第6話 あの銀色を追って
意識が浮上したとき、最初に感じたのは、鼻腔をつくかすかな薬草の匂いだった。
重たいまぶたを持ち上げると、窓から差し込む西日が、白いカーテンを透かして部屋をオレンジ色に染めているのが見えた。
埃の粒が光の中で静かに踊っている。
遠くで聞こえる放課後の喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように、ひどく現実味を欠いて響いていた。
「……っ」
指先を動かすと、シーツのざらりとした感触が伝わってくる。
視界がゆっくりと開けるにつれ、ここが学園の医務室であることを、脳がようやく理解し始めた。
「お目覚めですか、レオナルド殿下」
落ち着いた声がすぐ傍から聞こえ、そちらを見ると医務官だった。
「脈も安定しています。軽い魔力過負荷による失神でしょう。意識も戻られたようですし——もう問題はありません」
「……そうか」
体を起こすと、鈍い痛みがわずかに残るだけだった。
「レオナルド様……!本当に……よかった……」
すぐにソフィアが身を乗り出してくる。
ほっとしたように胸を撫で下ろし、その瞳を潤ませた。
その後ろで、エドガーが小さく息を吐く。
「無茶しすぎだ。派手に倒れたぞ、覚えてるか?」
「ああ……多少はな」
断片的に蘇る記憶。
魔物、光、そして——黒い霧。
無意識に、視線が部屋の中を探した。
……いない。
一瞬だけ、胸の奥に引っかかるものが生まれる。
「では私は、教師方へ報告してきます」
「ああ、頼む」
エドガーがそう言って、踵を返す。
短く応じると、彼はそのまま部屋を出ていった。
ぱたり、と扉が閉まる。
その音が、やけに大きく響いた気がした。
「レオナルド様、まだ無理をなさらないでくださいね」
ソフィアが優しく言いながら、そっと腕に触れてくる。
その仕草はいつもと変わらない。
だが——ふと、違和感がよぎった。
彼女の指先が一瞬だけ震え、ほんのわずかに袖口を押さえる仕草をした。
——まるで、何かを隠すように。
次の瞬間には、いつもの柔らかな微笑みに戻っている。
「本当に……怖かったのです。あの方の魔力で、また何か起きるのではと——」
「やめろ」
思わず、言葉を遮っていた。
一瞬、空気が張り詰める。
自分でも驚くほど強い声音だった。
「……すまない。ただ、決めつけるのは早い」
言い直しながらも、胸の奥のざわつきは消えない。
——違う。
そんなはずはないと、どこかが否定している。
そのときだった。
ふと、開きかけたドアの向こうの廊下の端で、わずかに揺れた銀の色に視線が引かれる。
——いた。
ほんの一瞬、こちらを確認したようにも見えたが、すぐに視線を外しそのまま背を向ける。
静かに、音も立てずに歩き去っていく。
……行くのか。
引き止める理由なんてない。
関わるなと言われた相手だ。
それでも、足がわずかに動いた。
「……どこへ行くのですか?まだ安静に——」
「大丈夫だ」
立ち上がった瞬間、ソフィアが腕を取るが、短く言い切り彼女の手を解く。
その時の俺の頭には、心配してくれるソフィアのことも、王太子としての体面も、何一つ残っていなかった。
ただ、あの銀色を——見失いたくなかった。
理由なんて、分からない。
ただ、このまま行かせてはいけない気がした。
「ですが——」
制止の声を振り切るように、そのままドアへ向かう。
背後でほんの一瞬だけ、空気がひどく冷えた気がしたが、振り返ることはなかった。
扉を開け廊下へ出るが、もうその姿は見えない。
それでも迷いなく、足は前へ進んだ。
——気づけば、追いかけていた。
あんな態度を取られたはずなのに、足は止まらなかった。
前を行く銀髪の背中は、人目のある廊下では一切乱れなかった。
だが——
中庭に出て人気が途切れた瞬間、彼女はふっと立ち止まった。
校舎の影が長く伸びた中庭は、夕暮れ間近の深い青に沈みかけていた。
風に揺れる木々のざわめきと、遠くで鳴く鳥の声。
湿り気を帯びた草の匂いが、医務室の消毒液の匂いに慣れた鼻をくすぐる。
その静寂の中心で、彼女の銀髪だけが、西日の残光を反射して冷たく、けれど鮮烈に輝いていた。
わずかに肩が上下し、息を整えるように小さく息を吐いた。
……なんだ?
その姿は、いつも言われている“悪女”とは、どこか違って見えた。
どこか寂しげなその背中を見て、思わず声をかけてしまっていた。
「……おい。何か——」
言い終わる前に、びくり、と彼女の肩が跳ねた。
——今の、気づいていなかったのか。
らしくない反応だな、と思った。
だが次の瞬間には、何事もなかったかのように振り返る。
その瞳は、いつもの冷たい紫に戻っていた。
さっきの森で見た、あの痛ましい表情を思い出す。
目の前の冷徹な仮面が、今にも粉々に砕け散りそうなほど危ういものに見えて、俺は言葉を失った。
「どうして怪我人がここにいるのかしら。言ったはずよ、私に近づくな、と」
さっきまでの様子なんて、欠片も見せない。
……なんなんだ、こいつは。
「……心配して損した」
思わず漏れた言葉に、彼女の表情が一瞬だけ揺れた気がしたが、それもすぐに消える。
「余計なお世話よ」
ぴしゃりと返される。
……ああ、やっぱりだ。
噂通りの、冷たい女。
「……本当に、分からない女だな」
吐き捨てるように言って、踵を返す。
そうでも言わなければ、あの瞳の奥にある『何か』に触れてしまいそうだった。
もういい、関わるだけ無駄だ。
そう思っているはずなのに。
どうしてか、背中に視線を感じた気がした。
——気のせいだ。
振り返ることはせず、そのまま歩き去った。
——あの背中から、目を逸らしたはずなのに。
なぜか、もう一度確かめたいと思ってしまった。
……何をやってるんだ、俺は。
歩きながら、小さく舌打ちする。
関わるなと言われた相手を、わざわざ追いかけて。
らしくない……本当に。
視線が、ふと足元に落ちた。
「……?」
拾い上げた上質な布の端には、見覚えのある紋章が刺繍されていた。
——アシュフォード公爵家の紋章。
指先に触れた布地は、驚くほど冷えていた。
さっき中庭で感じた、あの名もなき花の香りが、そこからはかすかに、けれど確かに漂っていて。
「……っ」
胸の奥が、焼けるように熱くなる。
——落としたのか。あいつが。
「……馬鹿だな、俺は」
関わるなと言われた。
あんなに酷い拒絶をされたばかりだ。
——それでも。
俺の指は、その冷たい布を離すことができなかった。
この香りを、俺は知っている。
戻る理由なんて、どこにもない。
だが——それを手放してはいけないと、身体が理解していた。




