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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない〜忘れているはずなのに、いつだって君だけが特別だった〜  作者: はな
第一部:忘却の王太子

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第6話 忘れたはずの三日月



 指先に残る、あの冷たい布の感触と花の香り。


 落としたのなら、返さなければならない。

 ただの「忘れ物の返却」だ。


 そう自分に言い聞かせ、俺は来た道を引き返した。


 だが、中庭の入り口に差し掛かったその時。

 夕闇が濃くなり始めた空気の向こうから、聞き慣れた声が届いた。


「……俺じゃ、だめか?」


 心臓が、嫌な跳ね方をした。

 咄嗟に建物の影に身を潜める。


 視界の端に映ったのは、いつもの冷静さをかなぐり捨てた、痛々しいほど切実なエドガーの姿。


 エドガーの声は、俺が知っているどの声音よりも揺れていた。


 いつもなら冷静で、感情を一段引いた位置に置く男が、あれほど感情を剥き出しにしている。


 エドガーの腕の中に、グレースがいた。


 彼女は抵抗していないように見える。


 それが拒絶していないからなのか、それとも拒絶する余裕すらないのか——ここからでは分からなかった。


 逸らさなければならないと分かっているのに、どうしても離せなかった。


「…………っ」


 喉の奥が、焼け付くように熱くなる。

 見てはいけないものを見てしまったという拒絶感と、それ以上に、理性を焼き切るほどの激しい嫉妬が渦巻いた。


 ——そういうことか。

 ——俺の知らないところで、二人はそんな関係だったのか。


 これ以上そこに留まることはできず、俺は逃げるようにその場を離れた。


 握りしめたハンカチが指の間でひどく皺になり、爪が掌に食い込むほど力を込めていることにも、気づかなかった。


◇


 自室に戻った俺は、乱暴に脱ぎ捨てた上着もそのままに、机の上にあのハンカチを広げた。

 

「……っ、なんだよ……これ」


 シワを伸ばそうと、ハンカチの四隅に目を走らせる。


 指先に、わずかな凹凸が伝わる。


 糸の重なりをなぞるたびに、なぜか胸の奥が軋むように痛んだ。


 右上に刺繍されているのは、見慣れたアシュフォード公爵家の紋章だ。

 だが、その対角にあたる左下を見た瞬間、俺の指先が止まった。


 白に近い銀糸で、いびつに重なり合った二つの小さな三日月。

 それを見た瞬間、頭の奥で火花が散った。


『いい? これが私と、あなたの合図』


 笑いながら、指を絡めていた誰かの温度だけが、やけに鮮明だった。


 あのときの空気は、こんなに冷たくなかったはずだ。


『三日月が二つ……これなら、暗い夜でも寂しくないな』


 聞き覚えのない、けれど泣きたくなるほど懐かしい子供たちの声が、一瞬だけ耳をかすめる。


 脳裏をよぎったのは、今の自分からは想像もできないほど、晴れやかで、幸福に満ちた少年の笑い声だった。


「……俺の、声か?」


 自分がいつ、こんな風に笑ったのか。

 誰に対して、こんなに心を許していたのか。


「……なんだ、今の。俺は、何を……」


 激しい眩暈に襲われ、机の端を掴んで耐える。

 視界が歪む中で、指先は無意識にその刺繍をなぞっていた。


 学園の教科書にも、王家の家紋にも、ましてやソフィアの持ち物にも、こんなマークは存在しない。


 なのに、俺の指はもう何千回もそうしてきたかのように、迷いなくその形をなぞり続けている。


 眩暈をこらえながら、残る二つの隅に視線を移す。

 そこに刻まれていたのは、言葉を失うほど精緻な花の刺繍だった。


「……俺の、誕生花か?」


 一角には、俺の誕生花。


 そして、もう一角には彼女の誕生花が、同じ銀糸で丁寧に縫い込まれていた。


 四隅に刻まれた意味を、言葉にすることはできなかった。


 だが——


 驚くほど丁寧に、一針一針に祈りを込めるような、執念に近い重みを感じる刺繍だった。


『これなら、離れていても同じ月を見てるってわかるだろ?』


 脳裏に響く、幼い少年の笑い声。


「……俺は、何かを忘れてる……?」


 記憶は依然として深い霧の中だ。

 けれど、確信だけが胸を突き刺す。


 この小さな布地はただの持ち物じゃないと、そう思った。


 ——これを作ったのは、誰だ。


 グレースが持っていたハンカチに、なぜ俺の誕生花が刺繍されている?


 そして、あの三日月を見た瞬間に蘇った、幼い頃の声は。


 答えは分からない。


 ただ、こんなにも大切そうなものを持っていた彼女が、先ほどエドガーの腕の中にいたことだけが、どうしようもなく胸を刺した。


 今思えばエドガーは一度だって、グレースを悪く言わなかった。


 『関わるな』『近づくな』とは何度も言っていたくせに——“彼女自身”を否定する言葉だけは、決して口にしなかった。


「……ふざけるな」


 俺はシワだらけのハンカチを顔に押し当てた。

 彼女の冷たい拒絶の裏に隠されていた、あのかすかな花の香りが鼻腔をくすぐる。


「エドガーの前であんな顔をしておいて……こんなものを、ずっと持っていたのか? お前は、一体誰なんだ……」


 嫉妬と困惑、そして自分自身への苛立ちが募る。


 ぐちゃぐちゃになった感情を抱えたまま、俺は夜更けまで、その三日月をなぞり続けていた。


 ふと、指が止まる。


 顔を上げると、窓の外には細い三日月が浮かんでいた。


 空に浮かぶ月と、手の中にあるいびつな刺繍。


 重なり合う二つの弧を見つめているうちに、胸の奥がどうしようもなく痛んだ。


「……なんで、こんなに痛いんだ」


 頬を伝った雫が、刺繍の三日月を濡らす。


 泣いていることに気づいたのは、その後だった。




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