯え、必死に自分を保とうとする絶望の色が見える。
その瞳と視線がぶつかった瞬間、ぶつり、と頭の奥で何かが切れた。
——『触らないで。壊れちゃうから』
声だけが、やけに鮮明だった。
誰のものかも分からないのに、耳の奥に直接残っているような感覚。
知らないはずの光景が、脳裏を鋭く駆け抜ける。
小さな手を振り払われた感触、泣きそうな顔で無理に笑う少女の幻影がみえた。
「っ……!」
激しい頭痛に視界が歪む。
背後でソフィアが俺の名を呼ぶ声がしたが、それすら遠い世界の雑音のようにしか聞こえない。
グレースは逃げるように後退り、震える声で絞り出した。
「……近づくなって、言ったはずよ……」
その声には、怒りや拒絶だけでは説明できない、切実な恐怖が滲んでいた。
その事実に胸を抉られるような感覚を覚えた刹那、彼女の体が大きく傾く。
「——っ!」
反射的に手を伸ばし、その細い肩を支えた。
触れた瞬間、心臓が凍りつくかと思った。
氷か、あるいは実体のない幽霊にでも触れたような、おぞましいほどの冷気を感じた。
体温だけでなく、存在そのものが指先から崩れていくような錯覚がした。
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
——月明かりの下。
——小さな手が、離れないように握られている。
——『約束、だよ』
「……っ、あ……」
俺の記憶が鮮明になるほど、目の前の彼女から生気が失われていく。
まるで、俺が何かを思い出すたびに、彼女の命を削っているかのようだった。
「……触らないで!」
鋭い叫びとともに、彼女は俺の手を必死に振り払った。
激しく肩を上下させ、かすれる声で何度も繰り返す。
「……お願いだから……」
その懇願には、さっきまでの強気な仮面はどこにもなかった。
「……グレース……」
少し離れた場所で、エドガーが名を呼ぶ。
だが、その声に彼女が応じることはなかった。
ただ背を向けて走り去っていく。
彼女が通り過ぎた後、床にわずかな銀の光が残り——すぐに、消えた。
止めることも、追いかけることもできなかった。
グレースが去った後、廊下だけがやけに静かだった。
指先には刺すような冷たさが残り、脳裏にはあの幼い声が焼き付いていた。
「……なんだよ、これ……」
呆然と立ち尽くす俺の呟きは、喧騒の中に虚しく消えた。
——もう、戻れない。
理由も分からないまま、そんな確信だけが胸に残っていた。




