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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない〜忘れているはずなのに、いつだって君だけが特別だった〜  作者: はな
第一部:忘却の王太子

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第5話 あの銀色を追って


 意識が浮上したとき、最初に感じたのは、かすかな薬草の匂いだった。


 重たいまぶたを開くと、窓から差し込む西日が白いカーテンを染めている。


 ——学園の医務室か。


「お目覚めですか、レオナルド殿下」


 傍らにいた医務官が、ほっとしたように声をかけてきた。


「脈も安定しています。軽い魔力過負荷による失神でしょう。意識も戻られたようですし——もう問題はありません」

「……そうか」


 体を起こすと、鈍い痛みがわずかに残るだけだった。


「レオナルド様……!本当に……よかった……」


 すぐにソフィアが身を乗り出してくる。

 ほっとしたように胸を撫で下ろし、その瞳を潤ませた。


 その後ろで、エドガーが小さく息を吐く。


「無茶しすぎだ。派手に倒れたぞ、覚えてるか?」

「ああ……多少はな」


 断片的に蘇る記憶。


 魔物、光。そして、俺の背後で泣きそうな声を上げたグレース。


 無意識に、部屋の中を見回した。


 ……いない。


 そのことに気づいた途端、胸の奥が落ち着かなくなった。


「では私は、教師方へ報告してきます」

「ああ、頼む」


 エドガーがそう言って、踵を返す。

 短く応じると、彼はそのまま部屋を出ていった。


 ぱたり、と扉が閉まりかける。


「レオナルド様、まだ無理をなさらないでくださいね」


 ソフィアが優しく言いながら、そっと腕に触れてくる。

 その仕草はいつもと変わらない。


 だが——ふと、違和感がよぎった。


 彼女の指先が一瞬だけ震え、ほんのわずかに袖口を押さえる仕草をした。


 ——まるで、何かを隠すように。


 次の瞬間には、いつもの柔らかな微笑みに戻っている。


「本当に……怖かったのです。あの方の魔力で、また何か起きるのではと——」

「やめろ」


 思わず、言葉を遮っていた。


 一瞬、空気が張り詰める。

 自分でも驚くほど強い声音だった。


「……すまない。ただ、決めつけるのは早い」


 言い直しながらも、胸の奥のざわつきは消えない。


 そのとき、廊下から足音が聞こえた。


 何気なく扉へ目を向けると、閉まりきっていなかった隙間の向こうを、銀色の髪が横切った。


 ——グレース。


 ほんの一瞬、こちらを確認したようにも見えたが、すぐに視線を外しそのまま背を向ける。


 静かに、音も立てずに歩き去っていく。


 ……行くのか。


 引き止める理由なんてない。

 関わるなと言われた相手だ。


 それでも、足がわずかに動いた。


「……どこへ行くのですか?まだ安静に——」

「大丈夫だ」


 立ち上がった瞬間、ソフィアが腕を取るが、短く言い切り彼女の手を解く。

 その時の俺の頭には、心配してくれるソフィアのことも、王太子としての体面も、何一つ残っていなかった。


 ただ、あの銀色を——見失いたくなかった。


「ですが——」


 制止の声を振り切るように、そのままドアへ向かう。


 背後でほんの一瞬だけ、空気がひどく冷えた気がしたが、振り返ることはなかった。


 扉を開けて廊下へ出た瞬間、曲がり角の向こうへ銀髪が消えていくのが見えた。


 俺はすぐさま、その後を追って足早に歩き出す。

 けれど、人目のある廊下では、彼女の歩調は一度も乱れることがなかった。


 だが——


 中庭に出て人気が途切れた瞬間、彼女はふっと立ち止まった。


 校舎の影が長く伸びた中庭は、夕暮れ間近の深い青に沈みかけていた。

 風に揺れる木々のざわめきと、遠くで鳴く鳥の声。

 湿り気を帯びた草の匂いが、医務室の消毒液の匂いに慣れた鼻をくすぐる。


 その静寂の中心で、彼女の銀髪だけが、西日の残光を反射して冷たく、けれど鮮烈に輝いていた。


 わずかに肩が上下し、息を整えるように小さく息を吐いた。


 ……なんだ?


 その姿は、いつも言われている“悪女”とは、どこか違って見えた。


 どこか寂しげなその背中を見て、思わず声をかけてしまっていた。


「……おい。何か——」


 言い終わる前に、びくり、と彼女の肩が跳ねた。


 ——今の、気づいていなかったのか。


 らしくない反応だな、と思った。

 だが次の瞬間には、何事もなかったかのように振り返る。


 その瞳は、いつもの冷たい紫に戻っていた。


 さっきの森で見た、あの痛ましい表情を思い出す。

 目の前の冷徹な仮面が、今にも粉々に砕け散りそうなほど危ういものに見えて、俺は言葉を失った。


「どうして怪我人がここにいるのかしら。言ったはずよ、私に近づくな、と」


 さっきまでの様子なんて、欠片も見せない。


 ……なんなんだ、こいつは。


「……心配して損した」


 思わず漏れた言葉に、彼女の表情が一瞬だけ揺れた気がしたが、それもすぐに消える。


「余計なお世話よ」


 ぴしゃりと返される。


 ……ああ、やっぱりだ。

 噂通りの、冷たい女。


「……本当に、分からない女だな」


 吐き捨てるように言って、踵を返す。


 そうでも言わなければ、あの瞳の奥にある『何か』に触れてしまいそうだった。


 もういい、関わるだけ無駄だ。


 そう思っているはずなのに。

 どうしてか、背中に視線を感じた気がした。


 ——気のせいだ。


 振り返ることはせず、そのまま歩き去った。


 ふと、足元に白いものが落ちているのに気づいた。


「……?」


 拾い上げると、それは上質な布でできたハンカチだった。


 隅に刺繍された紋章を見て、息が止まる。


 ——アシュフォード公爵家の紋章。


 指先に触れた布地は、驚くほど冷えていた。

 さっき中庭で感じた、あの名もなき花の香りが、そこからはかすかに、けれど確かに漂っていて。


「……っ」


 胸の奥が、焼けるように熱くなる。

 

 ——落としたのか。あいつが。

 

「……馬鹿だな、俺は」


 関わるなと言われた。

 あんなに酷い拒絶をされたばかりだ。


 ——それでも。


 俺の指は、その冷たい布を離すことができなかった。


 この香りを、俺は知っている。


 戻る理由なんて、どこにもない。


 だが——それを手放してはいけないと、身体が理解していた。



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